ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

泥沼のシナ

2016-07-04 10:01:47 | 日記・エッセイ・コラム
朝鮮人は事大主義だと言われる。
強い者に付いて、どこまでも従うという。
そういう質である。
歴史の為せる業か。
・・・・・
シナも事大主義である。
むしろ本家本元である。
事大主義とはどこまでも自分本位・自分中心であり、
それを中華思想と言っている。
自分が強い時は親分のように振る舞う。
自分より強い者が現れれば平然と従う。
現今はシナ人の共産党が支配し、周辺民族を圧迫している。
だが過去の中華王朝の多くは外来民族であった。
強い者には結局従うのである。
それが習い性となっている。
それが事大主義である。
今もそうである。
シナ共産党は欧米とは決して戦争をしない。
朝鮮戦争も例外ではない。
あれはアメリカと戦争をしたものではなく、
あくまでも朝鮮とのことだ。
事大主義とはまことに、
そこに生きる者にとっての知恵であり、
泥沼に築いた砦である。
・・・・・
ゆえにシナには「まこと」はない。
言葉はすべて自分の都合に因する。
嘘と真言の区別がないのである。
どこまでもプロパガンダなのだ。
そういうことだから、日本人の感覚では理解不能である。
そこは押さえておこう。
そこを押さえていれば、シナの行動は手に取るように分かる。
人類は元々は一つである。
言語的にも宗教的にも。
ならば、なぜそうなったのか。
それは歴史の為せる業としかいえない。
生きるためのせめぎあいが余りに厳しく、
その中で必要に迫られ身に付けたものだ。
だから他人を信用しない。
頼れるのは自分だけ。
これが習い性となる。
これは所謂生活習慣病である。
シナ民族の生活習慣病である。
・・・・・
何が欠けているのか。
それは祈りである。
日本人にとっては言葉は祈りである。
神様と向き合うものである。
そこでは余人を交えず、自らに向き合うことになる。
祈りの言葉は自らに問う言葉でもあるのだ。
シナにはそれがない。
言葉はあくまでも他人に問うものだ。
自分の都合で他人に問うだけである。
当然、嘘と真言の区別はない。
そこは欧米とも違う。
少なくとも欧米には信仰がある。
だから脱亜入欧なのか、
福沢諭吉が言ったのは。
それなら分かる。
うん!