甍の上で

株式会社創瓦 社長 笹原真二のブログです。

朝夕の 寒さは増して 秋深し 冷たい雨に 舞い散る落葉

2023-10-28 19:34:54 | Weblog
   イスラエルとパレスチナの問題

 7日、パレスチナのガサ地区を実効支配する武装組織ハマスがイスラエル側に、短時間で2200発のミサイルで奇襲攻撃。1400人以上が犠牲になり、さらには人質も200人以上が取られた。イスラエルは、すぐに反撃、ガサの街を空爆、犠牲者は、倍返し以上の3400人と言われ、瓦礫の下にいる人を含めればさらに犠牲者の数は上がると言われた。(27日現在、双方の犠牲者は8400人超)
 
ニュース映像は、逃げ惑う人々、泣き叫ぶ子供達が映し出され、なんとも言えない悲しい気分になる。いつも犠牲になるのは一般市民、無垢の子供達。
 
 過去5回と言われる中東戦争はほとんどイスラエル側の圧倒的な勝利。1967年第三次中東戦争で軍事占領。ヨルダン川西岸地区、ガサ地区、シナイ半島ゴラン高原等、国連安全保障理事会でイスラエルの撤退を求めるがイスラエルは応じなかった。シナイ半島ゴラン高原は後にエジプトに返還。
 
 1947年、国際連合総会において、パレスチナの土地に、アラブとユダヤの二つの国家を作るというパレスチナ分割勧告決議が成立し、パレスチナを二分。2000年前パレスチナの地を追われた流浪の民ユダヤ人は、パレスチナの地にイスラエルという新制国家を建国したのが1948年、75年前のこと。
 
 イスラエル建国のためにパレスチナを追い出されたアラブ系住民の難民。それが現在に続くパレスチナ問題の始まりという。パレスチナは2012年国連へオブザーバー加盟、国としては認められていない。(パレスチナ問題から抜粋)

 22日日曜日のフジテレビの日曜報道THE PRIMEという番組で元大阪市長の橋下弁護士が、今回の大規模戦闘について言及していた。
「ハマスの行為は、僕の感覚ではテロ行為で、それであれば、壊滅状態に持っていくというのは、そうなんですけども、だからといってイスラエルのこれまでの問題点を指摘すると、じゃあハマスの行為を正当化するのかと。法の支配というのは、もともとはどっちもどっち論なんです。どっちも悪い部分があれば、どっちも同じように制裁を与えるというのが法の支配なんですね。」

「僕はハマスの行為にきちっと制裁を与えるということであれば、イスラエルのヨルダン川西岸地区への入植活動、僕の感覚ではテロ行為です。国際法違反、侵略行為だと思いますから、ハマスの行為を壊滅状態に持っていくということであれば、この入植行為も壊滅状態に、もうなしにするっていうことを国際社会がやらないと、法の支配は成り立たないと思うんです。」
 
 わかりやすく、説得力のある発言だった。ウクライナ戦争とは全く違う経緯の問題だが、同様に国際政治は、法の支配ではなく、悲しいかな武力、軍事の支配が幅を効かせているのが現実だと改めて突きつけられた。
                                     令和5年10月28日       笹原 真二
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朝夕の 過ごしやすさは 何処へやら 屋根の上では 厳しい残暑

2023-09-28 20:15:54 | Weblog
  思いの粋を集めた駄文

 5月だったか?母校大東文化大学の広報誌を見ていると、創立100周年記念事業の一環で卒業生エピソードと題して、在学中の思い出、卒業してからのエピソードを募集していた。
 
 幸い、毎月書いているマンスリーの中に、「大東文化大学陸上競技部今昔物語」A4・5枚(平成28年2月)、「先輩は兄貴、後輩は弟」A4・4枚(令和元年9月)、おじさんたちの修学旅行A4・3枚(令和4年9月)、「清水の訃報・素晴らしいブレーキ」A4・2枚(令和4年12月)、「ただいま青春、真っ盛り」A4・1枚少々(令和5年5月)の五つの文章があったので、「卒業して43年になります。面白くないこと、イヤなこともあったはずなのに、楽しい思い出ばかりです。」というあいさつ文と共に・・・募集の原稿は、基本的にはA4一枚以内だろうと思いながらも、あえて全ての文章を送った。

 内容は、未成年飲酒、愛のムチの場面もある。今の時代では不都合なことかもしれないが、当事者は、全て時効の貴重な青春の一時代を綴った思い出だから、そんなエピソードもあって良いと思った。卒業後のエピソードは、その時々を結構具体的に、しょうも無いと思えることまで書いていたから、間違って採用してもらえたら面白いなと少しだけ期待していた。

 24日日曜日、「大東文化大学百周年記念サイト」を開いて、卒業生エピソードを探した。なんと、「陸上部OB笹原さん」採用されているではないか。素直に嬉しかったのだが、あまりにも抜粋され過ぎていて、力作が、駄文になってしまっていることが少々不満だった。

 それでも、大学の陸上部有志のLINE、近隣の陸上仲良し会、芳井のお友達、芳井蟹食い等々のLINEに、「私事ではありますが、百周年記念事業の卒業生エピソードに採用されました。ただ、抜粋され過ぎたことは不満です・・・」と綴ると、いくつかのお祝いのメッセージをもらった。芳井のお友達の女子3人から、大東文化大学英語学科の大月教授(芳井小学校、中学校からの友達)から。

 大東文化大学陸上部有志からの反応は無い。しょうも無いことにもいつも反応する、森下さんも、同期の望月も何も言って来ない。陸上仲良し会の益本は素早く反応しくれたが、「普通の文章でした。あれが採用されたのは?・・・」

 そんな中、改めて五つの文章を読み返してみると、事務局の方が抜粋したあの駄文が、思いの粋を集めた結果の駄文だと思えてきた。

「卒業して43年になります。楽しい思い出ばかりです。(陸上部OBの集まった旅行で)夜の宴会で、青葉先生が「監督冥利につきる」と言った言葉が嬉しかった。先輩は兄貴、後輩は弟、監督は若い親父、奥さんは若いお母さんだった、そして、二人の娘は幼い妹だった。46年前、同じ屋根の下で、同じ釜の飯を食わせてもらった。4年間、過ごさせてもらったことは人生の大きな財産となった。」 (大東文化大学百周年記念サイト・紡ぐ忠恕の文化・卒業生エピソード)
        
                                           令和5年9月28日       笹原 真二
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屋根の上 それでも陰を 探してる いつまで続く 厳しい残暑

