東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

光市 石城山の神籠石など史跡調査ウォーキング(3/4)

2016年03月09日 | 歴史探訪他ウォーキング

  西水門を過ぎて、急な上り坂を登りました。休憩所跡までに屏風岩と亀石があるはずです。すっばり切れ落ちた屏風岩はあったのですが、亀石はありませんでした。おそらく、大きな長方体のような岩がそれではないかと思います。昔の人が、大きな岩を、一番似ている物に例えて名付けたのでしょう。亀石を過ぎてすぐの所に開けた場所がありました。ここにはかつて休憩所の建物がありました。しかし、今は単に物見平になっています。ここからは、光市がよく見下ろせます。先日歩いた虎ヶ岳の頂が良く見えました。晴れた日には周防灘が良く見えるのではないかと思います。

    休憩所跡から見た光市方面         石城山の月の峰:三角点がある
 

 休憩所からは周防灘が良く見えると言うことは、古代において大宰府方面から来る船が見えたはずです。石城山には狼煙台跡もありますので、狼煙の経由地でもあったかも知れません。ところで、休憩所跡から、石城山で二番目に高い月の峰に登りました。ここには国土地理院の三角点があります。一番高い高日峰ではなく、二番目に高い月の峰に三角点がある理由はなんでしょうか。眺望が良いからでしょうか。

            石城山の中で一番古いと言われる石城神社に到着


 続いて、第二奇兵隊本陣跡に行きました。ここには神護寺の本堂があったそうですが、今は何もありません。南側の山裾に岸信介書の第二奇兵隊の顕彰石碑があります。その顕彰碑を見た後、石城神社に行きました。この神社は、子供の頃から何度も来ました。ところで、今回は好運なことに宮司さんに出会いました。時々掃除に来るとのことで、普段着の宮司さんでした。塩田の石城山神社社務所に住んでおられるそうです。絵葉書5枚と石城神社の由来が書かれた紙を一枚いただきました。ありがとうございました。由来によると、敏達天皇3年(574年)に吉備屯倉の津史が来たことなどの経緯が石城神社の始まりとのこと。これが事実ならば、神籠石が築かれる前に神社があったことになります。

   石城神社の宮司さん    三国史城に降りる伊賀口     鶴ヶ峰下の祠
  

 石城神社で宮司さんのお話しを伺った後、神護寺跡を細かく散策しました。獅子の穴から消えて無くなったと言われる獅子頭を探してみましたが見つかりませんでした。しばらくあたりを散策した後、伊賀口を少し下りました。そのまま、降り続けると三国史城に着きます。しかし、途中で折り返して石の口方面に向かいました。石の口にはTさんの家があります。時々家に滞在されているようです。今回は、大木のはるか頭上に登っておられました。この大木を伐採するため登っているとのこと。石の口への下山道を聞きましたが、今は通れないそうです。
 石の口の下山道を無理して降りれば石ノ口八幡宮に着きますが、今回は止めました。ところで、石ノ口八幡宮の立派な石垣は、石城山の神籠石と何等かの関係があるのでしょうか。もしかして、石城山入口としての守り口,関所,又は物資などの流入をする重要な場所だったのかも知れません。この石ノ口八幡宮から南側の城南地区には、たくさんの古墳があります。山口県で最古の国森古墳、山口県で最大の石室をもつ後井古墳などたくさんの古代の古墳がありますので。

    石の口近くで咲いていた梅           石の口の幽界(墓所)
 

 明治以前、田布施町の城南地区と光市の塩田地区は同じ地域でした。そのため、石城神社の三つの御神輿はお祭り時に城南宿井に降ろされていました。つまり、宿井は石城神社の氏子だったのです。ところが、明治になってから石城神社は城南地区と切り離されました。つまり宿井の人々は石城神社の氏子ではなく、石ノ口八幡宮の氏子になったようです。かつて御神輿が休んだ御旅所は人知れず今でも宿井に残っています。また、お祭りの話は紙芝居として残っています。氏子域は変わりましたが、石城神社や石ノ口八幡宮など城南宿井吉井界隈の御社は、今も石城神社の宮司さんがお祓いしています。石城神社にあった三つの御神輿は、今は塩田の社務所にあるそうです。

           石城山に分け入って史跡を散策したコース

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする