羽を休める鳥のように

きっとまた訪れる薄紫の夕暮れを待ちながら

傘がなかった

2012年04月28日 | Weblog
「夏の暑さ」という予報は当たっていた。
ずっと上着を手に持っていてジャマだった。
すこし肌寒い日があったり今日のようにピカピカ晴れたりする。
先日は曇りの予報だったのに夕方から雨が降った。
突然の雨にどこの店でも傘を売りに出して
ついつい皆が立ち寄って物色する。
わたしも傘を見てみた。でも買わなかった。
家に帰れば傘は売るほどある。バスの時間まで待とうと商業ビルのベンチに座った。
年長に思えるご婦人がひとり座ってらしてふと静かな声で
「やはり傘がないんですの?」と聞かれた。
「はい、そうです」と答えたら、天気予報が外れたこと、
傘はうちにたくさんあるから要らないこと、三十分に一本あるバスに乗るため
ここで時間をつぶそうと思ったことなど、すべて「一緒です」と答えるほど
同じだった。
違うのは乗るバスだけだった。
「やむといいですね」「そうね、すこし雲が切れてきたかしら」と話して
時間を過ごした。
そのベンチはその日の昼間、長女と待ち合わせた場所だった。
「中野は全然ふってなかったよ」と後で娘からメールがきた。
別れ際の雨にすこし驚いてそれぞれの帰り道についたところだった。
これからは晴雨兼用の傘を持ち歩く日が多くなるだろう。
予報にはなくても雨はふいうちのようにやってくるかもしれないし、
今日のように日差しがまぶしい日も多くなる。

風待文庫、雨上がり。

2012年04月24日 | Weblog
ぼわぼわの髪を切りたい、美容院に行こうと思いつつ一日ずつ過ぎていく。
TAYAに行っていた頃は次回日を決めると割引きがあったので、
ほぼ予定通りに通っていたが、担当の女性が帰郷してしまったので、、。
先月は検索して吉祥寺の「セノーテ」というヨーロッパの図書館をイメージしたという
美容院に行ってみた。素敵なお店だったのでまた行くつもりだけど未定。
昨日は「風待文庫」再訪。
店主のやわらかな笑顔&人脈に呼び寄せられたひとたちがここで出会い集う。
「もう帰るところはありません」も「薄紫の冬桜」も棚に並べておいて下さっているので
かなり恥ずかしいが有り難いと思う。
詩のイメージと作者本人とのギャップのすきまで小さくなっていようと思うのに、
気がつけば店主にのせられて(?)他のお客様とぽこぽこ喋っていた。
誰かと出会う、というこころの準備がないまま行ったので、
髪はぼわぼわ、単純に重ね着した黒いカーディガン。
もっとちゃんとした格好してくればよかった~、、と取り乱すわたしに
店主はにこにこ。彼女に「すみれちゃん」と呼ばれるたびほんわか嬉しくなる。
でも(だから)ついついみんな(わたしも)長居してると思う。
MAYAさん、疲れないかな~とちょっと心配。
みんなに憩いの場を提供しつつサービス精神でフル回転しているような気もするから、
無理を重ねないようにがんばってほしい。


レッドロビン

2012年04月22日 | Weblog
小雨が降るのかな、と思いながらバスを待っていたら
「ああ、あのね、いいですか?」と話しかけられた。
バスを待つひとはほかにいないので
そちらを見ると見知らぬおじさんが笑顔だったので
「いいですよ」とスマホをバッグにしまう。
3日くらい前にここでバスを待っていてカバンから財布を落としたらしい。
それが植え込みに落ちているのを昨日見つけたとのこと。
警察に届けたあとで何気なく見に行ったらそこにそのままあった。
中身も全部あった、という話を嬉しそうにしてくれた。
植え込みの葉っぱと同じような色で財布が、、、という。
良かったですねとわたしも笑顔をかえした。
帰る頃、雨はゆっくり本格的に降り始めていた。
なんだっけ、あの植栽、と一生懸命木の名前を考える。
狭い家の庭にもあって、、、
あっという間に今年もすくすく伸びてもう手が届かない。
そうだ、レッドロビンだ。
目隠しの木は緑から茶色、赤色へときっちり役目を果たしたらしい。

歩み寄らない

2012年04月21日 | Weblog
曇り空はいい。
暑くなく寒くなく4月5月きっと10月あたり。
毎年この時期にひとり旅が出来たらいいなと思った。
昨年、伊豆で「よい気候プラス馴染む靴」があれば、
「じぶんはすこしは歩けるんだ」という発見があり
そのことは案外嬉しかった。
方向音痴だけれど地図を片手にマイペースで歩くことができる(すこしだけど)
小さな自信の入り口を見つけた気がしていた。
すこしは運動しないとね。

