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湘南ライナー日記 SHONAN LINER NOTES

会社帰りの湘南ライナーの中で書いていた日記を継続中

懐かしい場所

2009-05-09 23:43:59 | 思い出日和


先日新聞でJA横浜の本社が二俣川に竣工、中区から移転してくるという記事を読んだ。
おぉ、そこは横浜市立二俣川小学校が現在地に移転する前の場所ではないか。ということは、当時の鉄筋コンクリートの校舎をそのまま利用していたJA二俣川支店を取り壊して建て直したんだな。
僕はその二俣川小学校に入学、確か4年の途中に小学校の裏手の丘の上に移転したと記憶している。
学校の前を走る厚木街道の交通量が増え危険だからというのが、移転の理由だった。モータリゼーションが急激に進んだ頃で、当時NHKで毎朝放送されていた『スタジオ102』という番組でも取り上げられ、中継車までやってきた。
ところが、その厚木街道の南側(二俣川二丁目やさちが丘エリア)に住んでいた僕たちは、移転してもやっぱりその厚木街道を渡って登校するのだから、理由がよく理解できなかった。しかも、厚木街道を直接渡らないために、大きく遠回りをして駅の改札の前を通って歩道橋をわたる。家から5~6分で行けるところを、倍以上の時間をかけて通うという理不尽。いま思えば危険な場所はが、かえって増えていたことになる。
ただ、さすがに6年生になると厚木街道を渡って下校していたけど(笑)。


今日は子供たちと実家に行った(残念ながら水戸には行けず)。
そのついでに、母校のあたりまで散歩に出た。校舎は少し増築されているくらいで、プールも体育館もあのころのままで懐かしい。でも、よく見ると校舎内にX字に鋼材が補強されている。たぶん耐震強度を高めるためだ。


そして、校庭が妙に狭く感じたのは、自分の体が大きくなったからかな。
現校舎から旧校舎に降りていく坂の右手にある「二俣川一丁目公園」。その崖下には、かつて防空壕があった。その前に2階建ての木造の大きな校舎があり、西側の校舎と渡り廊下でつながっていた。そこには明治時代に建てられた平屋の校舎。2年生時は、その教室で学んだ。その裏の2階建ての校舎を潰して鉄筋コンクリートの校舎が建ったのだ。
その校舎の西側、厚木街道に沿って進むと内藤パン屋、布団屋、漆原眼科、そして清花という中華そば屋があった。眼科と清花の間の路地を入ってすぐ左に、この方が住んでいた。鍵はポストの中に。なんでそんなこと知っているんだ?

想い出の未成人映画

2009-05-08 22:35:06 | 思い出日和


初めてピンク映画を観たのは、高校生の頃だ。
招待券を手に入れたという友人と、大和駅前で待ち合わせた。
少しでも大人に見せようとブレザー姿で家を出る。着慣れないせいもあって、なんだかうまく歩けない。しかも、みんながこっちを見ているような気がするから尚更なのだ。これから挑戦する悪事を、すっかり見透かされているんじゃないかとさえ思えた。
待ち合わせの場所では、やはり似合わぬブレザーをまとった友人が立っていた。
精一杯背伸びしたつもりで歩くおかしな二人組は、ほどなく成人映画専門館に到着する。
しかし、ここで躊躇などしてはいけない。歩いてきた勢いのまま、入口に突入だ。
わざと咳払いなどしながらおばちゃんに招待券を差し出す。
・・・

ところが、彼女は手元に視線を送るばかりで、一度も顔を上げることがなかった。
あっけなく入場成功。
考えてみれば、その手の映画なのだから、ちゃんとプライバシーを尊重してくれるのだ。しかも招待券であれば、とがめる理由はない。となると、僕らのブレザー姿はいったい…。
さて館内では扉を開ける前から、こもった怪しげな声が響いている。期待は高まる。そして扉を開けた途端、そのあえぎ声は何十倍もの音量になって僕らの体に降り注いだ。
しかし、ブレザーを着こんだ大人としては、ここで怯んでいては負けだ。堂々としていようじゃないかと、何を血迷ったか二人は最前列に着席するのであった。
座ったと同時に足を組んで、あいている隣の席の背もたれに手をかけたりなんかして、ちょっと余裕のポーズである。
ようやく見上げた僕たちの目に飛び込んできたのは、コメディー仕立てのピンク映画だった。これがけっこう面白くて、本物の大人たちと一緒に声をあげて笑い続けてしまった。
法を犯し、ブレザーまで着て観た初めてのピンク映画だというのに、やけに笑った印象だけで、いくら記憶を辿ってみても、エロいシーンが浮かんでこないのである。


