創価学会の信仰に功徳はあるか?

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「非有非無の中道=空・仮」が正しく、「非有非空の中道」は誤り。

2013年05月20日 18時48分29秒 | 創価学会
「非有非無の中道=空・仮」が正しく、「非有非空の中道」は誤り。

以下はマイミクさんのつぶやきから一部引用。一切の転載、引用厳禁。
(犀角独歩さんではありません。別の方です。)
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さんだい【三諦】空・仮・中が異門、すなわち同義であること。空と仮を、無/有の対立と捉え、それらが“中”で融和すると説く、漢土佛教の解釈は誤りである。

「非有非無の中道=空・仮」が正統説であり、「非有非空の中道」は謬説である。

漢土→日本へと、誤った前提での無益な議論を千数百年...(嘆息)。

『中論』の誤読の産物である、“仮=有”と“空=無”を“止揚”して「中という有」を捏造し、これを前提として教義を組み立て、外道化したのが日本佛教の実態である。

米山 士郎さん 補足です。故に天台で説かれる“円融三諦”の教理は崩壊しましょう。
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岩波 仏教辞典 第2版(岩波書店)より一部抜粋。一切の転載、引用厳禁。
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三諦 さんだい

<さんたい>とも読む.天台智(ちぎ)が『中論(ちゅうろん)』観四諦品の三諦偈(「因縁もて生ずる所の法,我は即ち是れ空なりと説き,亦た名づけて仮名と為し,亦た中道義と名づく」)に基づき,三観思想によって展開させた空(くう)仮(け)中(ちゅう)の三諦をいう.あらゆる存在は実体のない空であるとする否定面の<空諦>,実体はないが縁起による仮(かり)の存在とみなす肯定面の<仮諦>,空諦・仮諦のいずれにも偏せず,高次に統合した真理である<中諦>(中道第一義諦)をいう.別教では,空と仮の二辺(二つの極端)を超絶したところに中諦を観察するので,三諦が統合されず各別である<隔歴(きゃくりゃく)三諦>を説き,円教では,三諦が互いに円融(えんゆう)している<円融三諦>を説く.「天台には空・仮・中の三諦,性・縁・了の三法義」〔三部経大意〕「三諦は一諦にして,三にあらず一にあらず,しかも三,しかも一にして,不可思議なり.三はおのおの三を具して,倶体倶用なり」〔天台法華宗牛頭法門要纂〕.

三観 さんがん

天台止観(しかん)の基本となる観法(かんぼう)で,菩薩瓔珞本業経(ぼさつようらくほんごうきょう)の語に基づいた<従仮入空観(じゅげにっくうがん)><従空入仮観(じゅぐうにっけがん)><中道第一義諦観(ちゅうどうだいいちぎたいがん)>をいう.常識的思慮分別により真実とされるものは仏教の真実からすると仮(かり)のものであるという観点から,仮(け)から空(くう)に入る,すなわちすべての存在は空であるとする<空観(くうがん)>,本質的には実体のない空であるが縁起によって存在している現実に眼を向ける<仮観(けがん)>,空観と仮観を止揚して不二(ふに)とする<中観(ちゅうがん)>をいったもので,空仮中(くうげちゅう)・(くげちゅう)三観という.

空観によって見思惑(けんじわく)を断じて空諦(くうたい)を観察し一切智を完成する.仮観によって塵沙惑(じんじゃわく)を断じて仮諦(けたい)を観察し道種智を完成する.中観によって無明惑(むみょうわく)を断じて中諦(ちゅうたい)を観察し一切種智を完成する.智(ちぎ)はこの三観に基づいて三蔵教・通教・別教・円教の<化法四教(けほうしきょう)>を構成した.空観は対象をその構成要素に分析・還元したうえで,その空を観察する<析空観(しゃくくうがん)>(拙度観(せつどがん))と,そのような分析・還元を経ないで,対象の全体をいっきょに空であると観察する<体空観(たいくうがん)>(巧度観(ぎょうどがん))に分かれ,前者は三蔵教,後者は通教とされる.仮観は別教,中観は円教に相当する.別教は空諦のみでなく仮諦をも観察し,さらに空と仮の二辺(二つの極端)を超絶したところに中諦を観察するので,別教の真理観を<隔歴(きゃくりゃく)三諦>という.円教のそれを<円融(えんゆう)三諦>という.それに対応して別教の観法を,空観・仮観・中観を段階的に修する<次第三観>といい,円教のそれを三観と同時に修する<一心三観>という.

円教 えんぎょう

完全な教えの意で,中国では諸経典の内容を分類批判する教判(教相判釈(きょうそうはんじゃく))において,究極的な教えを<円教>と名づけた.天台智(ちぎ)はすべての経典の教えの高低浅深を,三蔵教・通教・別教・円教の<化法四教(けほうしきょう)>に分類整理し,円教は華厳・方等・般若の説法中にもあるが,法華経はもっぱら円教のみを説いたとして,これを<円教>とし,日本では天台宗を<円宗>という.華厳宗の法蔵(ほうぞう)は小乗教・大乗始教・終教・頓教・円教の五教判を立てたが,円教は一乗(いちじょう)のことで,華厳経を<別教一乗>として,法華系の<同教一乗>を超えるものとした.台密(たいみつ)では密教を加えて<一大円教>とした.「六学生を差して円教の学を奨め,八大徳を屈して灌頂の水を飲ましむ」〔顕戒論上〕.


別教 べっきょう

天台宗では,化法四教(けほうしきょう)の第三の称.他と区別して菩薩(ぼさつ)だけに対して説かれる教えなので<別教>と名づける.菩薩が漸次に修行し,段階的な悟りを経て仏となるという教え.空(くう)・仮(け)・中(ちゅう)の三諦(さんだい)を順序だてて段階的に観察(次第三観(しだいさんがん))する点で,円教(えんぎょう)の一心三観と区別される.華厳経(けごんぎょう)がこの教えを説くとする.また華厳宗では,<別教一乗>のことで,声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)・菩薩の三乗の教えと完全に異なる一仏乗の超絶的教えをいい,華厳経をこれに配し,法華経(ほけきょう)の<同教一乗>と区別する.転じて,広く大乗のすぐれた教えの意ともする.「もし別教の人ならば,歴劫に修行して無生忍を悟り,もし円教の人ならば,乃至悪趣の身にてもまた頓証する者あり」〔往生要集大文第10〕.
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参考リンク

犀の角のように独り歩め:教学メモ
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/cat_50026600.html
コメント
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