ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

思うところ3

2023-06-26 09:59:43 | 日記・エッセイ・コラム
ところで最悪なのがポリコレです。
やはり一番の問題は言葉にあると。
聖書によれば、
楽園を追放される因となったもの、
それは智慧の実と言われるもので、
それが言葉である。
前段の天地創造を想えば、
神の言葉は真理であり現実である、と。
でも人は神ではない、
その言葉は仮想であり方便でしかない。
それを弁えていれば良し。
だが人はときにそれを忘れる。
そして現実無視の想念が徘徊する。
それが社会の現実(歴史伝統)を壊す。
今まさにそうなっている。
それがポリコレの目的か。
今やそのポリコレが社会に吹き荒れている。
それどころか国会の中でも吹き荒れている。
そこではまともな言葉ははじかれる。
だからか議論なしの問答無用。
もうドッチラケ。
・・・・・
そも現実から離れた言葉は空しい。
でもそれは人の言葉の常、
だからそれを概念という。
なかでも抽象的言辞は特にです。
自由・平等・友愛・権利・差別・正義・多様性など。
でも言葉とは本来そういうもの。
そも概念なのである。
でも言葉はむやみに出て来ることはない。
あくまで現実に触発されて出てくるもの。
てか現実を捉え(たつもりで)音に託すもの。
全身全霊で現実に対峙して、そこで捉えた思いを乗せる。
ときにそこに「まこと」がある。
それはその内容は問わないのだ。
捉えた「まんま」であればだが。
そういうものだと。
それがないものが虚(うつろ)。
その虚実は横に置いて、
放った音(声)には言霊が乗っている。
にしてもそれは波動だから、
ときとともにその場からは消えていく。
でもそれは記憶として脳に残る。
残滓としての言葉には意味はあっても言霊はない。
それは真でもなく虚でもないと。
どこまでも中立なのです。
ちなみに、
だから書き言葉には言霊が乗りにくい。
ときに乗ってはいても、
作者の手を離れれば一人歩きする。
そして必ず中立に寄っていく。
ゆえに読む人によって意味が変わる。
ゆえに読む人によって意味が変わっても又良し。
所謂文学作品は特に。
にしても作家には作家の想い(まこと)がある。
それは文脈から察知するしかない。
それは作品全体から察知するしかない。
そういうものだと。
ちなみに、
そも「まこと」があるとして、
それは察知できるのか。
それはできます。
言葉を持たない生き物を見ていれば分かる。
彼らはまさにそれを頼りに生きている。
それが「まんま」に生きるということ。
それを疑う理由などない。
さらにちなみに、
それは人間を見ていても分かる。
ペットを飼っている人を、就中それが日本人ならば。
彼らの関係はまさにそれである。
もはや家族同然、
てかそれ以上か。
・・・・・
ここに時代を開く鍵がある。
想えば文化文明はすべて言葉で出来ている。
見た目にはモノと技術で出来ているように見えるが。
でもその根には言葉がある。
言葉なしでは技術は有り得ないし、発展することもない。
それに文化文明のもう一つのもの、宗教哲学科学もまた。
それらはすべて言葉に依っている。
このこと疑いようなし。
ヒトに身体と心魂(精神)があるように、
文化文明にも「もの」と「こと」がある。
にしても、
ヒトの身体だけは人の言葉では創れない。
それは専ら神の言葉に依っている。
勿論心魂も根っこはそうなのだが。
と謂うことで、
結局すべては言葉なのです。
それがいにしえ人の想いか。
だから某公明党の言う「言葉と生きてゆく」とは、
まさにしかりです。
ヒトは四六時中言葉に取り憑かれている。
言葉なしではもう生きようがない。
一寸振り返れば分かるだろう。
このこと肝に銘じよう。
ときにそこに鍵がある。
言葉の一々の意味とともに、
同時にそのことを知ろうと。
つまり、
言葉のそういう質を心得て、
言葉に向き合いながらも、なお言葉に取り憑かれず。
これが対策のすべてである。
これは難しそうに見えるが、
でもその質を知っていれば、
何とかできると思うのです。
先ずはそこから。
さすれば流されることなく、
己の言葉の中で生きられる
ちなみに、
流されるなとは言うものの、
生活の多くの場面ではほとんどが方便で、
それは流されてもいいもの。
まあその辺は適当に。
でも昨今のポリコレはこれは酷い。
ともかく容赦なくヒトの心を切り刻む。
なかでも強力なのが「人権」と「差別」の連合軍。
これが彼らの伝家の宝刀である。
これがまた向かうところ敵なし。
もうどうしようもない。
あの国会がその例です。
まあほっとこう。
・・・・・
ということで、
今に始まったことではないが、
鍵はいつも目の前にある、
時代を開く扉の鍵は。
それにしても、
聖書はそれを初めから言っている、
そして警告している。
イエスは「汝狭き門から入れ」と言った。
その意味が私には今一わからない。
真剣に問うたこともない。
でも私の言っている鍵が何か近いような。
手前勝手ながらも、
そんなことを思う、
でも現下は見ての通りで、
鍵はまったく見えず、
言葉はただ人を縛る道具として、
そして人を支配する道具として、
使われている。
先ずはそれを知ろう。
後はボチボチでんな。