羽を休める鳥のように

きっとまた訪れる薄紫の夕暮れを待ちながら

届かない

2009年04月29日 | Weblog
「届かない」とわかったとき、それを再認識するとき、
何度も、なんどでも、諦める。

届いていたと確かに思えたときの記憶が、
よみがえり、悲しくなる。

届かなくなることなんて、いくらでもある。
ある日それは唐突に訪れるのだ。
遮断された出来事は、冷ややかな事実として示される。

わたしはまた、バスに乗り遅れた夢を見るだろう。
あのとき自分から、バスに乗り窓の外の不思議な景色を
眺めていたのに。
いつ、わたしはバスを降りたのだろう。
きっともう、しばらくは来ない。
来るのは不安を増長させるような、
訳の分からない行く先が書いてあるバスだけだ。

聖家族

2009年04月27日 | Weblog
「サグラダ・フアミリア」(聖家族)という中山可穂さんの文庫を、
古本屋で買ってそのまま置いておいたのを思い出して読み、
あっという間に読んでしまった。
あっという間に読める本というのはたしかにある。
だからつまらないかといえばそうでもないけれど、
やはり「白い薔薇の淵まで」の印象のほうが強烈だった。

娘からメールがきて、
「ともだちが授業に使うんだけど、うちに聖書ある?」という。
「あると思うよ」と返信して、
亡き父の書棚をざっと見てから、息子の書棚を見て見つけた。
息子はキリスト系の学校だったから。

父の聖書もどこかで見たような気がしたのだけれど、
と思いながらもう一度棚を見て、
これは?と取り出したのは黒い表紙の手帳だった。

懐かしい父の字を久しぶりに見た。

「真理は寒梅の如し 敢えて風雪に耐えて咲く」

と書いてあるようだが、「耐えて」という字がハッキリとは読めない。
違うかもしれない。
聞きたいけれど、もちろん、もう父はいない。
もっといろんな話をしたかった。

孤独

2009年04月25日 | Weblog
「人は孤独のうちに生まれてくる。恐らくは孤独のうちに死ぬだろう。
 僕等が意識していると否とに拘らず、人間は常に孤独である。
 それは人間の弱さでも何でもない、謂わば生きることの本質的な地盤である」

福永武彦のこの文庫本はあまりに何度も手にしたので、
もうだいぶ傷んでいる。
くりかえし開き、くりかえし読んだ。

好きな詩集を何度も読むように、
気がつくとふと手にしている。

そういえば、携帯電話は小さく固い決意をしたかのように、
ぷっつりと沈黙していることが多くなった。

沈黙しているのをいいことに、
わたしは気に留めなくなり、置き忘れたりしている。

だから活字をひろっている時間がすこし増えたようだ。

先日、珍しく携帯が点滅していた。
この点滅にすこしドキドキするようになった。
小さなピンク色の電話でも、充分にわたしを泣かせるから、
ちょっとだけこわい。

「今日、きみによく似た後ろ姿の女性が前を歩いていた」
と書いてあった。

わたしにどこか似ているそのひとはどこの誰で、
どんな人生を生きているのだろう。

どんなふうに孤独か、あるいはその孤独が見えないままにひとりで、
夕暮れの道を歩いていたのだろうか。

傷あと

2009年04月24日 | Weblog
お風呂に入ったら、小さな傷あとを発見した。
昨日はなかったと思うし、今日どこかでケガをした覚えもない。
お酒は呑めないから無意識のケガでもないし、
猫に引っかかれたようなあとでもない。

とても不思議な気分でその真新しいごく小さな赤い傷あとを眺め、
触れてみる。
気がつかなかったくらいだから痛くもない。
(気がついてみるとほんのすこし痛い)

