今言葉は貶められている。
とことん貶められている。
言葉は本来中立である。
負のイメージを持つものもあるし、
良いイメージを持つものもあるが。
それはどちらも必要なもので、
しかもそれは人がそのように感応してるだけだ。
言葉は中立である。
それに時にはイメージが逆転することもあろうし。
すべては人の技である。
・・・・・
ちょっと前まで忖度という言葉が飛び交っていた。
負のイメージを貼り付けられて。
忖度とは「他人の心中をおしはかる」ことです。
これは他人を思いやるという、まさに「おもてなし」の心である。
にもかかわらず貶められていた。
件の最大の被害者は忖度という言葉だろう。
政治とは人を仕切るのが仕事である。
役人はそれを実行する人である。
なら役人が政治家の意向を尊重するのは当然である。
つまり忖度すべきなのだ。
それがいけないなら、それは職務放棄である。
忖度せず放置すれば、それこそ犯罪的仕業と言うべきだろう。
言葉を貶めるなかれ。
言葉はそも中立である。
・・・・・
勿論役人にも個人的には思想信条の自由はある。
政治家の意向に従いたくないときもあるだろう。
それでも従うのが役人である。
この時、形としては面従腹背ということになる。
この言葉は余り良いイメージではない。
気に入らないけれども実行する、というなら問題はない。
表向きは従うが実際は実行しない、というなら大問題である。
面従腹背は後者で使われる。
だから負のイメージがあるのだ。
例の文科省前事務次官の前川某が堂々と使っていた。
自分は面従腹背だと。
それを肯定的に扱っていたのがリベラル人士やメディアである。
それは勝手にしろだが、余りにも得手勝手である。
これがリベラルの悪弊である。
・・・・・
直近では首相案件というのがある。
これは言葉としてのイメージはまさに中立である。
何も問題がない。
行政府のトップである首相が先頭に立って推進してるなら、
それを首相案件と言っても差し支えない。
安倍晋三案件なら問題だが。
それなら私的な案件ということで公私混同になるだろう。
あくまで首相案件なのだ。
でもメディアは鬼の首を取ったように報道していた。
安倍政権打倒なら何でもありで、
どんな言葉にも負のイメージを貼り付ける。
しかもそれは彼らが一方的に言ってるだけで、
公文書には一切載っていないのだ。
いやはやリベラルは末期症状である。
・・・・・
昨今はセクハラ問題がまたややこしい。
これも官僚のトップ、事務次官がからんでいる。
しかしこれは個人の問題である。
当事者を糾弾するのは当然だが、
内閣(や大臣)の責任にするのはお門違いである。
そのお門違いを堂々とやっている。
国民も舐められたもんである。
勿論セクハラはいけないが、
こんな体たらくだと、
裏があるのかと勘繰られるだけだ。
勿論あるのだろう。
なお本件は得意のレッテル貼りではなく、
もう一つの得意技「問題のすり替え」である。
飽きもせずよくやるもんだ。
・・・・・
さすがに国民も呆れてるだろう。
と思うのだが、同調する者もいるようだ。
喝!
とことん貶められている。
言葉は本来中立である。
負のイメージを持つものもあるし、
良いイメージを持つものもあるが。
それはどちらも必要なもので、
しかもそれは人がそのように感応してるだけだ。
言葉は中立である。
それに時にはイメージが逆転することもあろうし。
すべては人の技である。
・・・・・
ちょっと前まで忖度という言葉が飛び交っていた。
負のイメージを貼り付けられて。
忖度とは「他人の心中をおしはかる」ことです。
これは他人を思いやるという、まさに「おもてなし」の心である。
にもかかわらず貶められていた。
件の最大の被害者は忖度という言葉だろう。
政治とは人を仕切るのが仕事である。
役人はそれを実行する人である。
なら役人が政治家の意向を尊重するのは当然である。
つまり忖度すべきなのだ。
それがいけないなら、それは職務放棄である。
忖度せず放置すれば、それこそ犯罪的仕業と言うべきだろう。
言葉を貶めるなかれ。
言葉はそも中立である。
・・・・・
勿論役人にも個人的には思想信条の自由はある。
政治家の意向に従いたくないときもあるだろう。
それでも従うのが役人である。
この時、形としては面従腹背ということになる。
この言葉は余り良いイメージではない。
気に入らないけれども実行する、というなら問題はない。
表向きは従うが実際は実行しない、というなら大問題である。
面従腹背は後者で使われる。
だから負のイメージがあるのだ。
例の文科省前事務次官の前川某が堂々と使っていた。
自分は面従腹背だと。
それを肯定的に扱っていたのがリベラル人士やメディアである。
それは勝手にしろだが、余りにも得手勝手である。
これがリベラルの悪弊である。
・・・・・
直近では首相案件というのがある。
これは言葉としてのイメージはまさに中立である。
何も問題がない。
行政府のトップである首相が先頭に立って推進してるなら、
それを首相案件と言っても差し支えない。
安倍晋三案件なら問題だが。
それなら私的な案件ということで公私混同になるだろう。
あくまで首相案件なのだ。
でもメディアは鬼の首を取ったように報道していた。
安倍政権打倒なら何でもありで、
どんな言葉にも負のイメージを貼り付ける。
しかもそれは彼らが一方的に言ってるだけで、
公文書には一切載っていないのだ。
いやはやリベラルは末期症状である。
・・・・・
昨今はセクハラ問題がまたややこしい。
これも官僚のトップ、事務次官がからんでいる。
しかしこれは個人の問題である。
当事者を糾弾するのは当然だが、
内閣(や大臣)の責任にするのはお門違いである。
そのお門違いを堂々とやっている。
国民も舐められたもんである。
勿論セクハラはいけないが、
こんな体たらくだと、
裏があるのかと勘繰られるだけだ。
勿論あるのだろう。
なお本件は得意のレッテル貼りではなく、
もう一つの得意技「問題のすり替え」である。
飽きもせずよくやるもんだ。
・・・・・
さすがに国民も呆れてるだろう。
と思うのだが、同調する者もいるようだ。
喝!
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