写真は横須賀を歩いたときに見つけた成人映画専門館。30年代の全盛期には、朝から制服姿の自衛官が列をつくっていたそうだ。
さて、その後、再びピンク映画を観ることになるまで、そう時間はかからなかった。大学生になって、別の友人から毎月のように招待券をもらう。おやじさんが日活の関係者だったのだ。仕方なく(笑)西口の「にっかつ」に通ったが、やはりここでも面白い映画に時々出会った。ピンク出身の監督が次々とメジャーで活躍するという流れを知ったのは、それから随分たった後のことだった。

入学おめでとう

2009-04-13 22:13:23 | 思い出日和


小学校6年生も終わりになると、コースか時代の選択を迫られた。
学研の『中一コース』と旺文社の『中一時代』という月刊の学習雑誌の話だ(時代は三年になると『蛍雪時代』となる)。
今はどちらも大判になりカラーのビジュアルが多用されているようだが、僕らの頃は小さくてやたら分厚いところが魅力的な本だった。
つまり、まるで絵本のサイズのようでちょっと幼稚なイメージの小学館『小学○年生』を卒業して、オレちょっと大人じゃん的な優越感を、この小ささと厚みに感じたものである。当時は。
別に、どちらかを購読しなきゃいけないということはなかったのだけれど、6年生の年明けぐらいになると、「オマエどっちにする?」「オレ、時代」「オレはコース」なんていう会話が交わされていた。
その選択の決め手となっていたのが、実は購読予約特典の万年筆である。
紙の雑誌なのに立派な万年筆がもらえるというインパクトは絶大だった。あの頃はそれが一気に大人になるために不可欠なツールだと思い込んでいたのかもしれない。その重要なアイテムが“おまけ”というのも、いま思えば笑っちゃうけどね。
結局僕は万年筆のデザイン的な好みではなく、小学校のころ購読していた『科学』つながりで学研の『コース』を選択した。
手に入れた万年筆の真ん中のネジを回して分解、初めて中にカートリッジを差し込んだ時の手応えや匂いは今でも覚えている。そして、誇らしげに書きまくった。嬉しくて無駄に書きまくった。カートリッジを買い足し何本かをカラにするとペン先が広がり、まだ3月だというのにダメにした。
ところが4月になると、親戚のおじさんが入学祝にとパーカーの万年筆をくれたのだ。
今度は大切に使ったが、入学式以降、学校へ持って行ったかといえば、NOである。
はたして中学生に万年筆が相応しいのか、そして今も万年筆がおまけに付いてくるのか、謎ではある。

すみません、何の変哲もない今日の写真、なんだかわかりませんよね。昼休みの散チャリ中に見つけた『ゼブラ』本社ビルです。筆記用具つながりで(笑)。「おめでとう、シャーボを贈ろう」というCMがあったな。CMといえば、あのおかしな「ゼブラゾーンを渡りましょう」というのを思い出して、横断歩道を入れて写してみました(笑)。よく見ると、ビルもゼブラゾーンになってる!