小さなしるし。
傷ついたこころを慰めるために、与えられたような、、、。
お風呂上りの白い足に、鮮やかな赤。

たぶん少しずつ、治っていくだろう。
時間が経つから。
わたしがいつもみていたあの絶望は、
こうしてかたちを変えて、ときの流れにのるのだろうか。


平静を装う

2009年04月21日 | Weblog
翌日はさいわいなことに休みでしかも雨だった。
なんとやさしい雨だろう。
静かにしていればいいよと、ささやきながら降り続く。
もっと幸いなことに、家族はみな外出していた。
昨夜も誰もいなかったから、ほんとうに助かった。
ひとりで、呆然としていることができた。

朝、目が覚めて、昨日のことが事実なのだと確かめずにはいられない。
くずかごが涙をふいたり鼻をかんだりしたテイッシュの山だ。

ふと思い出す。
着替えようと服を脱ぐたびに涙があふれた。
仕事から帰ってきたとき。
もう寝ようとパジャマに着替えようとしたとき。
よろいを脱ぐように何かから解放されて気がゆるみ、
涙があふれる。

わたしはベッドの端に座って、キャミソールのまま泣いていた。

薬をのむために、食事をとらなければならない。
昨夜はカボチャのポタージュを温めた。
今日は昼ちかくなってから卵を割って、
フレンチトーストを作った。

いつまでも泣いているわけにもいかない。

これからどうすればいいのか考えた。
考えて、考えにとりあえずたどりついて一時しのぎの安堵を得た。

小雨のなか、自転車を走らせた。
「平静を装う」ってどういうことだろう。
すごくやっかいなことなんだろうか。
これから立ち向かわなければいけないことは、際限なくあるのだろうか。

朝、鏡を見たら泣きはらしたひどい顔をしていた。
でも夕方にはいつものように夕食をつくり、
「お帰り」と家族に言っている。
誰にも何も気づかれない。
一緒に食卓を囲み、娘がつけたテレビをみる。
笑っているじぶんを「笑ってる」ともうひとりの自分が見ていた。

ひさしぶりに泣いた

2009年04月20日 | Weblog
このちっぽけな携帯電話は、実に多くの出来事をわたしに
伝えてくれる。
うれしいことはゆっくりと、活字や手紙や、声で、知らされることが
多いけれど、緊急な用件、突然の知らせ、予期せぬ事態、は、
この小さな電話が計らずも背負った任務のようだ。


朝、その知らせをメール文として読む。
覚醒していない意識の中で意味が把握できない、もう一度読む。
ようやく伝わる。

涙が頬を伝い、頭が混乱し始める。

でも朝はぐずぐずしている時間がない。
いそいで顔を洗う。
鏡の前で笑ってみる。
がんばって仕事に行っておいで、とじぶんを励ます。

仕事中も、なんどか危なかった。
そのことはなるべく考えないようにして、仕事に集中し、
時間が過ぎるのをひたすら祈った。
はやくひとりになりたかった。

帰りのバス、花粉症に感謝しながら、そっと鼻をかみ、
ついでに目じりを拭う。

やっと自室に帰りついた。
ふと気がゆるんだ刹那、涙があふれだし、
両手で顔を覆って泣いているじぶんがいた。

涙腺は弱いから、本を読んでも泣くしもらい泣きもする。
「さあ、どうだ」というような映画やドラマでは泣かないが、、。
子供の病気でも事故でも泣いた。
父を亡くしたとき。
夫婦喧嘩したとき。
でも、じぶんのことで泣いたのはほんとうに久しぶりみたい。

泣くと鼻が真っ赤になるし目もはれてひどいことになる。
頭も痛くなる。

だから、なるべく泣かないようにしてきた。
格好悪いからだ。
もしも表面上に変化がみえなかったら、目の淵に涙をためて
唇をかむ回数は減っていただろう。

「流れるな、涙、、、こころでとまれ、、」という
みゆきさんの歌があったっけ。

これから毎日、こころでとめて、ふわっと笑ってやっていけるだろうか。
そして夜になったら、きっとやっぱり泣くんだろう。