次の書は、曽我祐重に宛てた相模国小田原城主・大森明昇の書状
の写し。年代は長享2年(1488)か3年と推定される。明昇は享徳
の乱時に道灌と共に戦った武将。
書状の内容は、長享元年から始まった扇谷上杉氏と山内上杉氏の
抗争・長享の乱について諫言しているもの。扇谷上杉氏は山内上杉
氏に比べ勢力が小さかったが、道灌の力量によって威勢を天下万民
に知らしめたと述べている。
それは天地自然の道理と幸運によって導かれ、世の中が混沌とし
ていても、太陽と月が空から降ってこないことを3歳の子供でも知
っているのと同じく明白だと言っている。
これにより、道灌の死後に勃発した長享の乱の中で、道灌の功績
が高く評価されたことが伺える。神奈川県伊勢原市の洞昌院に道灌
の墓がある。
展示資料は、山鹿素行が武家の歴史を著述した「武家事記」(成立
:延宝元年・1673)巻34に収録された写し。
国立公文書館(千代田区北の丸公園3-2)
の写し。年代は長享2年(1488)か3年と推定される。明昇は享徳
の乱時に道灌と共に戦った武将。
書状の内容は、長享元年から始まった扇谷上杉氏と山内上杉氏の
抗争・長享の乱について諫言しているもの。扇谷上杉氏は山内上杉
氏に比べ勢力が小さかったが、道灌の力量によって威勢を天下万民
に知らしめたと述べている。
それは天地自然の道理と幸運によって導かれ、世の中が混沌とし
ていても、太陽と月が空から降ってこないことを3歳の子供でも知
っているのと同じく明白だと言っている。
これにより、道灌の死後に勃発した長享の乱の中で、道灌の功績
が高く評価されたことが伺える。神奈川県伊勢原市の洞昌院に道灌
の墓がある。
展示資料は、山鹿素行が武家の歴史を著述した「武家事記」(成立
:延宝元年・1673)巻34に収録された写し。
国立公文書館(千代田区北の丸公園3-2)