コイン式綿菓子製造機

2009-04-07 23:22:25 | 思い出日和


商店街にあるお茶屋さんの店先に、突然そのマシンが置かれたのは僕が小学校高学年の頃のことだ。
それは、直径1m弱、高さ130cmほどの円筒形をしていた。腰の高さまでが本体で、確かオレンジ色。そこから上は、透明のプラスチックになっていた。
ちょっと眺めてから、僕たちは一斉に声を上げた。
「わた菓子だ!」「わたアメだ!」
あっ、ちょっとズレた(笑)。
縁日で見かける綿菓子製造マシンだったのだ。
1回10円だったか。原料のザラメを中央の筒の中に放り込みスイッチを入れると、それがグルグル回り出す。スピードが増すと、そこから溶け出したザラメが糸状になって渦を巻く。そこに割り箸を立てると、それがまとわりついてきてだんだん綿菓子らしくなってくるのだ。
気分は、もう綿菓子屋さん!子供にとっては、夢のようなマシンの登場だった。
とはいっても、なかなかふんわりと大きく膨らまないので、何度も何度もチャレンジすることになる。毎日、放課後になると走って駆けつけた。甘すぎるから好きではないのに、一体いくつ食べただろう。どれだけ袖口や手をベトベトにしたことだろう。
ひたすらやり続けてハッキリしたのは、綿菓子というものは、食べるよりも製造する工程がメチャクチャ面白いということだった。

今じゃ、ゲーセンにあったり、イベント用レンタルがあるけどね。
写真は、日曜日の海老名本郷神社のお祭りで。

愛じゃない!恋じゃない?

2009-03-24 23:56:45 | 思い出日和


午後、仕事で鶴見駅からバスで大黒埠頭に。
ベイブリッジのたもとに立つと、20年ほど前、ある女性と交わした約束を思い出さずにはいられなかった。
(おいおい長くなりそうだぞ、簡潔にな)

それは、あるウィークデーの午後。当時まだ恋人同士だった妻と、完成して間もないベイブリッジを渡りスカイウォークにやってきた。
ガラガラの駐車場に車を停めて歩き出すと、ドラマのロケに出くわす。有名人がぞろぞろ。ただ、見学者はぼちぼちだった。
その現場から少し離れた所に、いわゆるロケバスが停まっている。真ん中のドアが開いていて、人影が動いたような気がした。
目を凝らすと、当時大好きだった女性タレントが、こちらを向いて座っていた。
「あっ!早見優ちゃん」
と思った瞬間、彼女は見られているとは知らずアクビを始めたのだ。もちろん手で口を覆ってはいるものの、真正面に立っている僕の存在に気づいて驚く。
ここからだ、まるでドラマのような展開で、二人は固い絆で結ばれていくことになるのは。
「しまった!」
という表情を見せながら彼女は、口の前に広げていた手の人差し指だけを立てた。
そう、「シー」「内緒」というポーズをとったのだ。
そして、潤んだ瞳で僕だけを見て、こう言った。
「いま見たことは、これから先もずっとずっと、二人だけのヒ・ミ・ツ」と。
いや、口に出して言ったわけではなかったのかもしれない。でも、僕には確かにそう聞こえたのだ。
当然、僕は笑顔で頷く。彼女もまた、潤んだ瞳のまま飛びきりの笑顔を投げて寄越すのだった。
時間にすれば、ほんの数秒のこと。しかし、そのとき僕と彼女の間には永遠の時が流れていた。
あれから20年、遂に僕は彼女との約束を破って、今日事実を世界に発信した。
ごめんね、優。
彼女はこんな僕を見て、また瞳を潤ませるのだろうか。
あぁ、アクビしなけりゃ潤まないか。

WBCのシャンパンファイト、見てるだけで笑顔になっちゃいますね。それにしても、前回も今回も筋書きのあるドラマでした。絶対に、どこかで故・梶原一騎氏が脚本を書いているはず。