2023-08-28 20:37:59 | Weblog
  やはり陸上競技は面白い
 
 ハンガリーのブタペストで、開かれている「世界陸上」のテレビ放映が極めて少ないということが、高校、大学と7年間陸上競技をしていた者として不満だ。ライブ放映もなくはなかったが、しっかり時間を割いて放映してほしいのだと思いながら、インターネット、ダイジェスト、スポーツニュース等で日本代表の選手達を応援していた。

 今回の注目選手、女子やり投げ(世界ランク1位)の、明るく笑顔がとっても可愛い北口榛花。女子走り幅飛びで、今季、6m97cm(今季世界4位の記録)という17年振りに日本新をマークした秦澄美鈴。そして男子110mハードルで、今季、強豪が集うダイヤモンドリーグで初出場初優勝を成し遂げた泉谷駿介がどんな試合をするかに注目していた。

 北口は、昨年のオレゴン世界陸上で銅メダルを獲得していたが、この3種目とも、かつては決勝、ファイナリストに残るには程遠い種目だった。
短距離、投てき、跳躍で、日本の選手が活躍するなんてことは、私が学生時代には考えられないと言っても過言ではなかった。実際、それらの種目の選手は、ほんの一部の選手を除いて大学卒業後は競技を引退した。続けるための受け皿の実業団が少なく環境が整っていなかった。長距離だけは駅伝があったため多くの実業団チームがあって続けることが出来たが。

 短距離種目では、1991年の東京世界陸で、男子400m決勝(7位)に残った高野進(現東海大学教授)に感動したことは、今でも思い出すことが出来る。翌年のバルセロナオリンピックでも決勝に残り8位入賞。その後、世界陸上銅メダリストの為末大、末續慎吾に引き継がれ、4x100mリレーに於いては、北京、リオデジャネイロと連続銀メダルに輝き、さらに今回、サニブラウン・ハキームが、100m準決勝で9秒97と大きな舞台で10秒を割り決勝へ進み6位。今大会、ファイナリストには残らなかったが、高野進が持つ400mの日本記録を32年ぶりに更新した佐藤拳太郎と確実に力は付いてきていると実感できるまでになってきた。

 投てき種目では、言う間でもなく2004年のアテネオリンピック金メダルを始めオリンピック、世界陸上で活躍したハンマー投げの室伏広治(現スポーツ庁長官)がけん引し、やり投げの世界陸上銅メダリストの村上幸史、新井涼平らが続いた。
 
 女子走り幅跳びにおいては、池田久美子が2001年世界陸上で決勝に進んだが、それ以降は低迷した。だから、秦澄美鈴には7mを飛んでメダルも夢じゃないと期待していた。しかし予選敗退。世界の舞台に於いて室伏広治だって力が付いてからも予選落ちはあった。そんなことを経験しながら強くなっていった。だから、来年のパリオリンピックに楽しみは持ち越しだ。

 100m10秒37、走り幅跳び8m00、三段跳び16m08、110mハードル13秒04の陸上の天才泉谷駿介が、見事に決勝に進出5位。「スタートして両足のふくらはぎが痙攣しました。」と笑顔で。表情が最高!「来年、楽しみにしているから!」と言いたくなるような。

 とにかく明るい北口榛花、最終6投目に大逆転で金メダル。弾ける笑顔で、ピョンピョン跳ねながら喜びを爆発させた「今日だけは、本当に世界で一番幸せ!」とインタビュー。6月の日本選手権で斉藤真里菜に敗れ2位、泣きながらインタビューを受けていた時のことが思い出された。

 それでも彼女のトレードマークは、あの笑顔とインタビューの受け答え。見ていて、聞いていて、こちらまで笑顔が伝染して嬉しくなるような。素直な彼女の人間性がダイレクトに伝わってくる。今までに、こんな人いたかなというような感じでファンになった。そんな人がいっぱいいるのではないかと思う。

 田中希実の5000mの日本記録更新、予選で14分37秒98。決勝ではラスト1周まで12人のトップ集団の中に、結果14分58秒99で8位入賞。どんな練習をしているのか、どんな身体のケアをしているのか?驚きの強さを持った選手だ。

 男子35km競歩銅メダルの川野将虎、6位の野田明宏、女子35km競歩7位の園田世玲奈、男子3000m障害6位の三浦龍司、男子走り高跳びの8位の赤松諒一、女子10000m7位の廣中璃梨佳と入賞者は増加している。決勝に進めるくらいの力を持っている選手も多くなっている。

 だから、本当に来年のパリオリンピックが楽しみだ。やはり陸上競技は面白い。
                                       令和5年8月28日        笹原 真二 
追伸 

 陸上競技は、短距離、中距離、長距離、マラソン、競歩、投てき、跳躍と、それぞれの種目は全く違うと言ってもよいスポーツなのだが、陸上競技を体験した人は皆、自分がやったことが無い種目も好きだと思う。あえてこんな話を陸上仲間としたことはないし、根拠があるわけでもないが、みんな「好き」と答えるだろう。という変な確信がある。
 
 強いて言えば、勝負が、はっきり記録として表れる単純明快な競技だから?フィジカルの本質を競うスポーツだから?陸上競技という名のもとに集まった個人競技が主体だけど、それとは裏腹に家族的な要素があるからなのか?・・・
 
 陸上競技に家族的な要素があるなんて・・・今まで思ってもみなかったけれど、今、これを書いていて、初めてそんなことを思った次第だ。
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炎天下 ほっと一息 日が暮れて、 シャワーすれども 抜けぬ塩汗

2023-07-28 20:09:33 | Weblog
  思えば遠くへ来たもんだ。
 
 芳井に帰って40年になるが、今回、初めて、天神社の境内にある黒丸様のお祭りの当番組に、うちの組内(町内会)が当たることになった。

 7月16日日曜日に、コミュニティーハウスで口開け祭をした。黒丸様の掃除、しめ縄の張り替え、さらには奉納子供相撲の土俵作り。土俵には、前もって真砂土が少しだけ入れてあり、その周りに掘られた円周に合わせて、稲わらを腕くらいの太さにしてわら縄で締めては、それを順番に埋めていくという作業。

