ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

主語がない

2022-05-23 11:12:56 | 日記・エッセイ・コラム
日本語には主語がない。
もう随分と前の話だが、
そんなことを記してる本を読んだ。
ときにその通りだと思った。
今も思っている。
しかして、
これは日本語の不思議さの大きな一つ、
かと。
それは人間の在り方の大本であり、
その大本を素直に体現していると。
欧米などではどうだろう、
日本ではヒトのことを、
人と言うのは勿論だが人間とも言う。
てか人間と言う方が多い。
その方が普通だろう。
そこが何とも面白い。
・・・・・
言葉の始まりを想えば、
初めに文法があったとは思えない、
初めは単語だったろう。
その上で単語の繋がり(文=あや)が出来たと。
そこに主語という発想はなかったと。
でも「あや」をよりよく伝えるには、
主語的なものが必要になる。
そして「主語+動詞+目的」などとなる。
それが所謂文法である。
にしても、
言葉は時代とともに変わりゆくもの。
文法も同様だがこれは変わりにくい。
そう言われている。
想うに日本語はその始まりを留めている。
それが主語がないということで、
これは省略しているのではない。
そういう文法なのです。
主語を省略してるとは、
欧米語に合わせる為に言ってるだけで、
明治以降の欧米化の残滓なのだ。
例えば、
ここにお母さんと子供がいる。
お母さんが子供に問う。
「お兄さんはどこへ行ったの」と。
子供が答える。
「彼は学校へ行った」と。
ここには主語+目的+動詞がある。
ここにあるのは彼の一般的な話ではない。
ここにあるのは彼の今の状況の話である。
それがここでの主題である。
この主題に答えるのに主語はいらない。
だから子供の答えとしては、
「学校へ行った」で十分。
更に言えば動詞もいらない。
「学校」だけでよい。
それで十分なのだ。
だからです。
主題から見れば要らないと。
省略ではなく不要なのだと。
主語は主題にとっては要素の一つでしかなく、
それなくして成り立たないものではない。
持ち出せば却って煩わしいことにも。
それが日本語の特徴です。
その鍵はもって「てにをは」にあると。
「てにをは」は言葉を繋いで「あや」を付ける。
それを文と謂うが、
ときに単語単体だけでもそれをなす。
しかもときに口に出さなくとも。
そこに妙がある。
ところで、
「てにをは」がなく、
それを語順だけで為そうとは。
だから欧米語は主語が欠かせないのです
そんな煩雑で実に厄介な言語である。
そう思うのです。
・・・・・
ちなみに、
主題とは「ときの場」にある。
そこにあるすべてのものが対象となるが、
中でも己と関係性の高いものに関心が集まる。
人にとってその大なるは人間関係である。
だからかヒトは人だが人間ともいう。
というより概ね人間という。
それはつまり場と人は常に一体だということ。
とはいえ関心対象は人だけではない。
他のものに於いてもある。
それに比して、
欧米では場より前にヒトがある。
ヒトが場から浮いているのです。
だからそこでは先ずヒト(我)があり、
それが固定してしまう。
それが言葉にも表われ、
だからか「てにをは」は求めない。
かくて語順が固定し主語が外せなくなる。
それもこれも我が突出するからだが、
その結果として諍いが絶えない。
話し合いが大切と言いながら、
決して解決しない袋小路。
それが今のウクライナ。
表向きは武力衝突の体だが、
内実は魑魅魍魎と化した言葉の泥仕合。
桑原!桑原!