人間は文化という衣を纏っている。
その文化を私は勝手ながらに定義している。
文化とは生き方の総体だと。
だとしても、
それなら人間以外に文化はあるのか。
それはない。
種によって行動様式は様々である。
それらはその種の生き方の総体に違いない。
でもそれを文化とは謂わない。
文化とは言葉が有ってこそである。
言葉を持たない生物に文化はない。
あえて言うなら、
前文化的形体とでも言おうか、
まあ言葉遊びですが。
・・・・・
でも前文化的形体は決定的な影響を持つ。
それは間違いない。
その形体こそが言葉を持つ端緒となったのだ。
ちなみに、
子供は父親と母親の細胞が結合して、
その結合した細胞から始まる。
そして母親の胎から生れ出る。
その間、胎内で生物進化の手順を追うという。
まさに不可思議かつ霊妙の極致である。
そこでは直接的に人間の意思は介在できない。
今ならそれをDNAの技とでも言うのだろう。
その成長は過去生物のすべての形質を追体験している。
だがその記憶は子にはない。
でも何かは残ってると思う、
過去生物の前文化的形体の、
存在の記憶として。
ともかくも、
生れてきた子供は言葉を持たない、
言葉を得る力は持っていても。
子供は母親や父親などを通じて言葉を覚える。
そして3才頃には人としての核ができる。
人間存在の核が。
では文化という衣はいつ頃できるのか。
先にそれは言葉が有ってこそと言った。
私一流の言葉遊びだが、私にとっては確信である。
基が言葉なら、言葉を得てから身に付けるものだ。
でも言葉を覚える過程こそ重要なのかも。
覚え始めは言葉と行動が無意識に交わる。
その最初に接した言葉は母語と謂われる。
当然母語の影響は決定的に大きいはずだ。
「三つ子の魂、百まで」と謂う。
もとより文化という面では、
その後もまた大人になってからでも、
得ることができる。
でもやはり幼児や子供時代の影響が大きいだろう。
それにDNAの影響も。
何でもDNAの影響だというのは安直だが。
でも影響はあると思う、
前文化的形体の影響が。
・・・・・
文化を生き方の総体と言い、
それは身に纏う衣であると。
そも身と心は一体です、生きている限りは。
身に纏うとは心に纏うこと。
しかして人の心に纏わるのは何より言葉です。
だから文化には言葉が伴なうと。
このことを聖書にかこつければ、
以下の通り。
人間以外の生物は言葉を持たない。
だから文化はない。
人も最初はそうであった。
だが智慧の実を食べてしまった。
言葉を持ったのだ。
ゆえに追放された。
他の生物は未だ楽園にいるのに。
では人はどこにいるのか。
物理的には同じ場にいる。
現に他の生物と共に生きているではないか。
でも次元が違うのだ。
霊的に切り離されたのである。
ではどんな世界にいるのか。
現実の世界ではない。
現実を言葉で切り取った世界である。
言葉を通じてしか世界を見られない。
自我や意識がそうさせるのだ。
それを取り払えば楽園になる。
聖書を残した人々はそれを知っていた。
だから何度も何度も警告している。
神の言葉(現実と預言)を通じて。
・・・・・
日本は稀有な国である。
そのことを熟知しているのだ。
大和は言霊の幸はう国と歌い、
大日本は神の国なりと喝破す。
現下の世界には様々な文化があって、
それらは皆それぞれであり、
好き嫌いはあっても、
そこに良し悪しはない。
しかし「こと」を熟知しているのは、
日本の文化しかない。
私の知る限り…。
だから学ぼう日本を、日本の文化を。
それは日本語でできている。
うたう言葉の日本語で。
その文化を私は勝手ながらに定義している。
文化とは生き方の総体だと。
だとしても、
それなら人間以外に文化はあるのか。
それはない。
種によって行動様式は様々である。
それらはその種の生き方の総体に違いない。
でもそれを文化とは謂わない。
文化とは言葉が有ってこそである。
言葉を持たない生物に文化はない。
あえて言うなら、
前文化的形体とでも言おうか、
まあ言葉遊びですが。
・・・・・
でも前文化的形体は決定的な影響を持つ。
それは間違いない。
その形体こそが言葉を持つ端緒となったのだ。
ちなみに、
子供は父親と母親の細胞が結合して、
その結合した細胞から始まる。
そして母親の胎から生れ出る。
その間、胎内で生物進化の手順を追うという。
まさに不可思議かつ霊妙の極致である。
そこでは直接的に人間の意思は介在できない。
今ならそれをDNAの技とでも言うのだろう。
その成長は過去生物のすべての形質を追体験している。
だがその記憶は子にはない。
でも何かは残ってると思う、
過去生物の前文化的形体の、
存在の記憶として。
ともかくも、
生れてきた子供は言葉を持たない、
言葉を得る力は持っていても。
子供は母親や父親などを通じて言葉を覚える。
そして3才頃には人としての核ができる。
人間存在の核が。
では文化という衣はいつ頃できるのか。
先にそれは言葉が有ってこそと言った。
私一流の言葉遊びだが、私にとっては確信である。
基が言葉なら、言葉を得てから身に付けるものだ。
でも言葉を覚える過程こそ重要なのかも。
覚え始めは言葉と行動が無意識に交わる。
その最初に接した言葉は母語と謂われる。
当然母語の影響は決定的に大きいはずだ。
「三つ子の魂、百まで」と謂う。
もとより文化という面では、
その後もまた大人になってからでも、
得ることができる。
でもやはり幼児や子供時代の影響が大きいだろう。
それにDNAの影響も。
何でもDNAの影響だというのは安直だが。
でも影響はあると思う、
前文化的形体の影響が。
・・・・・
文化を生き方の総体と言い、
それは身に纏う衣であると。
そも身と心は一体です、生きている限りは。
身に纏うとは心に纏うこと。
しかして人の心に纏わるのは何より言葉です。
だから文化には言葉が伴なうと。
このことを聖書にかこつければ、
以下の通り。
人間以外の生物は言葉を持たない。
だから文化はない。
人も最初はそうであった。
だが智慧の実を食べてしまった。
言葉を持ったのだ。
ゆえに追放された。
他の生物は未だ楽園にいるのに。
では人はどこにいるのか。
物理的には同じ場にいる。
現に他の生物と共に生きているではないか。
でも次元が違うのだ。
霊的に切り離されたのである。
ではどんな世界にいるのか。
現実の世界ではない。
現実を言葉で切り取った世界である。
言葉を通じてしか世界を見られない。
自我や意識がそうさせるのだ。
それを取り払えば楽園になる。
聖書を残した人々はそれを知っていた。
だから何度も何度も警告している。
神の言葉(現実と預言)を通じて。
・・・・・
日本は稀有な国である。
そのことを熟知しているのだ。
大和は言霊の幸はう国と歌い、
大日本は神の国なりと喝破す。
現下の世界には様々な文化があって、
それらは皆それぞれであり、
好き嫌いはあっても、
そこに良し悪しはない。
しかし「こと」を熟知しているのは、
日本の文化しかない。
私の知る限り…。
だから学ぼう日本を、日本の文化を。
それは日本語でできている。
うたう言葉の日本語で。