ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

文化という衣

2020-04-27 14:25:22 | 日記・エッセイ・コラム
人間は文化という衣を纏っている。
その文化を私は勝手ながらに定義している。
文化とは生き方の総体だと。
だとしても、
それなら人間以外に文化はあるのか。
それはない。
種によって行動様式は様々である。
それらはその種の生き方の総体に違いない。
でもそれを文化とは謂わない。
文化とは言葉が有ってこそである。
言葉を持たない生物に文化はない。
あえて言うなら、
前文化的形体とでも言おうか、
まあ言葉遊びですが。
・・・・・
でも前文化的形体は決定的な影響を持つ。
それは間違いない。
その形体こそが言葉を持つ端緒となったのだ。
ちなみに、
子供は父親と母親の細胞が結合して、
その結合した細胞から始まる。
そして母親の胎から生れ出る。
その間、胎内で生物進化の手順を追うという。
まさに不可思議かつ霊妙の極致である。
そこでは直接的に人間の意思は介在できない。
今ならそれをDNAの技とでも言うのだろう。
その成長は過去生物のすべての形質を追体験している。
だがその記憶は子にはない。
でも何かは残ってると思う、
過去生物の前文化的形体の、
存在の記憶として。
ともかくも、
生れてきた子供は言葉を持たない、
言葉を得る力は持っていても。
子供は母親や父親などを通じて言葉を覚える。
そして3才頃には人としての核ができる。
人間存在の核が。
では文化という衣はいつ頃できるのか。
先にそれは言葉が有ってこそと言った。
私一流の言葉遊びだが、私にとっては確信である。
基が言葉なら、言葉を得てから身に付けるものだ。
でも言葉を覚える過程こそ重要なのかも。
覚え始めは言葉と行動が無意識に交わる。
その最初に接した言葉は母語と謂われる。
当然母語の影響は決定的に大きいはずだ。
「三つ子の魂、百まで」と謂う。
もとより文化という面では、
その後もまた大人になってからでも、
得ることができる。
でもやはり幼児や子供時代の影響が大きいだろう。
それにDNAの影響も。
何でもDNAの影響だというのは安直だが。
でも影響はあると思う、
前文化的形体の影響が。
・・・・・
文化を生き方の総体と言い、
それは身に纏う衣であると。
そも身と心は一体です、生きている限りは。
身に纏うとは心に纏うこと。
しかして人の心に纏わるのは何より言葉です。
だから文化には言葉が伴なうと。
このことを聖書にかこつければ、
以下の通り。
人間以外の生物は言葉を持たない。
だから文化はない。
人も最初はそうであった。
だが智慧の実を食べてしまった。
言葉を持ったのだ。
ゆえに追放された。
他の生物は未だ楽園にいるのに。
では人はどこにいるのか。
物理的には同じ場にいる。
現に他の生物と共に生きているではないか。
でも次元が違うのだ。
霊的に切り離されたのである。
ではどんな世界にいるのか。
現実の世界ではない。
現実を言葉で切り取った世界である。
言葉を通じてしか世界を見られない。
自我や意識がそうさせるのだ。
それを取り払えば楽園になる。
聖書を残した人々はそれを知っていた。
だから何度も何度も警告している。
神の言葉(現実と預言)を通じて。
・・・・・
日本は稀有な国である。
そのことを熟知しているのだ。
大和は言霊の幸はう国と歌い、
大日本は神の国なりと喝破す。
現下の世界には様々な文化があって、
それらは皆それぞれであり、
好き嫌いはあっても、
そこに良し悪しはない。
しかし「こと」を熟知しているのは、
日本の文化しかない。
私の知る限り…。
だから学ぼう日本を、日本の文化を。
それは日本語でできている。
うたう言葉の日本語で。