 子供の頃から、黒丸様の奉納相撲、恵比寿様の奉納相撲と、わずかな賞金?に釣られて来ていたが、当然、土俵作りは初めてのことだった。

 22日土曜日、夕方5時から、黒丸様で宵宮。当番組と、神社委員、宮司さんが集まって「大祓の言葉」を奏上して終了。

 23日は午後2時から本番のお祭り。と言っても昨夜同様、当番組、神社委員、宮司さんで「大祓の言葉」を奏上するという簡素なお祭りだ。
3時からは、先日、土俵造りをした奉納子供相撲。やっとの思いで集めた男の子2人、女の子4人の三番だけ。勝っても、負けても五百円。結びの一番は、2歳、3歳の女の子対決。片方が押されて尻餅、「アーン」と泣き出した。そんな奉納相撲は、昔と違ってあっという間に終わった。

 我々が子供の頃の奉納相撲は、勝ったら十円、負けたら五円。5人抜いたら金封に入れられた百円をもらうことが出来る。一学年下の中村博が5人抜きでガッツポーズ!百円が入った金封を取った時の得意気な顔が思い出された。負けて泣く子も当然いた。それが白黒混じりのカラー映像でよみがえってきた。

 たった三番の相撲だったが、昔と変わっていないなと思いながらも、浮かんだ台詞は、歌の文句じゃないけど「思えば遠くへ来たもんだ」だった。賞金が十円、五円から、五百円に。取り組みは二十番、三十番はあった。

 少子高齢化、過疎化がダイレクトに直撃している。街の景色も変わった。わずか三番の取り組み、勝ち抜き戦も無い。土俵も作る側になった。あれから55年以上が過ぎた。実際、歳も取った。そんな感慨深さがあった。
 
 一方で、尻餅をついて「アーン」と泣き出した女の子を見て、「思えば遠くへ来たけれど、昔と何も変わっていないじゃないか」という思いも出てきた。相撲に負けて泣いたのか、尻餅をついてビックリして泣いたのかは分らないが・・・
 
 今も、昔も、そう大きな差は無いのだ。

 思えば、遠くへ来たもんだ ♪ あの頃、恋しく思い出す ♪
 思えば、遠くへ来たもんだ ♪ この先、どこまで 行くのやら ♪        
 
  令和5年7月28日        笹原 真二

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歩数計 二日併せて 3万歩 腰膝身体(こしひざみがら) 疲れるはずだ

2023-06-28 22:17:28 | Weblog
   高野山への林間学校
 
 高野山参与会から、毎月送られてくる小冊子「高野山」5月号に、宗祖弘法大師御誕生1250年記念大法会イベントとして5月27日から7月9日まで、総本山金剛峯寺でダウン症の書家、金澤翔子の個展が開かれる。さらには6月17日土曜日には、席上揮毫をするというお知らせが載っていた。

 金澤翔子の席上揮毫が見たくて、お袋に「行かないか」というと、「今回は行かない」。そんな時、日立を退職、茨城県と、井原を行ったり来たりしながら、妹のブドウ栽培、稲作を手伝うという二重生活をしている、菩提寺が同じの幼馴染の大杉寛に、「高野山へお参りしない?」というと「行きたい」と二つ返事。
 
 さらには、榊原俊英、今井達也と同じ菩提寺の同級生を誘うと二つ返事で「行く、連れにして」都合で行けない人もいたが、結果、松井元司、私と男は5人。女の人も旧姓藤森、片岡一代、旧姓渡辺、倉橋千恵子の計7人でお参りすることになった。
 
 早速、菩提寺の成福寺を通して、普賢院という宿坊を予約してもらった。
 
 17日、早朝5時半に井原を出て、皆を拾いながら、笠岡の松井元司の家で、ワゴン車に乗り換え、更には吉備のサービスエリアで、今井達也と合流。ここで、運転手は今井達也に。車中はみんな同級生、遠足気分で高野山には10時半過ぎに着く。11時、十割蕎麦の「ここね」に入り、皆でお蕎麦をいただいた。
 
 食後、宿坊の普賢院に駐車して12時に金剛峯寺へ、席上揮毫の準備は始まっていた。金澤翔子が書いた「大日如来」の屏風が中央に置かれ、言葉では言い表せない凛とした一文字、一文字の屏風に圧倒されるような・・・
 
 13時前にはギャラリーはいっぱい。金澤翔子が姿を見せると拍手が、息を止めるような気分で彼女の筆遣いを追った。お母さんの泰子さんが、和紙で墨をとりながら「飛 翔」の二文字を。あの小さな体のどこにこんなエネルギーがあるのか?・・・その後、個展の会場に足を運ぶ。大きな畳の部屋に展示された書に、やはり圧倒された。
 
 金剛峯寺で、御朱印をいただき、皆で、壇上伽藍へさらには大門まで、約2kmの道を歩いて往復した。帰路の途中、あまりに暑く疲れもあったので、喫茶店に寄り皆でソフトクリームをいただく。16時過ぎに普賢院に帰り投宿。

 部屋も、お風呂もきれいで快適、18時から精進料理の夕食、一泊二日11000円だから、もう少しグレードアップしておけば良かったとは思ったが、それは別としても美味しくいただいた。

 部屋へ帰った後は、部屋飲み。何もなかったので、7時過ぎくらいだっただろうか?買い出しに行く。近くにあったと思っていたファミリーマートは存外に遠く結果片道1kmくらいを一人で歩くことに、帰りはライトアップされた壇上伽藍を重い買い物袋を下げて散策。先日テレビで紹介されていた高野山のナイトツアーも行われていた。

 帰ってからの部屋飲みも、良いおじさん、おばさんたちの宴は、21時過ぎにはお開きで就寝。せっかく買って来た焼酎はほんの少し空いただけ。

 18日、5時過ぎに目が覚める、6時半から本堂でお勤め。凛とした空気の中、僧侶の皆さんの読経が響く。般若心経も読むのかと思いきや、それは読まれなかった。高野山大学の院生による普賢院の中の案内。仏舎利が祭られている部屋の前で、「お墓、ご先祖様に手を合わせるということによって、生きていく上で、余裕を持つことが出来ると思うんです。」という言葉に納得。その後朝食へ。隣に座っていた今井達也に「高野山、癖になりそう」と言うと、「ほんとじゃのう。わしは、こんな古いお寺や、お宮が好きなんじゃ!」と。
 
 朝食後、8時過ぎ、片道3,5kmはあろうかと思われる奥の院までお参りする。千年の杉の古木が林立する、戦国大名の墓所がいっぱいある中、皆で歩いているのだが、いつのまにか置いてけぼりになったり、お互い見失わないようにしながらお参りした。帰りは、昨日同様に疲れて、昨日同様、お店でソフトクリームと葛餅のパフェをいただく。これが予想以上の美味しさにみんな笑顔。

