羽を休める鳥のように

きっとまた訪れる薄紫の夕暮れを待ちながら

クリスマスの思い出

2011年12月25日 | Weblog
先日の葬儀は次女の誕生日当日だった。
夜帰宅して彼女と小さい頃のビデオを見た。
赤ちゃんをあやす長女と長男。
年子のふたりのところにやってきた少し歳の離れた妹。

そういえば12月になると天袋からクリスマスセットをだして
子供たちと飾りつけたのを思い出す。
(わたしが小さい時は「本物のモミの木が欲しい」と親にねだって
しばらくして持て余し庭に植えた覚えがある)

我が家のツリーはホームセンターで買ってきたものだったけれど、
三人の子供たちは賑やかに飾り付けを楽しんでいた。
ふと思い出したのだが最後に木のてっぺんに差し込む大きな金色の星。
これを誰が飾るかで長男と次女がもめていたことがある。
いつも自分の役目だった息子は「○○ちゃんには届かないでしょ」と説得にかかり
なんでもやってみたい次女が「いすにのればできるもん!」とがんばっていたと
思う。長女はいつものとおりマイペースで我かんせずのようす。
でも歳の離れた二人がじゃんけんをしているあいだいつの間にか手に持って
いたりするのが彼女で、何事もないかに見えてちゃんと状況をみているのは
三人兄弟の真ん中の余裕だろうか。

こどもたちがクリスマスをそれぞれの恋人たちと過ごすようになって
何年も経つ。
次女へ誕生日のお祝いを買うときいつも「クリスマスプレゼントですね?」と
聞かれるのもこの時期だ。

鳥の群れが飛んでいく

2011年12月22日 | Weblog
昏睡状態の義父の病院へ行ったのは先週末だった。
わたしと長女が一生懸命に呼びかけたらうっすらと目を開けてくれて
(でも涙をたたえていた)肯いたようにも見えて、
「良かった、きっと回復するね」と言って帰ってきた翌日、
義父はかえらぬ人となった。
まるでかわいい孫が枕元にくるのを待っていたかのようだった。

通夜と葬儀の受け付けに次女と長男がたった。
喪服に身をつつんだ成長した孫たちをきっと義父は「よしよし」と
笑ってくれるだろうと思った。

ひと息ついて帰宅し新聞を読む。
最近ツイッターで見かける舞城王太郎の作品「やさしいナリン」だと
思い込んでいた。でも「やさしナリン」(新潮)
アドレナリンならぬ「やさしナリン」の分泌が激しい?ひとたちが登場するらしい。
病的なまでの「善意の人」を描く事でこの作品は「善意」や「共感」への
「強要」(震災後の日本の様子)を痛烈に批評しているのでは、、という
斉藤美奈子の文芸時評。そうなのか、と興味をひかれる。
そのまま「やさしナリン」という言葉が頭を離れない。読んでみたい。

義父の葬儀が終わり、退院の許可がでていた母を今日、迎えに行った。
あちこちに母は何かを短く書きとめている。
ティッシュペーパーの箱、メモ用紙、写真の裏、カレンダーの余白。
三度病室を変わったがいつも窓側だった。好きなテレビもみずに
いつも静かに過ごしていた。(夜間は騒ぎを起こしたこともあったようだが)
空を見て過ごしていたのだろう。
鳥の群れがとんでいく、という走り書きが数ヶ所にある。
こわい夢を見た、というメモもある。
誰がきてくれたか、何を食べたか、帰りたいのに帰れない、今日は何日?と、、。

病院へ面会に通う日々が終わり、今日からまた一階の母の部屋へと
様子を見に行く冬が始まる。
母の部屋からも外がよく見えるようにしよう。

パソコンが沈黙する前にブログ。

2011年12月17日 | Weblog
ふと気がついたらワードがなくなっていて
入力ができなくなっていて焦った。
先月だったかコントロールパネルで間違えて設定したのが
今頃不都合になったようで、復元をしたりいろいろしてみたが
ダメでお手上げ、、、。
と悲しくなって三日目、いまふとパソコンをあけて試しに
入力したらできた。良かった。でもワードが姿を消している。
また使えなくなるかもしれない。
今度兄がきたらサポートしてもらおう。

じぶんでも驚くほど最近「!」と感じて瞬間的な怒りを感じることがある。
パソコンが調子悪いときなんて「あら、まあ」と悠長にかまえていればよいのに
意に反して作業が進まず時間がなくてイライラするとアタマに血がのぼる
「キレル老人増える」とどこかで読んだけどその前兆かしらん。
それは本来の隠れていた本性なのか?

