日本語には主語がない。
もう随分と前の話だが、
そんなことを記してる本を読んだ。
ときにその通りだと思った。
今も思っている。
しかして、
これは日本語の不思議さの大きな一つ、
かと。
それは人間の在り方の大本であり、
その大本を素直に体現していると。
欧米などではどうだろう、
日本ではヒトのことを、
人と言うのは勿論だが人間とも言う。
てか人間と言う方が多い。
その方が普通だろう。
そこが何とも面白い。
・・・・・
言葉の始まりを想えば、
初めに文法があったとは思えない、
初めは単語だったろう。
その上で単語の繋がり(文=あや)が出来たと。
そこに主語という発想はなかったと。
でも「あや」をよりよく伝えるには、
主語的なものが必要になる。
そして「主語+動詞+目的」などとなる。
それが所謂文法である。
にしても、
言葉は時代とともに変わりゆくもの。
文法も同様だがこれは変わりにくい。
そう言われている。
想うに日本語はその始まりを留めている。
それが主語がないということで、
これは省略しているのではない。
そういう文法なのです。
主語を省略してるとは、
欧米語に合わせる為に言ってるだけで、
明治以降の欧米化の残滓なのだ。
例えば、
ここにお母さんと子供がいる。
お母さんが子供に問う。
「お兄さんはどこへ行ったの」と。
子供が答える。
「彼は学校へ行った」と。
ここには主語+目的+動詞がある。
ここにあるのは彼の一般的な話ではない。
ここにあるのは彼の今の状況の話である。
それがここでの主題である。
この主題に答えるのに主語はいらない。
だから子供の答えとしては、
「学校へ行った」で十分。
更に言えば動詞もいらない。
「学校」だけでよい。
それで十分なのだ。
だからです。
主題から見れば要らないと。
省略ではなく不要なのだと。
主語は主題にとっては要素の一つでしかなく、
それなくして成り立たないものではない。
持ち出せば却って煩わしいことにも。
それが日本語の特徴です。
その鍵はもって「てにをは」にあると。
「てにをは」は言葉を繋いで「あや」を付ける。
それを文と謂うが、
ときに単語単体だけでもそれをなす。
しかもときに口に出さなくとも。
そこに妙がある。
ところで、
「てにをは」がなく、
それを語順だけで為そうとは。
だから欧米語は主語が欠かせないのです
そんな煩雑で実に厄介な言語である。
そう思うのです。
・・・・・
ちなみに、
主題とは「ときの場」にある。
そこにあるすべてのものが対象となるが、
中でも己と関係性の高いものに関心が集まる。
人にとってその大なるは人間関係である。
だからかヒトは人だが人間ともいう。
というより概ね人間という。
それはつまり場と人は常に一体だということ。
とはいえ関心対象は人だけではない。
他のものに於いてもある。
それに比して、
欧米では場より前にヒトがある。
ヒトが場から浮いているのです。
だからそこでは先ずヒト(我)があり、
それが固定してしまう。
それが言葉にも表われ、
だからか「てにをは」は求めない。
かくて語順が固定し主語が外せなくなる。
それもこれも我が突出するからだが、
その結果として諍いが絶えない。
話し合いが大切と言いながら、
決して解決しない袋小路。
それが今のウクライナ。
表向きは武力衝突の体だが、
内実は魑魅魍魎と化した言葉の泥仕合。
桑原!桑原!
もう随分と前の話だが、
そんなことを記してる本を読んだ。
ときにその通りだと思った。
今も思っている。
しかして、
これは日本語の不思議さの大きな一つ、
かと。
それは人間の在り方の大本であり、
その大本を素直に体現していると。
欧米などではどうだろう、
日本ではヒトのことを、
人と言うのは勿論だが人間とも言う。
てか人間と言う方が多い。
その方が普通だろう。
そこが何とも面白い。
・・・・・
言葉の始まりを想えば、
初めに文法があったとは思えない、
初めは単語だったろう。
その上で単語の繋がり(文=あや)が出来たと。
そこに主語という発想はなかったと。
でも「あや」をよりよく伝えるには、
主語的なものが必要になる。
そして「主語+動詞+目的」などとなる。
それが所謂文法である。
にしても、
言葉は時代とともに変わりゆくもの。
文法も同様だがこれは変わりにくい。
そう言われている。
想うに日本語はその始まりを留めている。
それが主語がないということで、
これは省略しているのではない。
そういう文法なのです。
主語を省略してるとは、
欧米語に合わせる為に言ってるだけで、
明治以降の欧米化の残滓なのだ。
例えば、
ここにお母さんと子供がいる。
お母さんが子供に問う。
「お兄さんはどこへ行ったの」と。
子供が答える。
「彼は学校へ行った」と。
ここには主語+目的+動詞がある。
ここにあるのは彼の一般的な話ではない。
ここにあるのは彼の今の状況の話である。
それがここでの主題である。
この主題に答えるのに主語はいらない。
だから子供の答えとしては、
「学校へ行った」で十分。
更に言えば動詞もいらない。
「学校」だけでよい。
それで十分なのだ。
だからです。
主題から見れば要らないと。
省略ではなく不要なのだと。
主語は主題にとっては要素の一つでしかなく、
それなくして成り立たないものではない。
持ち出せば却って煩わしいことにも。
それが日本語の特徴です。
その鍵はもって「てにをは」にあると。
「てにをは」は言葉を繋いで「あや」を付ける。
それを文と謂うが、
ときに単語単体だけでもそれをなす。
しかもときに口に出さなくとも。
そこに妙がある。
ところで、
「てにをは」がなく、
それを語順だけで為そうとは。
だから欧米語は主語が欠かせないのです
そんな煩雑で実に厄介な言語である。
そう思うのです。
・・・・・
ちなみに、
主題とは「ときの場」にある。
そこにあるすべてのものが対象となるが、
中でも己と関係性の高いものに関心が集まる。
人にとってその大なるは人間関係である。
だからかヒトは人だが人間ともいう。
というより概ね人間という。
それはつまり場と人は常に一体だということ。
とはいえ関心対象は人だけではない。
他のものに於いてもある。
それに比して、
欧米では場より前にヒトがある。
ヒトが場から浮いているのです。
だからそこでは先ずヒト(我)があり、
それが固定してしまう。
それが言葉にも表われ、
だからか「てにをは」は求めない。
かくて語順が固定し主語が外せなくなる。
それもこれも我が突出するからだが、
その結果として諍いが絶えない。
話し合いが大切と言いながら、
決して解決しない袋小路。
それが今のウクライナ。
表向きは武力衝突の体だが、
内実は魑魅魍魎と化した言葉の泥仕合。
桑原!桑原!