 11時、高野山を後にして、法隆寺に向かう。着いたのは13時半頃、「お昼はラーメンが食べたい」という大杉寛の声。スマホで「法隆寺美味しいラーメン」で検索すると「みつ葉」というラーメン屋にヒット。おすすめは塩という、スープは泡だて器で泡立てた太麺のラーメン。ものすごく美味しかった。日本の美味しいラーメン100選にはいっているというが、納得。

 いよいよ、法隆寺へ。これがまた広い。駐車場も少し遠め2時間かけて、金堂、五重の塔、夢殿、そして隣の、少し前に上皇様ご夫妻がお参りになった中宮寺へも参拝した。ここでも3kmは歩いたであろうか?改めて法隆寺の広さに驚いた。

       令和5年6月28日            笹原 真二

追伸 
 金澤翔子の席上揮毫が見たくて、皆を誘った。7人の林間学校になった。「蟹食いツアー」では男ばかりだったが、そろそろ女の人たちも誘ったらという話も出ていたところで、今回の旅。「楽しかった!また行きたいね!」という台詞が分かれ際の言葉となった。今回、様々な都合で参加できなかった人もいる。次は、どんな旅になるか楽しみだ。最後に、ドラーバーを引き受けてくれた今井達也に大感謝だ。

 1日目は9222歩。2日目は19223歩、距離にして約4.6km、9,6km二日間で15㎞近く歩いている計算。とても健康的?な二日間だったが、少々疲れ気味だった。
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やっと来た ほたるが飛んだ 今夜来た いくつになっても なんだか嬉し 

2023-05-27 21:21:49 | Weblog
  ただいま、青春真っ盛り
 
2月中旬、大東文化大学陸上競技部2年先輩、北九州市小倉の森田さんから、「5月の連休、都合がつくなら5月3日以降2泊3日で天ヶ瀬(大分県日田市)に遊びに来ないか?」というお誘いがあった。

 森田さんは、福岡県豊前市生まれ、全国高校駅伝でも優勝した大分の名門中津商業出身。私が2年生の時の主将、箱根駅伝も、エース区間の2区を2年生の時から3年連続担当。強くてそれでいて気さく、全く走れない自分なんかも可愛がってもらった。本当に尊敬する大好きな先輩だ。だから、大東文化大学に行って何が良かったかと言われたら、それは森田さんとの出会いだ。卒業後は安川電機に就職、陸上競技を続け何度か日の丸のユニホームで海外のマラソンにも出場した。

 一昨年の「おじさんたちの修学旅行」さらには5年前の、「熊本、鹿児島への旅行」も、元はと言えば、森田さんと、もう一人、大好きな1年先輩の石川さん(埼玉)の3人で、鹿児島の吉元(同期)のところに行こう。という話から始まった。私が運転するのが嫌で、2年後輩、長崎の立石に「運転手で参加して!」「他の人に声かけなくて良いのですか?」というやり取りから広がり、結果20人近い「熊本、鹿児島への旅行」に発展していった。

 以前、天ヶ瀬(標高800m)の森田さんの別荘からの夕日が落ちる写真を送ってもらったことがある。ものすごく夕焼けがきれいで行ってみたいと思っていた。そんな森田さんからのお誘いには、勿論「喜んで行きます。」

 5月3日、午前10時半、小倉駅に着いた。鹿児島から来た吉元と、迎えに来てくれた森田さんの車に乗り込む。GWの最中、どうにか渋滞を避けながら新緑の耶馬溪で休憩。その後、日田のスーパーで買い物をして天ヶ瀬の森田山荘に。しばらくすると阿蘇から、森田さんの同期の佐藤さんが来た。
お風呂は天然温泉の掛け流し。食事は、森田さんがお寿司としゃぶしゃぶを用意してくれていた。大学の先輩後輩、65歳を過ぎた男4人。気分は解放され学生時代に戻ったものの、話題は健康の話、老後の話。そんな話にも幸せを感じた。

 森田さんは、奥さんが癌になり、その時、癌検診を受けた。すると前立腺の癌ステージ3が見つかった。以来10年以上、癌と共存している。そんなことがきっかけで別荘も買ったそうだ。年に6回くらい夫婦水入らずの旅行もしている。私のスマホにはそんな旅先から送られてきた写真がいっぱい入っている。うらやましい限りの理想的な夫婦だ。

 吉元は、昨年2月、くも膜下出血の手前で10時間を超す大手術をした。さらには年末、森田さんと同じ前立腺の癌が見つかって治療しているという。

 佐藤さんは、息子さんは東京にいて、年老いたお父さんと二人暮らし。5日、天ヶ瀬から小倉への帰路の途中、森田さんに電話をかけて来た。「6月、別荘の周りの伸びた木の剪定や草刈りに、刈払機を持って行くから都合の良い日を連絡してくれ。」頼んでもいないのに自分で良いと思ったことは勝手に進める・・・いかにも佐藤さんらしい。大学時代と何も変わっていない。それが嬉しい。
 
 3回目の成人式を超えても、身体のあちこちが痛くても、今を生きる。みんな「ただいま青春真っ盛りなのだ!」   

             令和5年5月27日        笹原 真二
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朝夕の 寒さは何処に 汗ばんで 暑さ感じる 屋根の上では 

2023-04-28 20:28:40 | Weblog
文化財ではないけれど(明王院の渡り廊下)
 昨年の10月、福山の明王院から見積もり依頼があった。ある意味晴天の霹靂のような驚きがあった。

 明王院は本堂、五重塔が国宝、書院、庫裡客殿、山門が広島県の重要文化財、護摩堂、鐘楼が福山市の文化財。福山が誇る名刹だ。特に本堂(鎌倉時代後期1321年建立)、五重塔(室町時代前期1349年建立)、庫裡客殿は昭和30年代前半、法隆寺の宮大工、西岡常一さん(薬師寺の西塔、金堂を再建)と、瓦工事は昭和の大名人と言われた、井上新太郎さんが改修工事を手がけられ、社寺の瓦工事に携わる者に取って、明王院はある意味聖地であり、ブランド寺院だ。

 そんな明王院からの依頼は、国宝本堂と、広島県の重要文化財庫裡客殿をつなぐ渡り廊下、15坪ほどの小さな屋根。前面は本葺き、後面は、一部本葺きで、鎬桟瓦。渡り廊下は庫裡客殿に付随しているのに、文化財登録されていなかった。