思い出したくない綱島

2009-03-16 23:55:49 | 思い出日和


綱島駅といえば、忘れられない光景がある。
もうウン十年も前、武蔵小杉にある高校に通っていた頃のことだ。その朝も、横浜から東横線に乗って右側のドア際に立ち、ぼんやりと外を眺めていた。
電車は綱島駅のホームに滑り込む。下りホームで電車を待つ人の中にいた60歳位のオバチャンに、なぜか目がいった。そのオバチャンは、上半身をかがめて両手を膝のあたりに当てる。そして、次の瞬間、自分のスカートをたくし上げたのだ!
ご開帳である。
ショックだった。電車に向かって。えっ?痴女か。
いや、そんなはずはない。見たくはなかったけれど、通り過ぎた後、首をぐるっとやって、もう一度確認してみた。
おぉ、何事もなかったように、すまして立っているではないか。
なるほど、そうか。そのオバチャン、実は何らかの理由でホームでパンストを穿こうとしていたと想像する。そして、膝の所まで穿いていたパンストを、電車が入ってきた瞬間に一気にお腹のところまで引っ張り上げたと考えるのはどうだろう。
つまり、上りホームには渋谷方面へ向かうたくさんの人たちが電車を待っている。だから、その衆目の中、パンストをお腹まで引き上げるわけにはいかなかった。そこで、滑り込んできた電車によって、上りホームの人々の視線が遮られる時を待ち、「ヨシ、今だ」と実行に移したのだ。
このオバチャン、電車の乗客の視線までは考えていなかった。ホームから走っている電車の中は見えないが、電車の中からは止まっているホームの様子はよく見えるのだ。そこに考えが及ばなかった。
そうは考えてみるものの、そのおぞましい光景はウブな高校生の僕にとって刺激が強すぎた。
なにしろ今でも綱島駅を通過するたびに、必ずその光景がよみがえるってしまうのだから。

今日は、その綱島で下車してお仕事。写真は、そのオバチャンに何か通じるものがあるドレスのお店(笑)。


綱島駅のガード下、東急ストアの2階は飲み屋街になっている。線路に沿ってRを描く。蛍光灯が、電車の編成のよう。


帰りに九州ラーメン『グラバー亭』で「焼きちゃんぽん」を。この方がオーダーした「餃子」をいただく。これで、3日連続!

バックオーライ

2009-02-19 22:58:20 | 思い出日和


駅から徒歩圏内に住んでいたので、なかなか路線バスに乗る機会がなかった。
子供の頃、母親の実家に行く時にはバスを使った。年に何度かのこのチャンスに、僕は必ず運転手さんが見える席を選んだ。
駅前のごちゃごちゃした商店街を抜け大きな街道を横切ると、また狭い道が続く。角を曲がるときなどは、いったん反対側の塀に鼻先がぶつかりそうなくらい飛び出しておいて、運転手さんは一気にハンドルをグルグル回し始める。体を大きく揺らしながらのハンドルさばきから、一瞬たりとも目が離せない。
乗用車のハンドルは運転手に対して斜めだが、バスの場合は床面とほぼ平行である(ように見えた)。その細く黒いハンドルに、上から被せるように置かれた白い手袋が眩しかったのを覚えている。
そして、クラッチを踏みながら、床からニョッキリ出ている長い棒状のギアをガリガリやるのだ。何度も、何度も。
古いバスだ、いま思えば、なかなかうまく“入らなかった”のだろう。でも、その仕草さえ職人技のようで、僕を虜にした。
急カーブがあったり、木が道路に出ていたり、狭い所で対向車とすれ違ったり、終着のバス停まで運転手さんの奮闘は続いた。まだ、ボンネット型のバスが走っていたころの話だ。
だが、運転手さんは何事もなかったように、いつでも笑顔で僕を見送ってくれるのだった。

写真は相鉄の観光バス。観光バスになると、なぜか一番後ろの席が好きだった。の割には、浮かない顔(笑)。
スライドさせる窓が懐かしい。屋根のウインカーがカッチョイイ!

GY帽の謎

2009-02-04 22:58:37 | 思い出日和


2月に入り、スポーツニュースもプロ野球の話題がメインになった。
今でこそ各球団の情報が流れているが、僕が子供だった頃はプロ野球といえば『巨人軍』の話題ばかり。プロ野球中継も、巨人戦以外はほとんど放送されていなかったのではないか。
そして、テレビ画面の中で対戦相手は、もれなく“敵”という位置付けであった。
まあ、ON全盛だったから仕方がないけどね。僕たちはみんな一本足打法やミスターのスローイングを真似していたし。
そこで、今日の写真だ。すごいでしょ、みんなの野球帽に『GYマーク』がついています。でもコレ、実は通学帽なのだ。
当時、横浜市立二俣川小学校では、黄色い通学帽に校章を付ける決まりがなかったと記憶している(確か女子は通学帽すら被っていなかったように思う)。男子は、誰もが校章のかわりに『GYマーク』の付いた黄色い野球帽を全員が被っていた。
それは、なぜか…。
答えは簡単だ。二俣川駅周辺では、他チームのマークの付いた帽子を売っている店がなかったから。つまり、ジャイアンツのファンであろうがなかろうが、通学帽に関しては選択の余地がなかったというわけだ。
信じられないかもしれないが、そんなおかしな時代もあったんだよね。
そして、僕が大洋ホエールズのオレンジとグリーンの湘南カラーと呼ばれる野球帽を自らの意思で買うには、それから5年の歳月を待たなければならなかった。

