ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

言葉を貶める輩

2018-04-20 16:41:21 | 日記・エッセイ・コラム
今言葉は貶められている。
とことん貶められている。
言葉は本来中立である。
負のイメージを持つものもあるし、
良いイメージを持つものもあるが。
それはどちらも必要なもので、
しかもそれは人がそのように感応してるだけだ。
言葉は中立である。
それに時にはイメージが逆転することもあろうし。
すべては人の技である。
・・・・・
ちょっと前まで忖度という言葉が飛び交っていた。
負のイメージを貼り付けられて。
忖度とは「他人の心中をおしはかる」ことです。
これは他人を思いやるという、まさに「おもてなし」の心である。
にもかかわらず貶められていた。
件の最大の被害者は忖度という言葉だろう。
政治とは人を仕切るのが仕事である。
役人はそれを実行する人である。
なら役人が政治家の意向を尊重するのは当然である。
つまり忖度すべきなのだ。
それがいけないなら、それは職務放棄である。
忖度せず放置すれば、それこそ犯罪的仕業と言うべきだろう。
言葉を貶めるなかれ。
言葉はそも中立である。
・・・・・
勿論役人にも個人的には思想信条の自由はある。
政治家の意向に従いたくないときもあるだろう。
それでも従うのが役人である。
この時、形としては面従腹背ということになる。
この言葉は余り良いイメージではない。
気に入らないけれども実行する、というなら問題はない。
表向きは従うが実際は実行しない、というなら大問題である。
面従腹背は後者で使われる。
だから負のイメージがあるのだ。
例の文科省前事務次官の前川某が堂々と使っていた。
自分は面従腹背だと。
それを肯定的に扱っていたのがリベラル人士やメディアである。
それは勝手にしろだが、余りにも得手勝手である。
これがリベラルの悪弊である。
・・・・・
直近では首相案件というのがある。
これは言葉としてのイメージはまさに中立である。
何も問題がない。
行政府のトップである首相が先頭に立って推進してるなら、
それを首相案件と言っても差し支えない。
安倍晋三案件なら問題だが。
それなら私的な案件ということで公私混同になるだろう。
あくまで首相案件なのだ。
でもメディアは鬼の首を取ったように報道していた。
安倍政権打倒なら何でもありで、
どんな言葉にも負のイメージを貼り付ける。
しかもそれは彼らが一方的に言ってるだけで、
公文書には一切載っていないのだ。
いやはやリベラルは末期症状である。
・・・・・
昨今はセクハラ問題がまたややこしい。
これも官僚のトップ、事務次官がからんでいる。
しかしこれは個人の問題である。
当事者を糾弾するのは当然だが、
内閣(や大臣)の責任にするのはお門違いである。
そのお門違いを堂々とやっている。
国民も舐められたもんである。
勿論セクハラはいけないが、
こんな体たらくだと、
裏があるのかと勘繰られるだけだ。
勿論あるのだろう。
なお本件は得意のレッテル貼りではなく、
もう一つの得意技「問題のすり替え」である。
飽きもせずよくやるもんだ。
・・・・・
さすがに国民も呆れてるだろう。
と思うのだが、同調する者もいるようだ。
喝!

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