 それでも仕事内容は、文化財仕様で。既存の瓦をなるべく使うようにするということを前提に見積もりをした。

 軒先は、破風に向かって反り上がり、破風の瓦、鬼際の棟は、65年程前、井上新太郎さんが手がけられたと思われる品の良い収まりなのだ。そんな仕事に運良く巡り合うことが出来たことはこの上ない喜びだった。

 今年2月14日、仕事に入った。今後のことも考慮して京都の徳舛瓦店から深町健ちゃんに応援に入ってもらった。既存の瓦を解体した後は、大山時計店さんの葺き替えと重なったため、自分自身が現場に入る事が出来たのは27日。平瓦が葺かれ、これから素丸瓦を納めるようになった頃だった。

 古い瓦が足りなくなれば、以前葺かれていた古い瓦が裏庭にいっぱい積んである。その中で使えそうな瓦を探して再使用する。平瓦は、昨年仕事をさせてもらった胎蔵寺で葺かれていた瓦を既存瓦と同じ寸法に切って使ったりもした。

 古い瓦のほとんどが、豆腐を切るような柔らかい瓦なのだが、時に明らかに質感の違う瓦がある。切断機の刃を入れてみると現代の瓦よりも硬いのだ。手触りは、国宝の本堂に葺かれている軒瓦と同じ質感。もしかして700年前の瓦。ある意味、感動しながら、その古い素丸瓦を面戸瓦に加工した。還元された淡い黄土色にゴツゴツした肌触り。黄緑色の苔が染みついている。タワシで擦っても苔を取り除くことは出来ない。そんな古の瓦と出会えたことに幸せを感じた。

 棟ののし瓦も胎蔵寺で使われていた物を再使用した。仕事は3月8日どうにか終えることが出来た。破風、棟の収まりも上手く納めることが出来たと思っている。この渡り廊下は、文化財ではないけれども、うちに取っては大きな文化財だった。  
                                      令和5年4月28日            笹原 真二

追伸 胎蔵寺のご住職と明王院の奥さんは従姉妹。胎蔵寺で使用されていた瓦を再使用すること等、改めて考えてみるといろんな縁で繋がっていた。
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春が来た 桜も咲いた 木蓮も あとはツバメの 里帰り

2023-03-28 21:09:33 | Weblog
  高野山、お礼参りの旅
 
 令和1年GWの4月29日月曜日、夜明け前の4時、軽の箱バンで、初めての四国八十八カ所参りに出発した。同行者のお袋は15回目。7時過ぎ、1番霊山寺(徳島市)に着いた。早速忘れ物、輪袈裟と、数珠を購入した。

 本堂、大師堂で、般若心経を読む。読み終えると、次のお寺へ。これをただひたすら繰り返す。
 
 翌30,5月1、2日の三泊四日の旅で徳島、高知を終え、45番岩屋寺(愛媛県美川村)まで、お参りすることが出来た。
 
 11月24日日曜日、4時に起き出発。7時過ぎ46番浄瑠璃寺に着く。境内に落ちていた大きな松ぼっくりを一ついただいていく。この日は63番吉祥寺(愛媛県西条市)までの日帰り。
 
 令和2年2月23日日曜日、寝過ごしてしまい1時間遅れの6時前に出る。昼食の讃岐うどんが出てこない。大きな時間ロスで、75番の善通寺(香川県善通寺市)までとなった。

 3月21日土曜日、5時に出発、6時半には76番金倉寺(香川県多度津町)に着き、7時よりお参り、ただひたすら般若心経を読んでは次のお寺へのお参りを繰り返す。午後4時88番大窪寺(香川県長尾町)にお参り初めてのお四国参りを終えた。四国八十八カ所参りは、どうにか1年で終えることが出来た。

 お大師様巡礼の旅だから、全て真言宗の寺院かと思っていたが、曹洞宗、臨済宗、天台宗などのお寺もある。これも面白いと思いながら、さらには、歩き遍路が多いのに驚かされた。外国の方も結構歩いている。若い人も意外と多い。軽トラにテントを張ってお参りしている人、大きなベンツでお参りしている人も。みんなそれぞれにお参りしている。15回目のお袋は、お四国参りが趣味になっている。でも、そんな気持ちは分るような気がした。自分自身も、般若心経を読んでは、次のお寺へお参りするという事を、繰り返しているだけなのだが、理屈抜きに結構良い気分なっていくことを感じる。

 新型コロナの蔓延で、高野山へのお礼参りは延び延びになった。和歌山県でコロナ患者が16人出たというニュースで「行けない」今、考えれば半分笑ってしまうような判断だが、それが現実だった。

 気がつけば足かけ5年。3月19日日曜日、深夜の3時目が覚める。出発予定の6時には早すぎると思いながらウトウト。再び時計を見ると30分しか経っていない。目は冴えだした。隣の部屋のお袋に「起きている?」と声を掛けると「起きている」「早いけど出よか」で、歯磨き洗顔、熱いお茶を飲んで出発した。
 
 満天の星空の中の4時に出発。笠岡インターから山陽道に乗った。空が少しずつ明るくなり出したのは兵庫県に入ってしばらくしてから。
阪神高速で神戸大阪を抜けた6時半頃は走る車も少なく、文字通り高速で走り抜けることが出来た。余裕をもって車線変更も、極めて順調に進んだ。

 お袋が6時間掛かると言っていたのだが、ナビの案内、道路事情も良くなっていたこともあり、出発してから4時間半後の8時半に高野山に到着した。
少し肌寒い中、奥の院へ。入るなり岡山池田家、津山森家の廟が。大名家の廟には、大きな五輪塔が建っている。鬱蒼と大きな杉の古木が林立する中、あちらこちらに伊達家、島津家、豊臣家、徳川家を始めとする戦国大名の廟が立てられている。薄く朝靄が立ちこめる幽玄な雰囲気の中、片道1.5㎞はあるだろうか、1時間半掛けて90歳になるお袋とお参りした。

 伊勢神宮の雰囲気とは全く違うのだが、伊勢神宮と同様に日本の聖地だと感じた。外国人のお参りの方も大勢いた、目が合って頭を下げると「good、morning」とあいさつが返ってくる。日本の聖地をどう感じたのか聞いてみたくなる。

