次の書は、立林要害(館林城、現在の群馬県館林市)攻略における
戦功を称賛するため上杉顕定から家臣の豊島新次郎に発給されたも
ので、別名「豊島・宮城文書」。成立年代は文明3年(1471)に上杉
方の館林城攻略後であることから、同年と推定される。
当時の館林城は成氏方の最前線で、城主の赤井氏は成氏方であっ
た。この城は東西南の3方を湖水に囲まれ、北側からしか攻撃でき
ない立地にあった。
ところが上杉方は大軍で城を包囲し、成氏方の援軍の侵入を阻止
したため、城内の士気が急降下し降伏となる。この松陰私語の中に
は、太田道灌も館林攻撃に参加していることが確認できる。
この文書は秩父平氏の一族である豊島氏と宮城氏に伝来したもの
で31点ある。塙忠韶(保己一の孫)旧蔵。
国立公文書館(千代田区北の丸公園3-2)
戦功を称賛するため上杉顕定から家臣の豊島新次郎に発給されたも
ので、別名「豊島・宮城文書」。成立年代は文明3年(1471)に上杉
方の館林城攻略後であることから、同年と推定される。
当時の館林城は成氏方の最前線で、城主の赤井氏は成氏方であっ
た。この城は東西南の3方を湖水に囲まれ、北側からしか攻撃でき
ない立地にあった。
ところが上杉方は大軍で城を包囲し、成氏方の援軍の侵入を阻止
したため、城内の士気が急降下し降伏となる。この松陰私語の中に
は、太田道灌も館林攻撃に参加していることが確認できる。
この文書は秩父平氏の一族である豊島氏と宮城氏に伝来したもの
で31点ある。塙忠韶(保己一の孫)旧蔵。
国立公文書館(千代田区北の丸公園3-2)