東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

田布施町 天王原古墳は坪曽古墳の誤り?本来の天王原古墳を探しながらミニウォーキング

2014年04月18日 | 歴史探訪他ウォーキング

 田布施町大波野の古墳のうち、坪曽古墳の場所がこれまで分からなくて困っていました。ところが、「田布施町地方史研究会会誌第102号 平成4年11月1日発行」や「山口県遺跡地図1991年版」を見て分かりました。それによると、下地図で175が坪曽古墳、176が納蔵原古墳、そして40が天王原古墳と記載されていました。つまり、従来から天王原古墳と呼ばれてきた古墳は、実は坪曽古墳のようです。
 175を含む地域は天王原と呼ばれているようですので、転記を誤りさらに誤記に気が付かなかったのかも知れません。あるいは、「天王原の坪曽古墳」とすべきところを、「天王原の古墳」と、さらに「天王原古墳」と呼ぶようになったのではないでしょうか。175の遺跡調査時に古墳名を付けるときに、例えば天王原2号古墳とでもすればその後の誤解が無かったかも知れません。あるいは40を例えば惣津古墳かまたは上段古墳と最初に記名しておけば、175を天王原古墳と記名できたかも知れません。
 なお、39は天王原遺跡域ですので、その隣に付随する古墳を天王原古墳と名付けたのでしょう。なお、番号の順番からすると、天王原遺跡と天王古墳を同時期に調査し、この後しばらくして納蔵原古墳と坪曽古墳を調査したようです。

   天王原古墳,納蔵原古墳,坪曽古墳の位置 山口県遺跡地図1991年版より抜粋


 「山口県遺跡地図1991年版」に記載されている天王原古墳はどこにあるのでしょうか。今回、その天王原古墳を、私,N君,そしてEさんの3人で探すミニウォーキングをしました。遺跡地図上では、上段から木地に抜ける道脇にこの古墳があるようです。これまで何度かこの道を通ったことがありますが、古墳があることに気が付きませんでした。

   最初、N君のため納蔵原古墳を見学       子守りをしていた方に道を尋ねる
 

 この地域に詳しい誓立寺ご住職のTさんにお聞きしようと、昼前にお電話しました。しかしながら、留守のようでした。そこで、午後2時過ぎに誓立寺に直接行きましたが、やはり留守とのことでした。そこで、車を停めさせていただくことを奥様にご了解いただき、3人で天王原古墳を探しに行くことにしました。天王原古墳を探すためのミニウォーキングの開始です。

           惣津地区から上段地区へ抜ける、普段使われていない荒れた山道


 納蔵原古墳は一昨日行ったばかりですが、N君のために納蔵原古墳に寄りました。納蔵原古墳を見学後、惣津地区に足を進めました。途中上段方面への道が分からなくなったため、子守りをしていた方に道を教えていただきました。ありがとうございました。

              惣津川を渡ったすぐの場所に石積みを発見、古墳跡?


 教えていただいた通りに、惣津から上段に抜ける道を進みました。最近誰も通らないような道を分け入ると、惣津川に出ました。コンクリート製の橋を渡りました。渡ってすぐ右の畑に石積みを発見しました。場所的にはこの石積みが古墳の石室跡のようにも見えます。
 しかし石積みはだいぶ崩れているため石室かどうかは即断できません。ただ、石積みの上には天井石のように長い石が置かれていました。私は古墳の素人ですので、これが古墳跡かどうかは分かりません。地主さんに聞いた上に、さらに天王原古墳の調査資料と照らし合わせて確認するしかないようです。

              石積みの上に、天井石のような石が置かれているが?


 結局、天王原古墳とはっきり確認できるものはありませんでした。わずかにそれらしき石積みが確認できただけです。その石積みを除いて、古墳らしき痕跡はまったくありませんでした。あるいは、惣津と上段にまたがる丘の上にあるのでしょうか?
これ以上探しても徒労に終わるだけのようですので、気分を取り直して上段地区をミニウォーキングすることにしました。

      石積み付近の道を上段へ         整然として綺麗な上段地区の石垣
 

 上段地区に入ると、整然とした石垣が並ぶ民家の道を上へと登って行きました。上段公会堂近くで、たまたま草刈りをしていたYさんにいろいろとお聞きしました。ありがとうございました。お聞きしたお話の中で、公民館前の家型石碑はとても古いとの事でした。
 そこで、その家型石碑前面に彫られている和暦を調べると、慶長20年(1586年)でした。大阪夏の陣で豊臣家が滅んだ年です。その隣りの小さな墓碑は明和2年(1765年)です。これらの石碑から、戦国時代にはすでに上段地区に大勢の人が住んでいたことが分かります。

    Yさんに上段地区について教わる       とても古い家型石碑、矢印方向に登る
 

 上段公会堂から、脇道を登りました。最初は上段地区の墓地がいくつか続いていました。この道筋から、上段はもちろん余田,新庄,さらに柳井方面を見渡すことができます。どんどん坂を上っていくと小さな神社広場に出ました。その一つ目の神社からさらに上に続く道がありました。その道をどんどん登ると、立派な石鳥居がありその向かうに100段近い石段がありました。その石段を登ぼると二つ目の神社がありました。

                  立派な石鳥居と100段近くある石階段


 本来ならば、この二つ目の神社から柳井方面や平生湾方面が見えるそうです。しかし、木が茂っているため見渡すことができませんでした。わずかに木々の間から、柳井や平生方面が見えました。昔は景色が良かったのでしょう。

      頂上の神社前広場                二つ目の神社の20m北に鉄塔
 

 二つ目の神社の周りを歩いていると、塔のようなものが見えました。そこに行ってみると、とても高い鉄塔が建っていました。柳井市の火力発電所からの電力を送電している鉄塔ではないかと思います。その鉄塔が建っている場所は開けており、柳井方面,赤子山,平生湾などが良く見えました。遠望していると、長い貨物列車がゴトゴトと線路を走っているのが見えました。

           赤子山方面手前の線路を、長い貨物列車がゴトゴトを走っている

 再び、100段近い石段を歩いて上段地区の民家に降りました。この付近、猪がよく出るようです。どの田んぼも周りが鉄網で頑丈に囲まれていました。鉄網がない時代、猪の被害に困っていたことでしょう。耳を澄ますとカエルの鳴き声が聞こえてきました。

                上段地区の綺麗な田んぼ、中央の坂道に桜が等間隔に並ぶ


 圃場整備された田んぼをいくつか見渡しながら、誓立寺に戻りました。途中、東田布施小学校から下校している子供達とすれ違いました。付近を流れる川(惣津川?)の名前や橋の名前(惣津橋?)を聞きましたが知らないようでした。

  上段地区から余田,赤子山方面を見て           道沿いで咲く綺麗な八重桜
 

 誓立寺に着くと奥様にお礼を言った後、車に乗って帰りました。のんびり楽しいミニウォーキングでしたが、天王原古墳の実態がどうなのか気にかかります。

     天王原古墳を探しつつ、ミニウォーキングした大波野の惣津地区と上段地区
                  黄色の線は、実際にウォーキングしたコース

コメント
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