最初で最後の東京タワー

2008-12-23 22:13:43 | 思い出日和


誕生日だそうだ、東京タワー50歳。
地デジだ、スカイツリーだと騒がれ出してから、かえって元気になったような気がする。
なんだか嬉しいですねぇ。他人とは思えないし(笑)。
子供のころから、よく絵も画いたなぁ。好きだった。
でも、初めて高い所から東京の街を見下ろした体験は、なぜか霞ヶ関ビル。小学生の時だ。
でも、やっぱりいつかは東京タワーに上ってみたい、ずっとそう思っていた。
そして、その願いを実現させたのは、大学生になってから。自分の夢を、デートの場面で叶えることにした。
ところが、これがまずかった。
展望台も館内もガラガラで、場末の観光地に来ちゃったなあという印象。
彼女、苦笑いである。
思い出すのは展望台からの眺めよりも、水族館のシーンばかりだ。暗闇に四角い水槽がズラリと並んだ迫力や、むせ返るような生臭さ。水族館と名はついていたが、まるで熱帯魚屋さんみたいだった。水槽には、値札がついていたような気もする(笑)。
これが原因ではないだろうが、それからいくらもしないうちに見事にフラれてしまった。
僕にとって東京タワーは、スッパイというより、ニガイというより、魚クサイ思い出なのだ。
写真は2006年に仕事の途中で。

                こんな楽しいムック本も出ています。


天体観測ブームだった

2008-12-15 23:20:31 | 思い出日和


少年たちはいつだって、宇宙や科学といったものに憧れを抱いているものだ。
ある時、これにいきなり火がつくことがある。
『天文年鑑』などという、年鑑にしてはかなり小版で、もちろん大人向けなのに手頃な価格で手に入ってしまうものを目の前に差し出された日には、それは宇宙ロケットの搭乗口に見えたものだ。
これまで存在すら知らなかったその本を差し出したのは、東京からニュータウンに引っ越してきたお金持ちのお坊ちゃん。僕たちにとって好都合だったのは、その彼がやたら勉強ができたことだ。
単に「天体望遠鏡を買ってくれ」とねだっても取り合ってくれなかっただろう親たちも、これが紛れもなく学習の一環であると判断するのに時間はかからなかった。
天体望遠鏡ブームは、小学五年生の頃だったと記憶している。
僕たちは夕方になると、友達の親父さんの会社のビルの屋上に集まり、買ってもらったばかりの望遠鏡を並べ、その先を天に向けた。
子供だけで夜に集まるなんて許されない時代であったが、何しろあくまで学習の一環である。楽しい天体観測は、夜な夜な行われることになった。
アポロ11号の映像と同じだった月面のクレーターに感動し、米粒より小さいのにクッキリ見えた土星の輪にときめいた。
とはいっても、所詮にわか天文ファンである。ダイナミックなロケットほど魅力がないことに気づくと、天に向いていた望遠鏡の先はだんだん下りてきて、やがてあたりの民家に向けられた。
科学の力を借りた“のぞき”である(笑)。これはまた、僕たちの密かな楽しみになるはずだった。
ところが、丘の上の友だちの家に焦点が合うと、家族みんなで笑いながら夕飯の食卓を囲んでいる光景が逆さまになって飛び込んできた。電灯のせいで赤味がかったその光景は、星よりも月よりもずっと温かく見える。僕たちは急に切なくなってきて、望遠鏡を担いで家路を急ぐのだった。

写真は、平塚伊勢原線の豊田本郷交差点の病院。天文年鑑があるはず。