吉祥寺の駅前で人に逆らって病院方向へ歩いて行くとき
前から腕組みをしながら歩いてきた若い女性とぶつかりそうになって
すれ違いざま「ちっ」と舌打ちされた。
まあわたしはどこから見てもどんくさいオバサンなのかもしれない。
しかし「ちっ」が聞こえたあと引き返して「あんたねぇ」とケンカをうったら
スッキリするだろうと思った、ほんとに。。しないけど。

噴火寸前の気配で不機嫌になるという人はたまにいる。
そういう人のそばで気をつかい続けているとストレスもたまると思う。
相手に気を使いじぶんが不機嫌になる、というパターンを回避してきたつもりなので、
それがもう「やってらんない」感じになってきたのかなぁ、とも思う。
沸点??

でもこのていどならいいと思う。
「やってらんない」と思うとき、このごろわたしは沈黙することにしている。
相手がいるなら無視する。
無視してマイワールドに戻ってくればそれで落ち着くみたいよ。

母との会話であるていど忍耐も覚えたし、、、。


クリスマスの街角

2011年12月09日 | Weblog
家族が入院する、ということはいろいろな事態に直面して
それをどうにかこうにか受け入れぼんやりもしていられずに
もそもそと行動することだ。
いつもそうだったと思う。
今回、母のことでは衝撃的な出来事が病院でおきていた。
それを知り状態をみて母と話し、それから受け入れる。

面会時間を終えて吉祥寺まで歩く道は長い。
毎回違う道を通ってみるから小さな通りに雑貨屋や古本屋や喫茶店を
発見する。
そうして細い路地をぬけると吉祥寺の町。クリスマスソングが流れ
人々が行き交う。
病院で会釈したあの付き添いの女性(わたしよりもすこし年長にみえた)も
この町に溶け込んでいったのだろう。
おしゃれなきれいな人だった。
チューブで食事を流す高齢の人の傍らにいて声をかけ手を握っていた。
ご家族だろうか。
いまはあの女性も賑やかな師走の夜の町で買い物などして歩いているのだろうか。
抱え込んだ何かは多くの人がもっていてそれは誰からも見えやすい訳ではない。
街角を歩く人々の背中にも表情にもそれは見てとれない。
わたしもそう。あ、来年の手帳を買わなくてはと、ロフトへと足を向ける。

帰宅して簡単にじぶんだけの夕食を作って食べる。
そこへ連絡があり入院中の義父の具合があまりよくないことを知る。
ふと、立ち上がって洋服ダンスの中から喪服を探し出す。
結婚するときに母が用意してくれたアンサンブル。
父の葬儀に着てからしまいこんで10年は経つ。

喪服を眺めている。もちろん後ろめたい気持ちが居心地がわるい。
だけどそういう冬なんだと思う。
いつも冬だった。
父と訣れたのもこういう凍える冬の日だった。

ポケットティッシュ

2011年12月05日 | Weblog
もっともっと悪くなっていくのか、あるいは再びまた元気になるのか。
そればかりはわからない。
昨日、洗濯物をとりこみながらあまりに夕焼けがきれいなので、
ずっと遠くを眺めてみたら夕陽に染まった富士山が・・・!
「富士山が見える」と思わずスマホでツイッター。
ツイッターで知った「言葉を信じる 秋」は驚くほど素晴らしいメンバーだった。
「言葉を信じる 冬」も驚愕の(?)文学者が名を連ねている。
でも行けそうにない。

昨夜も母に足湯をさせて熱いおしぼりで顔も手もふいて
背中をさすって、とても静かに眠ってくれた、、と思っていた。
ところがなんと!早朝に目覚めた母はじぶんで救急車を呼んでしまった。
救急車のサイレンで目覚め「まさかね」と再び寝ようとしていたら
その「まさか」だった。
パジャマ姿で救急隊員にご対面。(母は杖を頼りに玄関へ行きドアをあけていた)

どこもかしこもなかなか受け入れてくれなかったが、ようやく三月に入院した所へ
外来受診まで待ってもよいので、ということで落ち着いた。
結果は三月の時と変化なし。今回、何かがあった訳ではないが本人が痛みを
訴えているからとあっさり入院が決まった。
一度帰宅して夕方近く再び行き手続きをして窓側の母のベッドへ。
「きたよ、どう?」と顔をのぞくと「痛いのに放っておかれる、うちに帰りたい、
うちに帰る、先生に帰るって言って」・・・・。

「病院に行く!」と大騒ぎ(?)するのをなだめて5日。
いざ病院に行けばこれだ。でも仕方ない。こういう症状なのだから、
いつでもわたしは「そうだね、もうすこし待ってね」とさすってあげるしかない。
母の身になってできるだけのことはしようと思う。でもちょっと疲れた。
痛い痛いと訴えていた本人は六時に夕食がきたら起こしてもらって
一粒も残さず完食した。食欲があればまた元気になってくれるかもしれない。
この食欲も症状のあらわれなのかもしれないけれど。

七人と一匹で暮らしていた家にひとりで帰る。真っ暗。
母の部屋の灯りをつけるといくつものポケットティッシュに
「○○子が何々を買ってきてくれた」「拭いてくれて助かった」など
黒いマジックペンで書いてあるのが見つかった。
すこし泣きそうになった。

母をみる日々

2011年12月02日 | Weblog
母が発症してから何年だろう。老人性欝症状でまったく何もできない冬があった。
わたしが作った野菜スープしか受け付けず歩くのも身の回りのことも
なにもできない日々があり、そこから少しずつ回復していった。

せっかく回復の兆しがある頃に転倒して逆戻りしたこともあった。
それでも、再びまたそこから復帰して、やがて歩くようになり、
ドライブに連れていってまた悪化したり、を繰り返した。

ここ二ヶ月ほどは驚くほど元気になり、一緒にバスで吉祥寺へ行くことも
できた。じぶんのペースでほぼ自立して暮らしていた。
わたしは見守っていればよかったのだ。

一週間前からまたがくんと悪くなった。
何が原因だろう?と兄に相談すると「精神的なものでは?」という。
メンタルでこれほど背中や腰などの痛みを激しく訴えるのか?
しかし、思い当たるのは、あまりに母が元気なので投薬を見届けていなかったこと。
もしかしたら捨てていたのでは??と焦る。
久しぶりに帰宅した次女が埼玉へ戻ったとたんに悪化したから、
さびしさもあったと思う。
そう考えると母がベッドの脇にぺたんと座り込んで立てなくなるのは
(もう四度目でわたしの力ではどうしようもない)不安や寂しさがあるようだ。

とくに夕方になると錯乱するのでふりまわされる。
家内に誰もいないとにわかに不安になるらしく「本屋の仕事」というわたしの
メモを見て電話。兄にも電話。「救急車で病院に行く!」と激昂する。

なだめて帰宅すると部屋がすごいことになっている。
思わずカッとして怒ってしまう。しかし兄がこう言っていた。
「相手は病人。同じ土俵に乗っからないこと。」ほんとにそうだ。

穏やかに言うことを聞いてくれるとき、
汚れ物を日に何度も洗濯するとき、
神様が「充分介護した、という満足を得るために与えてくれた時間か」と思う。
でもこころ穏やかにいつも笑顔で接していることもできない。
今日の夕方も杖で戸をガンガン叩いていた。
二階から母のいる一階へと階段をおりながら「これはいつまで続く?」と
思う。階段がもっと長ければ降りていく間に平静な表情もつくれたかもしれない。