 高野山で、昼食を取り12時過ぎ奈良の天川神社を目指して出発。ナビの言うとおり。だが、何処をどう通っているのかは分らない。吉野杉だろう、杉林の山間の細い道を走る。銘木屋がその細い道の脇に結構ある。家づくりも変わって来ている。さらにはこの不景気の中、ちゃんと商売出来ているのかなどと、いらぬ詮索をつきながら走った。さすが4時起きが効いてきた。眠くなり15分ほど車中で仮眠。天河神社には2時過ぎに予定通り到着。

 この天河神社には、30年程前、名古屋の江場さんに誘ってもらって来たことがあった。南朝の御所がこの,天川神社のそばにあったという。四方山に囲まれた神秘的な雰囲気。地形のせいなのか?聖地だからなのか空気が違うように感じられる場所。だからずっとここ天河に来たかった。それが叶った。それが嬉しくて、江場さんに電話した。「江場さんも、是非、天川へ来てください!」と。

 この日、泊まったのは天川村の洞川(どろがわ)温泉。標高800mに位置する。洞川温泉には、大峰山信仰の行者の宿がいっぱいある。中には創業500年を超える宿もあるという。洞川の全ての旅館が木造の古そうな旅館。各旅館の前には、行者の講が寄贈した提灯がいっぱいぶら下がっている。夜になれば提灯に灯が灯り、なんとも言えない幽玄な雰囲気を醸し出す。洞川温泉は行者の講で持っていると言っても過言ではない。泊まったのは江戸末期から続く桝源旅館。桝源に掛かっている講の札は100を超える。約75%の講が、今も来てくれているという。5人の講もあれば、200人の講もあるという。

 こうやって、今の時代にも、こんな講が存続していることが、とても素敵なことに感じられた。講には信仰を超えたものがあるんじゃないかと。
20日、月曜日、橿原神宮にお参りして、奈良の春日大社、東大寺の辺りを通り、聖地巡礼の旅の仕上げは京都。2月、妹のところに孫が生まれた。お袋にとって、初めての曾孫。その曾孫との対面が聖地巡礼の仕上げとなった。  

                                             令和5年3月28日              笹原 真二
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幾ばくか 朝の寒さも やわらいで 新芽の川辺 もうすぐ春に

2023-02-28 22:19:53 | Weblog
  
運命の決断

 26日、日曜日午後9時から、NHKスペシャル「ウクライナ大統領府緊迫の72時間」というゼレンスキー大統領の側近たちが、緊迫の舞台裏を語るドキュメント番組を見ることが出来た。
 
昨年、2月24日、未明、ロシアから100発のミサイルが、ウクライナ各地に撃ち込まれ、地上からは19万とも言われるロシア軍部隊がウクライナへ侵攻を始めた。
侵攻二日前、ベラルーシ国防相が、北側ベラルーシからの攻撃はないとウクライナ国防相に語っていたにも関わらず、ロシア軍はベラルーシからも侵攻、キーウは72時間で陥落するとみられていた。

 2014年、ロシアは、浮く以来なの領土であるクリミア半島に軍事侵攻、一方的に併合した。ウクライナはアメリカやヨーロッパの国々に軍事支援を求めたが、返事は「不可能」ではどうすれば?「塹壕でも掘れ」欧米は「武器供与はロシアを刺激し、侵攻を招く」と。

 今回の軍事侵攻が始まってもその姿勢は、変わらなかったという。「欧米は3日か4日で、私達はいなくなると考えていた。」「ウクライナは、おそらく立ち上がれなくなり、独立を守り切れないだろうと。」「同情します。取りあえず見守ります。」

 すでに私達が、攻撃を受けている時点でも、ウクライナに対する欧米の態度が大きく変わることはなかった。」「ロシアが怖いので、ウクライナを諦めたと。」言っているのに等しかった。

 侵攻から24時間、ロシアの戦車がキーウに入ってきた。ゼレンスキー大統領の命も狙われた。暗殺の危機を察知したのは侵攻2日前の事。24日、侵攻が開始すると、キーウに潜伏していた工作員が一斉に蜂起した。身近にいる人の誰が工作員か分からない。大統領暗殺計画は分っているだけでも13回。

 軍事侵攻から32時間後、ベラルーシ国防相から、ロシア国防相からの伝言だとして、「抵抗しても誰の利益にもならない。ウクライナが降伏文書に署名すればロシアの侵攻を止めることが出来る。」と。

 ロシア大統領府からは降伏を促す電話「必要なことが一つある。それは降伏することだ。」ウクライナの大統領府長官は丁重に断ったという。さらにはプーチンが揺さぶりを掛ける。「ゼレンスキー政権が抵抗しているから、市民に犠牲が出ている。」ウクライナ軍にクーデターを起こせと呼びかけてきた。

 欧米各国は、ゼレンスキー大統領は、キーウから脱出すべきだと提案してきた。「ここにヘリコプターがあります。」と30分おきに、「街は包囲されているすぐに脱出すべきだ。」と。亡命政府を準備していた。

 ロシアに国を乗っ取られたら私達は、西のリビウか、ポーランドに行き「侵略に反対、避難する。」ということになるはずでした。
いろんな人がここに来て「諦めよう。その方がいい。」と言ってきました。本質は同じで「諦めろ。」でした。

 大統領顧問も脱出を提案した一人でした。大統領に降伏するのではない。司令部を異動するだけだと伝えました。このままでは死んでしまうか、別の場所から防衛の指揮を続けるかのどちらかでした。

 「抵抗を止め、ロシアの支配を受け入れるか、それとも市民の犠牲を伴う抵抗の道を選ぶか」

 ゼレンスキー大統領は、地下壕に避難していた政権幹部全員(約100人)を集め。「20~30人残す。そうすれば60~70日は食料が持つ。ここに長く籠城できる・・・最悪なのはインターネット回線が切れ、ロシアに捕まったか誰も分らなくなることです。国民にメッセージを伝え続けること出来るよう衛星回線を手配してほしい。」と頼んだのです。みんな泣いていました。「またね」と言って、気がつくとハグをしあっていました。

 ゼレンスキー大統領は側近たちにも、ここに残るかどうか、自分で決断してほしいと迫った。与党幹部の一人は、「正直、時間がほしい、自分だけでは決められない。」と。妻に電話して「こんな状況だけどここを離れるつもりはない。」と。

 大統領府顧問の一人は「私はプロの軍人なので、もう終わりだと思っていました。我々は勝てない」と。息子にあてたメッセージ「お母さんを助けてあげて。あなたを一人で育てることになりそうだから、男の子として、お母さんを守るんだよ。勝利したら帰るからね。愛している元気でね。さようなら。」

