羽を休める鳥のように

きっとまた訪れる薄紫の夕暮れを待ちながら

駿に会えた。

2011年07月25日 | Weblog
「状況に慣れてきた」なんていってる場合じゃなかった。
やはり高齢者に寄り添う、ということはタイヘンなことだ。
日々これ何か(じぶんやその他いろいろ)とのタタカイみたいな気もする。

「夕食なにが食べたい?・・・カレーにしようか?」
母が食べたいもの、食欲がわくもの、そして栄養にもなるもの、といつも考える。
たいしたものは作らない。でもご飯やパンや飲み物のことはいつも考えている。

「カレーそうだね、久しぶりだわ」
という会話のあと買い物に行き、さて、という段になって
「あとで持ってくるからね」(母は二世帯住宅の一階にいる)というと
「何もいらない、食べたくない」と言い出すのはいつもの事として、
「歯がないから食べられない」「え!?いつから?」「歯医者に預けてある」
そんなわけないでしょ、いつからなんて聞くだけムダだったがそういえばお昼のサラダも
そのまま冷蔵庫にあった。パンもかじりかけだった。
つい「はやく言ってよ、だったらそういう軟らかいもの作るのに・・・!」
「だから歯医者に、、、」「そんなわけ、、」となって口中を見せてもらい
「なんじゃそりゃ」の入れ歯紛失騒動になった。


どうしてそれを早く言わないのよ、いったいいつからなのよ、と言わずもがなの台詞が
口からでてしまい、心の中で「いやいやこれからスープかお粥を作ってあげて、
それから考えればいいことだ」とようやく思いつつ二階に戻り、
台所に立つと、ドアの隙間から駿が顔をだしたような気がする。
「そんなにイライラしないで」と駿が言ってくれる。


そう、先日わたしは夢の中で駿に会えた。
駿はネコのくせに「ちょっとだけ戻ってきたけどすぐまた行くよ」なんて
えらそうにしてた。

二月に駿がいなくなったのは「あとはおばあちゃんを頼む」ということなのかと思っていた。
たしかに駿のご飯とトイレの世話というしごとはなくなって三月に母が入院した。

駿がそばにいてくれる。
母やわたしや家族を見守っている、と思う。

夜になり階下に様子を見に行くと母は食べたくないと言っていた卵粥も残さず食べて
入れ歯もどこからか出てきたとのこと。
安心してかねて用意しておいた入れ歯保存カップを取り出す。
今度からここに入れておいて。分らなくならないように「入れ歯」表記を
カップと蓋に貼りつけた。
明日歯医者に行く、と支度をしていた母に「明日は行かないよ、予約は8月だからね」と
告げた。

駿、またきてね。イライラしそうなときは長いひげの愛猫のことを思い出そう。

猫の散歩

2011年07月21日 | Weblog
今年も八ヶ岳山荘へすこしだけ行ってきた。
山荘の窓が好き。
二階の窓、木々の緑、渡る風、小鳥たち。
一階の食卓からひとりで外を眺めていたら、
猫とおばあさんが雨上がりの小道をゆっくりと歩いて行くのが見えて
「あ」と思った。
おばあさんといっても背筋の伸びた素敵な雰囲気の女性で、
以前にもテラス越しに眺めていたら猫と犬を連れて散歩していた。
もう2年くらい前だったと思う。
良かった、またこの道をタイミングよく通ってくれた。

そう思って、以前のようにしばらくして同じ道を戻ってきてくれるのを待った。
待ちきれなくなり、わたしも小道に出る。
昔見た時は犬をゆったりとつなぎ、真っ黒い細い猫は自由に前後しながら散歩していた。
今回、犬の姿はない。
黒猫だけが尻尾をピンと上げて、やはりおばあさんの後ろをトコトコ歩いていた。

しかしいつまで待ってももう会えなかった。
おばあさんとお話ができるかも、運が良ければ黒猫と仲良くなれるかも、と期待して
待ったがダメだった。
あんなに自由に散歩ができるお利口な猫さんをわたしは他に知らない。
きっとあの森の奥に仲良く住んでいるのだろう。
絵本から抜け出てきたような一人と一匹だった。


慈しみ深い

2011年07月17日 | Weblog
キライな夏、頭痛薬の在庫を何度も確かめる夏。
でも今年の夏はラッキーだ。
仕事を辞めたからあの外でのつらい業務がない。
古本屋のバイトだけで家事も(家族構成と従事内容の変化で)ぐっと減り、
好きなように過ごしている。
いま、母もそれなりに元気に過ごしている。
(誤解を恐れずに言うなら認知症は狂気に近い。夢と現は混在し、
言動は幾度も繰り返される。そしてわたしはその状況に慣れてきた。)

先日、娘が家に来たので、
長崎で買ったキティちゃんのキイホルダーを渡した。
教会で目を閉じてお祈りしているキティちゃんで、
誕生月ごとに種類がある。
長女、アクアマリンカラー「何事にも勇敢な三月生まれさん」
次女、ターコイズカラー「幸運の持ち主 十二月生まれさん」と書いてある。
二人ともピッタリで笑える。

わたしはアメジストカラーで「慈愛に満ちた二月生まれ」とあって、
よくわからない。
賛美歌の「慈しみ深き 友なるイエスは 罪とが憂いをとり去りたもう」
というのをふと、思い出す。(クリスチャンではないけれど)
そうだ、母もわたしと同じ二月生まれなのだった。

いつくしみふかい・・・時として童心にかえったかのような母の表情を思う。

五足の靴

2011年07月06日 | Weblog
「五足の靴が五個の人間を選んで東京を出た。
五個の人間は皆ふわふわとして落ち着かぬ仲間だ。」

これは明治40年の夏、新聞に連載された旅行記の書き出しで、
五人は、与謝野鉄幹、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎、平野万里。
鉄幹は三十代だが、ほか四人はまだ二十代前半の若さだった。

五人の若者は東京から汽車で、まず白秋の家がある福岡へ行き、
長崎から荒天の中を船で熊本県の天草へ渡り、真夏の海岸線を徒歩で南下する。

わたしは今回の旅を計画した今年の五月まで、この事は全く知らなかった。

図書館で借りたガイドブックにその名も「五足の靴」という立派なホテルが
あるのを見てその由来を知ることになった。
予算内では宿泊できないようなホテルだったが「五足の靴・遊歩道」も整備されて
いる。文学碑もある。

いずれにしても、天草は車がないと不便でとても回れない、という印象だった。
照りつける日差しの中、有明海の青さを眺めながら快速バスを待つのはわたしだけ。
乗用車が何台も通って行き、循環バスが来るたび地元の人が乗って去っていく。

この炎天下を明治の若い文学者たちが学生服やスーツ姿に革靴というスタイルで、
32キロも歩いていったというのは驚異的だ。
彼等は大江天主堂を目指し、宣教師に会う目的があったという。

わたしはとても彼等の足跡を追うことはできなかった。
でも熊本・天草から長崎・島原、諫早へと海と黄昏を堪能した旅だった。
陽が暮れる、やがて夜がくる、その大好きな時間を異郷の地で、
存分に味わった。(寂しさは微塵もなく、ひたすら気楽だった)

帰ってからすぐに書棚から白秋の「邪宗門」を取り出した。
諫早の詩人伊東静雄詩集は行く前に再読していたが白秋はまだだった。


「われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。
 黒船の加比丹を、紅毛の不可思議国を、
 色赤きびいどろを、、、」

      (邪宗門)