ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

預言者

2020-04-13 13:23:53 | 日記・エッセイ・コラム
イエスがオリーブ山ですわっていたとき、
弟子たちがひそかにみもとにきて言った、
…世の終りにはどんな前兆がありますか。
ちなみに世の終りとは一神教世界の発想である。
多神教の世界には初めも終わりもない。
循環の世界である。
季節の変わり目(画期)はあるが。
一神教の終末思想とはつまりはその画期のことである。
それは次の世の始まりでもある。
答えて曰く、
私の名を名のる者が現れて多くの人々を惑わす、
また、にせ預言者が現れて多くの人々を惑わす、
と。
・・・・・
預言者とは神から言葉を預かる者である。
自分からは成れない。
神から選ばれるのだ。
有名なところでは十戒を授かったというモーセがいる。
イスラム教ではコーランを授かったムハンマドがいる。
ところで、今の時代は預言者が沢山いる。
それは選ばれたのではなく、自ら志願した者達である。
その一例を科学者とか謂う。
聖書に拠れば世界は神の言葉で成っている。
科学者は自らの思考でその世界を読み解く。
そして神の言葉(現実)を人の言葉にする。
それを人々に伝える。
まさに預言者である。
選ばれなくとも、自らの志願と雖も、
現実に添っていれば、
それはその通りです。
預言者と言ってもおかしくはない。
あくまで現実に添っていればです。
あくまで現実に真摯に向き合っていればです。
だが実態はあさましい。
人間の業か、欲に追われて自分を見失う。
そんな人達が少なくない。
そしていま巷に溢れてる。
・・・・・
それが一番目立つのがメディアの世界である。
それに政治の世界にも。
それに学問の世界にも。
勿論ネットの世界にも。
見分けるのはそんなに難しくはない。
神に選ばれたなら、それは自然に伝わる。
謙虚なのである、どこまでも謙虚なのだ。
今の所そんな人は見当たらない。
唯一そう思えるのは陛下である。
血の定めがその証なのだろうか。
自ら志願した者等はどうだろう。
現実に真摯に向き合っている科学者は概ねそうである。
中には、そうでない者達もいる。
地球温暖化を言う輩は怪しそう。
余りに近視眼的に断定するから。
やはり謙虚でなければならない。
見分けるポイントは正にそこだ。
神ならぬ人であること、それを踏まえているか。
つまり、
自分を絶対化するもの、
自分が正しいと言い張るもの、
他人を認めないもの、
現実を顧みないもの、
観念(脳)に囚われているもの、
等々、
それらは預言者ではない、
にせ預言者である。
今そんな輩が巷に溢れているが、
正に斯く言う終わりの時なのか。
確かにその様ではある。
・・・・・
世界はにせ預言者で溢れているが、
未だイエスの名を名のる者は現れていない。
どこかに隠れているのか、
少なくとも私は知らない。
それが現われれば、いよいよ終わりのときである。
心していよう。
世界が武漢肺炎で震えている現今だが、
この震えが治まったときが要注意です。
惑わされないようにしよう。
そのとき、
まことの新しき世界を迎えるのか、
なおの混乱が待ち受けているのか。
私の関心はそこにある。