 侵攻開始から37時間余り、ゼレンスキー大統領は、4人の側近と共に地下壕を出ました。「自分たちは逃げない。ロシアに屈しないという決意を世界に示すために。機銃掃射の煙が空に見えていました。警護の担当者は慌てましたが、それでも彼らは出て行き撮影をしたのです。大統領府前の広場で。

 「皆さん、こんばんは。与党幹部、大統領府長官、首相、大統領府顧問、大統領もここにいます。私達はここにいます。私達の軍隊もここにいます。市民もここにいます。みんな、我が国の独立を守っています。これからもずっとそうあり続けます。ウクライナを守る人たちに栄光あれ。ウクライナに栄光あれ!」

 ウクライナに取って大きな転換となったこの決断。

 国際社会の、向き合い方も問われていくことになります。

 侵攻開始から3日目、降伏に応じないウクライナに対し、ロシアは力でねじ伏せるかのように攻撃を激化していった。しかし、ウクライナ市民の激しい抵抗
は、ロシアに取って想定外の事だった。歓迎されるとすら思っていたロシア兵は戸惑う。

 「ロシアは、私達の社会を理解していません。私達は民主的な社会を持っています。彼らはウクライナをロシアの一部だと思い込んでいるのです。私達が何故戦っているのか、何のために戦っているのかを分っていないのです。自分たちの国を守ろうとみんなが立ち上がったのです。」

 「武器をもっと人たちから、キュウリやトマトの瓶詰めを持ったおばあちゃんまで。侵攻当初、こうした多くの人たちがいなければウクライナは決して立ちゆかなかったでしょう。職業や立場に関係なく、自ら行動する人々が現れたことでウクライナは抵抗できるというわずかな希望が確信に変わりました。」

 私たちが、勝つためには、世界を納得させなければなりません。私達は身を守り、勝つために全力を尽くすことが出来る。それを世界に示せたとき、私達は武器の支援を受け始めたのです。

 侵攻開始から3日目、欧米各国は、ウクライナへの軍事支援を発表しはじめました。

 軍事侵攻から72時間。ロシアに屈しなかったウクライナ。しかし、それは、長く厳しい闘いの始まりでもありました。

  NHKスペシャル「ウクライナ大統領府緊迫の72時間」から

 改めてこの戦争、ウクライナが負けるというようなことがあってはならない。「市民の犠牲を伴う徹底抗戦という決断」をしたゼレンスキー政権には大義がある。もしウクライナがロシアに負けるようなことになれば、その大義がなくなる。ウクライナが勝って戦争が終わり、改めてこの戦争の総括がきちんとされなければならない。と思うのは当然のことだが・・・

 「私達が、勝つためには、世界を納得させなければなりません・・・」この言葉の重みをしっかりと受け止めなければならない。

       令和5年2月28日       笹原 真二
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雪が舞う お誘いの無い 日曜日 さみしさ共に 思いは巡る

2023-01-29 17:39:50 | Weblog
  戸田さん
 井原青年会議所(当時68?名)に入会した33年前、平成元年1月14日(井原青年会議所の例会日)が、戸田さん(10歳先輩)と初めて会った日だった。戸田さんは、レナウン、バーバリーなど高級衣料品や、地元井原産の生地を使った鮮やかな藍色の作務衣を作る縫製会社を経営されていた。 

 40歳定年の青年会議所では、戸田さんと被ったのは一年だけ。委員会も違ったし、ほとんど話もしたことが無かったが、「大らかな、笑顔の素敵なダンディーなおじさん」という印象があった。だから、あんな風になりたいという気になる先輩だった。
 
 戸田さんが、青年会議所を卒業して三年ほどたった頃、屋根瓦の葺き替えの見積もりをしてほしいと声を掛けてもらった。行ってみると、「本瓦葺きで見積もってくれ。」お寺の屋根の本瓦葺きはあっても、普通の和型の瓦価格より3倍から4倍掛かる本瓦葺きでの民家の見積依頼など、あることはないと思っていた。戸田さんの見積依頼は、驚きだった。

 そんな経緯で、母屋の瓦の葺き替えを本瓦葺きでさせてもらった。以降、離れ、蔵、北の塀、10年ほど前には、門長屋、南の塀、車入門、他。離れと車入門は和型だったが、他は全て本瓦葺きでの仕事をさせていただいた。

 瓦は、東大寺の昭和の大修理の瓦を製造した奈良瓦センターの本瓦。その瓦センターの営業の植田さんが現場に来たとき、「ここは、文化財の現場ですか?」と聞いてきた。たまたまそこに戸田さんの奥さんが。「普通のおうちです。」と。
 
 戸田さんは、「先祖からもらった家は、大切にせんと。」躯体だけでなく、建具も、かつて使っていた物を再使用する。万事がそんな調子で。「全部壊して、新築した方が安く上がるんじゃないんですか?」と言っても「これでえんじゃ!(良い)」と。使える物は使うと全ての物を大切にされる方だった。

 門長屋の改修が終わると庭に芝を張った。暑い盛り行ってみると、パンツ一丁で芝の中の雑草を取っていた。「こうやってちゃんと、雑草を取ってやらんと、芝もきれいに張らん。」

 庭の岩松も、雑草を取って、取って、砂利を綺麗にして、水を打って、打って、見事に岩松を育て上げた。「手を掛けてやらんと根付かん。手を掛けた分だけきれいに根付く。」松、梅の木の周りには見事な岩松が根付いている。

 そんな戸田さんはペースメーカーを入れていた。「わしの心臓は30%くらいしか機能しとらん。」実際、青年会議所の忘年会で倒れ心肺停止状態になったことがある。幸い、医者が同席をしていて応急処置がなされ大事には至らなかった。という強運の持ち主だった。

 母校、興譲館高校の、陸上競技部の応援も、選手、監督コーチを自宅に招き、食事会を何度も開かれた。ステーキ、ウナギ、カレー、すき焼き、しゃぶしゃぶ等、白菜のごとく鍋いっぱいに入れられた松茸のすき焼きは、見たことの無いすき焼きだった。親元を離れ寮で生活している子供たちが、興譲館で、井原という街で過ごしている。高校時代、青春時代の大切な3年間、「井原に来て良かった。」という思いを持って帰ってくれたら・・・」とよく言われていた。

 全国高校駅伝の応援も、毎年のように。二年前は、世界の100台、日本に2台しかない戸田さんの愛車ベントレーに乗って京都へ。途中、「運転を変わってくれ」と、身体は軽トラ仕様になっているのに、名車ベントレーを運転する羽目に。ウインカーを出したはずが、フロントガラスのワイパーが右に左に。

