羽を休める鳥のように

きっとまた訪れる薄紫の夕暮れを待ちながら

この雨 ふりやむとき

2010年11月30日 | Weblog
「この雨 ふりやむとき」(tpt)という劇を観に池袋へ行った。
クリスマス一色で華やかな東京藝術劇場を地下へと降りていく。
半円形の舞台がある小ホールは観客との距離がとても近い。
席は左サイドの前から二列目だったので、殆ど目の前、という感じだった。

異常気象が続く2039年のオーストラリア。
空から魚がふってくるところから物語は始まる。
窓の外では激しい雨が降っている。
雨は降り続き、時は逆流して1988年のロンドン。

でも、こうして数字をここに書けるのはチラシを読んだからで、
ぼんやり見ていると、いつの時代のエピソードなのか、
ここはどこなのか、そもそもあのひとは誰なのか、
複雑に入り組んでいて瞬時にはわからない。

舞台の中央には木のテーブルと椅子があり、あり続ける。
テーブルは文字通り食事をとる場所ともなり、
あるときはベッドにもなり、車上になり、崖にさえなる。
観客の想像力を信じた演出なのだと思う。
説明のようなことは文字も含めていっさいない。

少しずつ全体が見え始めて終盤に近づく。
いろいろなことがパズルの欠片のように思い出されて
組み合わされ完成されて「ああ、そうだったのか」と思ったとき
雨はすっかりやんでいた。
さざなみのように舞台の床を覆っていた水もいつしか潮がひくように
消えていた。

もう一度観たい、と思う劇だった。

河口湖紅葉回廊

2010年11月18日 | Weblog




「ライトアップ」
スポットライトを浴びた川沿いの木々。
この紅葉を母に見せようと河口湖まできた。
「あら、きれいだねえ」母は喜んでくれた、だけど人が多くて、、、
(平日だというのに)
木の根が多い足元は歩きにくい。
母はゆっくり歩くじぶんがみんなのジャマになるのではないかと、
気をもみながらの夜の散歩。



だいじょうぶ。ほらあんなに大きな木が見守ってくれている。
長い長いときをここで過ごし、
何度も春が来て夏をすごし秋を迎えて冬をこしたね。
そういいたかったけれど、カメラをかまえているうちに母は
もう橋のたもとまでひとりで先に向かっていた。
誰かに迷惑をかけないようにとする母の後ろ姿がすこしさびしかった。



川を離れて見上げた夜空のむこうに三日月。




投稿者

2010年11月15日 | Weblog
言いたいことがあったら、それは発信しよう。
小さな声に自信がなかったら、書いて表せばいいのだ。
わたしは若い母親だった頃、子どもをもったからこそ外に向けて
アンテナを張り巡らせようと考えていた。
新聞に投稿したことは何度もある。
家庭欄や、読者の広場で。忘れていた小さな切抜きを母親から
最近見せてもらった。
わたしは28歳の母親で「裸足の保育」について発言していた。

昨夜、帰宅してから朝刊を広げていたら、
ふと長女の投稿記事が目に入った。
彼女の投稿を読むのも何回目だろう。
社会的な発言のみならず、退院後に家族へ感謝の気持ちを表して
くれたこともある。

ところで先日のことだけれど、やはり本棚の奥から
「明日天気になあれ」という古い本が見つかった。
新聞社が家庭欄の記事をまとめたもので、
何人もの働く女性たちが登場する。
「その節はありがとうございました」という記者からの手紙も
はさんであった。
わたしは年子の子どもを二人も連れて働く「子連れのミニコミ紙記者」
としてそこに載っていた。
たしか新聞に投稿したことがきかっけで「逆取材」を受けたのだった。
小さなミニコミ紙では、記事も書くし写真も撮る、割り付けもすれば
校正もした。
職場の上司や友達の力を借りながら夢中で仕事をしていたし、
楽しかった。

転居のためにその仕事をやめたときは本当に残念だった。
あの頃、まだとても小さかった長女はいつからかわたしの手を離れ、
言うべき事を毅然と発言する女性に成長していた。

たとえば、愛。

2010年11月12日 | Weblog
家族が購入したものだけれど、
うちにはテレビドラマの原作シナリオ単行本が何冊もある。
山田太一さんと倉本聡さんの作品で、たしかにわたしはみていた。
でも本まで買おうとは思わなかったし読みもしなかった。
家人が何故それを買い求めたのかは知らないが、
本棚の奥に眠っていたドラマの原作本はとても懐かしいものばかり。
でもいらないので「巡り合う小舟」に乗せておいた。
アマゾンで検索してぽつぽつと誰かが求めてくれる。

「たとえば、愛」は大原麗子さんが主演だった。
もらわれていくまえにきれいにしてついでにパラパラと読む。

冬子、何かを言いかけて、ふと黙る、
小さな酒場、古い演歌がながれている、、などなど、、
脚本ならではのト書き、会話、すべて情景がありありと浮かぶ。
これは面白い、と思った。
でも読む時間はなく小舟をだした。

「たとえば、愛」はもうひとりの主役(売れない小説家)が書いた、
応募作品だった。
そのタイトルだけください、と屈辱的な申し出をテレビ局(だったか?)から受ける。
彼は俯いている。やがて、くくくと小声で笑い出し、
そのうちひとりで大笑いになる。
「たとえば、青」ですよ、それ。僕がつけたタイトル。

そういうシーンがあった。
彼は原田芳雄さんだったと思う。

役者さんが決まっていて何となく覚えているから、
よけいに生き生きと甦って楽しめるのかもしれない。

この本棚、「脚本家になりたい」と言いだし、今も「映画」と名のつく
仕事場の端にいる長男に
影響はあたえたのだろうか。

短編を読む

2010年11月01日 | Weblog
「いま何を読んでるの?」と聞かれた。
マリコ/マリキータ、池澤夏樹さんの、、、」と言っても、
はてなと言う反応が返ってくることはわかるので、
福永武彦、という名前もだしてみるがやはりはてなだったので、
軽井沢の話まですることになった。
聞かれた相手は読書家で年配で仕事で出会って良かったなと
思うかたのひとり。
時どき読み終わった本をくれる。

「マリコ/マリキータ」は面白い短編集だった。
池澤さんは福永武彦のご子息で芥川賞作家だけれど、
わたしは二冊ほど読んだだけで何となく敬遠していた。
でも三冊目でヒット
あの異国の雰囲気に馴染めないと思い込んでいたのに、
ここにある五編の短編は不思議な空気感でその異境へと誘ってくれた。
見知らぬ風なのだけれど、よそよそしくない。
思ったよりずっと軽やかに物語のなかへと入っていけた。

そういう意味で三冊目で「好きかも」と心を決めたのは沼田まほかるさん
「九月が永遠に続けば」で最初はいいな、と思ったけれど、
その次に読んだものがしっくりこなかった。
だけど諦めずに「アミダサマ」を読んでけっこういい感じで、
娘から借りた「痺れる」という短編集が読み進むうちに
どんどん面白くなってきた。
「落ち」がついているような娯楽作品といっては失礼だろうか・・・。

短編集というのは寝る前とか、昼休みなどにちょうど区切りよく
読むことが出来ていろいろな物語を味わうこともできるから愉しい。