続いて、「光悦拝領略図地面写」(承応3年・1654、片岡忠英写、紙本
墨書、82.4/74.5cm、一舗)は、光悦寺に伝わる“光悦町古図”の写し。
「本阿弥行状記」第52段に、光悦は元和元年に家康から洛北鷹峯の
地を拝領したことが記されており、その地に屋敷を構え本阿弥一族と
ともに朋友や職人達に土地を分け与え集まり住んだという。
頭上を北とし、現在の鷹峯の地形とほぼ重なり、中心に“いはい所”
があり、ここは光悦寺の場所に相当。また図の右中央あたりに光悦屋
敷があり、各家の表聞口が記され茶屋四郎次郎、緒方宗伯、蓮池常有、
筆屋妙喜らといった法華町衆の名が確認できる。ただし、これは幕府
側の公式な文書ではなく、あくまで光悦が理想の地とした家割りの設
計図であったという考えもある。
この図は片岡家に秘蔵されていたもので、大正2年4月に片岡元徳か
ら寄進されたもの。
TNM(台東区上野公園13-9)
墨書、82.4/74.5cm、一舗)は、光悦寺に伝わる“光悦町古図”の写し。
「本阿弥行状記」第52段に、光悦は元和元年に家康から洛北鷹峯の
地を拝領したことが記されており、その地に屋敷を構え本阿弥一族と
ともに朋友や職人達に土地を分け与え集まり住んだという。
頭上を北とし、現在の鷹峯の地形とほぼ重なり、中心に“いはい所”
があり、ここは光悦寺の場所に相当。また図の右中央あたりに光悦屋
敷があり、各家の表聞口が記され茶屋四郎次郎、緒方宗伯、蓮池常有、
筆屋妙喜らといった法華町衆の名が確認できる。ただし、これは幕府
側の公式な文書ではなく、あくまで光悦が理想の地とした家割りの設
計図であったという考えもある。
この図は片岡家に秘蔵されていたもので、大正2年4月に片岡元徳か
ら寄進されたもの。
TNM(台東区上野公園13-9)