気分転換のクルマの助手席。
歩けるかも?多少半信半疑・・。。
来月、ひとり旅計画は母のこともあるし実現できるかどうかわからない。
実は行く先は決めてあるのだけれど。

そんな話を最近した。



とりあえず近くへ、秩父の枝垂桜。お見事!という感じ。

そして橋の上から長瀞の流れを見た。



気分転換のドライブの助手席にいても、
食い違うことはやはりあるからそれはカナシイ。
しかもイライラして思いも寄らないコトバを投げつけてしまうと
投げ返される。
カナシイことだと気がついて取り返そうとしても
歩み寄らない。そういえばそうだった。

無気力

2012年04月14日 | Weblog
だいたいわたしは春に憂鬱になることが多い。
まぶしい青空、さあこれからだという全体にみなぎる雰囲気が苦手なのだと思う。
うー、なんにもしたくなあい、、、と思う。
それでも花曇りくらいの日はすこし元気になり重いコートを脱ぎ、
春の装いででかけようかと思うときもある。
出かける先は病院だったりついでの買い物くらいだったりするけど。

今日は母のデイサービス。
昨年秋の半日開始当時から数回行ったけど、ここのところ続けて休んでいる。
もう行けるはずの格好をしている(自分で支度していた)から行くんだなと思っていると
行かない、無理して行ったって仕方ない、と頑固に拒否。
ほとんどケンカごしに怒る。

スタッフの若いかたが玄関まできてやさしく励ましてくれるのに行かない。
だから申し訳ないがせっかく迎えにきてくれたのに欠席している。

こちらの思う通りには何事もコトは運ばない。
それはまたストレスとなってじぶんにかえってくる。

介護でのストレスの一つは良かれと思ってしていることがうまくいかないことだ。
デイサービスだけではなくそれは日常的にいつもある。
イライラするときは「結局、母のためと思いつつ自分の勝手なのでは??」という
ゾーンに落ち込む。

そういうときは(こういうときも)なるべく自室にひきあげる。
そう「引き上げる」。パソコンやブログやメールはときに援護へとまわってくれる。

母と娘

2012年04月11日 | Weblog
昨夜は日頃思っていたこと(いわゆる本音)を思い切って吐露してみたら、
スッキリしたけどサッパリ眠れなくなった。
1時過ぎに眠剤も飲んでパッタリ寝るつもりだったのにいろいろなことが
思い浮かんで脳が覚醒して、結局イヤフォンで好きな曲を聴きながら
3時頃まで静かにしていた。

コメントもいただいたように「母と娘」というのは避けがたいテーマなのだと思う。
「母が重くてたまらない」(信田さよ子)という本もベストセラーになった。
タイトルに怖気づいて未読だけれどいつかは読んでみたい。

母との葛藤は普遍的かもしれないけれど客観視することができるなら、
すこしはラクになる。
渦中にいても一歩ひいてみることができればいいと思う。

幼児、わたしは可愛げのないのろまな女の子だった。
少ないモノクロ写真ではほとんど笑っていない。
ボーっとしているかカメラを睨んでいるかよそ見をしている。
そのぶん兄が、満面の笑顔でその場を補っているようにみえる。

母にとって、そういう娘は扱いにくいコドモだったろうか。

あまりそういう話をした記憶がない。
いくらか成長をして思春期も過ぎ会社員になった頃は母とジグソーパズルに夢中になった。
二人で次々とパズルを仕上げた。
パズルで作った写真の場所に行こうと二人で奈良へ旅行したこともある。
結婚をする前、とにかく旅が好きだったわたしは母を伴って津軽へも倉敷にも行った。

だから、仲が悪かったかといえばそれほどでもないと思う。
わたしもオトナになって、母を「考え方の違うひと・理想とは異なる女性」として
とらえていたことだけは事実だった。

こうしてブログという手段で行状を書いたり公表しちゃったりできるから、
「逃げ場と息抜き」があると考えて気をラクにすればいいかもしれない。

友だちとこういう話はあまりしないけれど、
「介護の先輩」のあるひとからは同じような話を聞いた。
そう、立ち場の逆転。
ずーっと負け戦だったのにある日ふと相手(母親)が戦線離脱してしまったと・・・。
いつの間にかじぶんが母の保護者になっていたと。

タクシー往復や病院で、すみません、ありがとうございます、よろしくお願いしますと
無言の母に代わってわたしが先に立つ事はごく自然の成り行きではあった。

母がディサービスに行くときは、
「一緒に来てくれないの?」と何度もわたしに訴える。
スタッフに声をかけてもらってようやく車に乗ると一生懸命に手を振っていて
なんだか可愛い。
さて母がいない間はどうしているかと時計を見ながら気にかかる。
帰りの時刻が近づくとそわそわして落ち着かない。
昔、学校に入った娘が心配で帰りの時刻になると外で待っていて
待ちきれなくて学校方向に歩いていったことを何度も思い出す。