 興譲館高校OGの新谷仁美が出場した韓国、大邱の世界選手権、新谷と重友梨佐が出場した、ロンドンオリンピックも、一人で応援に行かれた。日本国中探しても、こんな人はいないんじゃ無いか。
 
 20年程前、名古屋の江場さんの仕事で、上海で瓦の仕事をしたことがある。その時も、屋根の上で仕事をしていると、誰か車から降りてきたと思ったら、戸田さんが、「おーい、来たど!」

 上海の松江という、大学がいっぱいあるところで仕事をしてきますと、言ってはいたものの、まさか本当に現場まで来られるとは思ってもみなかった。懐かしい、嬉しい思い出だ。

 田中建設の行ちゃん、井原自動車の柳本さん、江草板金、他数名の方と共に、よく食事に誘われた。多いときは月2~3回の時もあった。一月もお誘いの電話が無いと、行ちゃんと「戸田さん、体調でも悪いんだろうか?」というような話になる。お誘いの電話は、戸田さんの体調のバロメーターになっていた。

 そんな戸田さんが、2019年に一時体調を崩された。年末には痩せ方が酷く、大丈夫かと思うようなこともあった。それでも、元のダンディーな戸田さんに戻っていった。

 翌年には「前立腺に癌が見つかった」と。根拠は無いが、戸田さんは大丈夫。と思っていた。なぜなら、変わらず、「新見へ焼き肉を食べに行こう。「中華を、食べに行こう。」「今度は、インド料理を。」「うちで、鍋をするから。」「ビーフシチューを作ったから。」と変わらずお誘いの電話が入った。ビーフシチューは、戸田さん自ら寸胴鍋で2日間煮込んだものだ。ご飯も土鍋で自ら炊いた。

 スーパー銭湯の垢すりで、仲良くなった韓国のおばさんに、韓国の家庭料理を作ってもらったから。というお誘いに行ってみると、「渡り蟹を醤油だれで漬け込んだというカンジャンケジャン」あまりの美味に、「これが、家庭料理?韓国の人は平生こんな美味しいもの食ってるんですか?これは宮廷料理でしょ!」

 昨年の7月、お誘いが一月半くらい途絶えたことがあった。あとで聞いてみると「コロナに掛かっとった。」「戸田さんのような、基礎疾患の百貨店みたいな人が、コロナに掛かったらやばいでしょ。」というと、「喉が痛かったけど、たいしたことない。」
時々、倉敷中央病院に入院しながら、退院したら、お誘いがあった。「退院そうそう、大丈夫なんですか?」と言いながらご馳走になった。だから、「戸田さんは、大丈夫」という想いがあった。

 12月19日メールが入る「残念ですが、今年の高校駅伝には行けません。来年の都道府県対抗女子駅伝の日時と、興譲館から何名エントリーしているか教えてください。」「1月15日、日曜日10時半スタートです。エントリーは4名で、走るのは2人になるとの事です。」

 21日、「明日の昼、「たかいで」(井原市内)で、焼き肉を食べよう!仕事中かもしれないが、現場から来れば良い。」という電話が入った。22日、行ってみると、奥さんは来られていたが・・・しばらくすると、弟さんと車で、倉敷中央病院から、今退院してきたという。「退院そうそう、焼き肉なんて大丈夫ですか?」「24日の京都、エクシブ(八瀬離宮)が取れとったのにごめんよう。せっかく興譲館、応援しようと思っていたのに。来年じゃ、14日、京都に行こう!」

 12月27日、「福山へ鰻を食べに行こう。」というお誘い。田中建設の行ちゃんと夕方6時過ぎに迎えに行くと。井原商工会議所の川井会頭に、手を引かれながら車に乗り込まれた。

 福山の鰻の「中勝」というお店に着くと臨時休業。「薬のせいか?味覚が変わって、何を食べてもあんまり美味しくないんじゃ。鰻だけが味が変わらんから食べたかったけど、仕方が無い、中華にしよう。」と、同じく福山の池野飯店でご馳走になった。戸田さんの家に帰ったのは9時前だった。明らかにきつそうだった。それでも、戸田さんが亡くなるなどと、露ほども考えられなかった。

 1月9日、今治で買った「晴れ姫」というミカンを届ける。留守のようだったのでメモ書きとメールを入れて帰る。翌日、戸田さんから、「笹原さん、ミカンたいへんありがとうございます、たいへん感謝します、」というメールが入る。

 この文章が、ものすごく気になった。このメールを打つことは、戸田さんの体力をものすごく使わせてしまうことになったかもしれないと・・・

 14日土曜日、朝、雨だった。仕事は休みにしていた。7時44分、田中建設の行ちゃんから、電話が入る。「戸田さんが、午前4時頃亡くなった。」

 12月27日以降、考えて見れば、あの状態であれば、いつ逝っても不思議でなかったような気はする。しかし、戸田さんが亡くなるという事は全く想像もつかなかった。何度も、蘇った戸田さんを見てきたから、癌は無くならないかもしれないが、調和しながらまた元気になるのではという思いがあった。

 12月24日。戸田さんと奥さんは、主治医から、余命10日という宣告を受けていたという。新年を迎えることができるかどうかとも・・・それでも、30日には戸田さん自身が運転して、児島の弟さんの家の餅つきに行かれたそうだ。
年が明けて、元旦にはお雑煮も食べたと。二日は、弟さん家族と、井原で、初詣に。

 12日、井原の小田病院に入院、13日の夕方には、一人でお風呂に入ることが出来たそうだ・・・主治医の宣告余命10日を、大きく上回り1月14日、大好きだった井原青年会議所の例会日に亡くなられた。

 10年前、親父が亡くなった時、あの状況では助からないだろうという思いはあったが、亡くなるという事。通夜をするという事、お葬式をするということは、全く想像出来なかった。

 土曜日の午前4時頃亡くなった事も同じだった。その日のお通夜、翌日曜日のお葬式。月曜日から日常に戻る。親父の時と同じようなだと思いながら二日間を過ごした。

 生前、「ピンピン、コロリが良い。俺の、棺桶を担いでくれ。」という事を何度か聞いていた。戸田邸を出るときも、葬儀会場から出るときも、戸田さんの棺を担がせてもらったことに、ある意味幸せを感じた。
   令和5年1月28日               笹原 真二

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