東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

田布施川沿い史跡巡り往復ウォーキング(4/7) あいさつ橋~新定位堰

2014年04月10日 | 歴史探訪他ウォーキング

 田布施町庁舎近くのあいさつ橋で田布施川を外れ、用事のある山口銀行に行きました。銀行の用事を済ませると、再びあいさつ橋に戻って田布施川をさらに上流に向けて歩きました。

                                  あいさつ橋~新定位堰のコースと史跡


 ところで、あいさつ橋から少し20m位砂田交差点方面に行った場所にお地蔵様があります。このお地蔵様、私が中学高校の時も同じ場所にありました。しかし、不思議な事に向きが180°反対なのです。私が中学生の頃は道路側を向いていましたが、今は歩道側を向いています。道路工事のさい、歩く人の方に向きを変えたのでしょう。

   向きが180°変わっていたお地蔵様           田布施幼稚園裏の石碑
 

 山口銀行の用事を済ませると、再び田布施川沿いに上流を目指して歩きました。桜の並木を過ぎた頃、右手に龍厳寺と田布施幼稚園が見えてきました。赤茶色の屋根側はとても立派です。その幼稚園の北側に接するように昭和15年建立の石碑が建っていました。このお寺の創建に関することと思われることが書いてありました。岩城山と彫られていますが、石城山の間違いではないでしょうか?
 昔はお寺が経営する幼稚園があちこちにありました。今でも幼稚園を経営していると思われるこの龍厳寺はとても稀有な存在です。幼稚園前の広場で幼児たちが元気に遊んでいました。はきはきとした、良い挨拶をしてくれました。

                  赤茶色の屋根瓦がとても立派な龍厳寺


 龍厳寺から田布施川の堤防に戻ると、再び上流に向けて歩きました。この付近は、江戸時代に田布施川の向きを変えた場所です。江戸時代前期まで、田布施川の本流は薬師川として田布施町の街中を流れていました。そして、灸川に流れ込んでいました。
 江戸時代は、この薬師川から灸川や堀川を経由して瀬戸内海へ通じる船での物流が盛んでした。航空写真を見ると、かつて薬師川の川幅が広かったことが分かります。法寺坊近くに船が係留されていた船回しがあったそうです。

     龍厳寺から上流に向かう               昭和11年定堰耕地整理の石碑
 

 田布施川の流れを変えた場所は、台風などでよく決壊したようです。最後に決壊したのは、昭和25年のキジヤ台風の時のようです。この時は、田布施の街が水浸しになったとか。この災害を契機に昭和30年、田布施川の川幅が拡張されました。
 江戸時代に田布施川の流れを変えて以降、川幅を広げたり定期的に浚渫を繰り返しています。自然を改造した結果、維持するコストもそれなりにかかるようです。

     薬師川に水を取り込む取水口            田布施川に関わる竣工の石碑
 

 新定位堰傍に昭和20年代竣工の石碑があります。文字が読みにくいため分からないのですが、田布施川に関する竣工の石碑だと思われます。その石碑から上流側30m位の道脇に2体のお地蔵様が安置されています。詳細な文字が刻まれていないため、何のために安置されてのかは分かりません。水害か何らかの災害にあった方々を弔うためではないかと思われます。いつかこの近くに住む古老に聞いてみたいと思います。時間をみて、古い石碑の拓本を取るなどしてみようと思います。

                 瀬戸地区の道路脇に安置された2体のお地蔵様



 八海をスタートして田布施川左岸の堤防を上流に向かって歩き、新開橋から引き返して右岸の堤防を歩いて八海へ戻りました。途中、田布施川沿いの史跡や神社仏閣を訪ねました。歩いたコースを7ヶ所に分けました。それぞれをクリックしてください。

 (1/7)八海天神社~こくぼ橋   (2/7)平生湾~灸川河口
 (3/7)川添橋~旧関戸橋          (4/7)あいさつ橋~新定位堰
 (5/7)水戸橋~詩情公園        (6/7)田布施町庁舎~旧関戸橋
 (7/7)川添橋~八海公会堂 

            田布施川沿い史跡巡り往復ウォーキングコースの概略

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