でも母は幼いコドモではないし成長過程を見守る立ち場の「保護者」は全く違う。
焦点はそこにある。

介護二年生

2012年04月10日 | Weblog
介護という言葉にはなじみがなかった。
介助者、なら長女の障害者手帳利用の時に活用した。
(手帳所持者と介助者は乗り物や公園が安くなるので)

介護二年生となって思うことは、「立ち場の逆転」にいかに慣れるか、
という事だ。
これまで「絶対的権限者」「お小言提言フル回転」という印象だった母親が、
ある日を境にしーんと静かになる。
わたしは唐突に母の「保護者」のようになってメチャクチャ戸惑った。
戸惑いながらの一年生だった。
あれほどにつよかった母。いつも監視されているかのようなうっとうしさ。
いいトシをしていつまでもわたしは母の「娘」だった。
比較的元気だった頃も外出を好まず社交的とは縁遠く父に依存していた母は
家内へといつも目が行きいつも家族(孫含む)に気を配り心配していた。

掃除しなさい、片付けなさい、庭の草取り、あれやこれやといつも言われ続けていた。
ある日玄関に履き慣れた靴が見当たらない。
どこを探してもなくてふと裏庭に行ったらゴミ置き場に捨てられていた。
他のいろいろと一緒だったのでくたびれていたショートブーツはさらに傷つき、
もうはけないかもしれないという状態だった。
母に抗議すると「あらそう?まだ履くんだったの?あんたがなかなか片付けないからよ」・・。

わたしは仕事をして、長女の病院に通い五人家族の家事をどうにか
(手抜きしながら)こなしていた。
余裕は全くなく買い物する時間も自分にかけられる時間もなく、
生協で購入したその靴はたった一足の(安物の)ショートブーツだった。
「他のゴミの下敷きになってたからもう履けない」と母に言ったとたん涙があふれた。

つい一昨年までは母も体調を崩しながらもいやすぐれないからよけいに、
わたしの携帯電話にしょっちゅう電話してきた。
パンがないから買って来て、から駿が鳴いてウルサイけどどうするの?まで、いつも。
たまに気分転換に夜、次女と夫と三人でぬかりなく出かけると
帰宅したとたん「こんなに遅くまで遊んで、わたしがどうなってもいいってことだね?」
と怒られたりもした。

こう書くと母がすごく嫌な性格のひとみたいだけどそんなことはない。
穏やかでおとなしい。文句を言う相手はわたしひとりに限られていた。
(例えば孫の所業でも気にいらない時は必ずわたしだけに進言した)。

去年、母が家計簿を捨てると言って処分を任されたときふと中を見てみたら、
案の定、日記欄にはわたしの行動が全部記されていた。
これは正確で便利だと思ったくらい、。もちろん他の記録もきちんと書いてあった。

それほどに「支配」されていた感覚が強かったのでこの逆転は戸惑いの連続だった。
最初の頃は、手をつなぐことあえ照れもありサッとはできなかったと思う。
それはきっと母も同じかもしれない。
今はもちろんぎゅっとわたしの手や腕をつかんですこしずつ歩く。

言いたいことが山のようにあるのではないかと内心ヒヤヒヤしている。
山のように降り積もった不満を口に出せなくなって(立ち場が弱くなって)、
母を気の毒だと思う。
本人の胸のうちはわからない。
でもあれほどに文句の多かった母がわたしに何も注文をつけず怒りもしなくなったのは
あるていどはわたしの接し方を認め受けいれているからかもしれない。
文句全開のパワーが消失した母をわたしは口数も少なく「介護」している。
やさしい声かけはまだあまりできない。

だけど時間と気持ちの余裕はすこしだけできた。
母が言いたいだろうことを察知して掃除も片付けするつもりではいる。
介護二年生、まだまだ模索と試練は続く。

小学校の前

2012年04月06日 | Weblog

桜が満開のなか入学式が多かったようだ。
昨日は朝からうちの前の高校が賑やかだった。
今日は市役所の行き帰りかわいい小学生をたくさん見た。
平日なのにほとんどがパパも一緒。
いまどきのファミリーはパパも我が子の入学式のためには
休みをとるんだろうか。風潮なのかな。

この猫さんは小学校の近くにいるんだけれど、
登下校の頃には見かけない。
みんながお勉強をしている昼下がりに現れる。
模様は駿と同じ。
でも顔つきは野性的。
「流れ者の駿」といった風情。
最近レンタルDVDで「トゥルー・グリッド」という西部劇を見たので。