塩哲の色不異空

日々の思いを気の向くままに

ミュージアム巡り 太田道灌と江戸 道灌像

2018-07-31 05:40:52 | ミュージアム巡り_2020
 次の画は、寛政8年(1796)に道灌の子孫によって描かれた道灌
像画。上部に記された和歌は道灌作と伝来している。

 「あつさ弓おもいなれしも にくみしもたえて我のみ」
 「月をみるかな」
 この画は、神奈川県伊勢原市の大慈寺・普済寺にて管理。

 最後は、江戸城を築いた道灌時代の江戸湊や城周辺図、また15
世紀後半の関東戦乱に道灌が転戦した図が展示されていた。

国立公文書館(千代田区北の丸公園3-2)

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ミュージアム巡り 太田道灌と江戸 道灌状写

2018-07-30 05:43:30 | ミュージアム巡り_2020
 次の書は、太田道灌から山内上杉氏・上杉顕定の家臣・高瀬式部丞
に宛てた書状の写し。

 ここには文明9年(1477)の長尾景春の離反に始まる乱前後の関
東地方の政治的動向や合戦状況が記されており、戦国初期の関東情
勢を知る貴重な史料である。

国立公文書館(千代田区北の丸公園3-2)

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ミュージアム巡り 太田道灌と江戸 大森明昇書状写

2018-07-29 05:01:38 | ミュージアム巡り_2020
 次の書は、曽我祐重に宛てた相模国小田原城主・大森明昇の書状
の写し。年代は長享2年(1488)か3年と推定される。明昇は享徳
の乱時に道灌と共に戦った武将。
 書状の内容は、長享元年から始まった扇谷上杉氏と山内上杉氏の
抗争・長享の乱について諫言しているもの。扇谷上杉氏は山内上杉
氏に比べ勢力が小さかったが、道灌の力量によって威勢を天下万民
に知らしめたと述べている。

 それは天地自然の道理と幸運によって導かれ、世の中が混沌とし
ていても、太陽と月が空から降ってこないことを3歳の子供でも知
っているのと同じく明白だと言っている。

 これにより、道灌の死後に勃発した長享の乱の中で、道灌の功績
が高く評価されたことが伺える。神奈川県伊勢原市の洞昌院に道灌
の墓がある。
 展示資料は、山鹿素行が武家の歴史を著述した「武家事記」(成立
:延宝元年・1673)巻34に収録された写し。
国立公文書館(千代田区北の丸公園3-2)

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Weekendの麺処巡り らあめん生姜は文化。 で 塩生姜

2018-07-28 13:24:55 | 麺_2020
 本日(7月28日)、神田にある塩生姜麺専門店「マニッシュ」の姉
妹店として本駒込6丁目に創業された「らあめん 生姜は文化。」へ
GO。

 台風12号の影響で雨が降ったり止んだり、それでも大降りとはな
らず、待ちの間も傘を差したりたたんだり。そうこうしていると
ケ麺さん
の登場で、いろいろと情報をいただいき感謝です。

 券売機で「塩生姜らあめん(味玉入り)」850円のチケットを購入
して、L字カウンター13席ある中央あたりへ着席。
 登場した一杯、「マニッシュ」仕様とは幾分変わっており、チャ
ーシューはスライスした丸いタイプ、海苔も載ります。そして麺は
三河屋製麺の平打ち特注麺で、口に入れた時や喉越しの食感は滑ら
かで素晴らしい。こりゃ、良い麺だ。

 圧巻だったのは清湯淡麗スープ、奥深い味わいで生姜の風味が喉
から鼻へ抜ける感覚がたまらなく良いなあ。塩気もまろやかで静謐
にして豪壮、深遠にして端麗、感動ものの一杯だった、ご馳走様。

らあめん 生姜は文化。
文京区本駒込6-6-2 沢谷ビル1F
11:00〜
※ 営業時間や休業、限定ラアメンの情報は
Twitter @nosionolife にて

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ミュージアム巡り 太田道灌と江戸 上杉定正書状写

2018-07-28 05:39:41 | ミュージアム巡り_2020
 次の書は、江戸城代で扇谷上杉家家臣の曽我祐重に宛てた上杉定正
の書状の写し。本文の冒頭以降は31箇条の箇条書きで、養子の朝良
への教育と自身の体験などをもとに、合戦の仕方等を書き留めたもの。
 展示箇所は22箇条目で、道灌を誅殺した理由が述べられている。
そこには、道灌が山内上杉氏に対して不義を企て、それに対してたび
たび諫めたものの、道灌が謀反を犯そうとしたため誅殺したとある。

 道灌殺害に至る詳細は不明なものの、少なくとも道灌殺害直前に定
正と道灌の間が不和状態だと判る。道灌の墓は神奈川県伊勢原市の大
慈寺に伝首塚としてある。
 展示資料は「古証文」巻2に収録された写し。
 文明18年(1486)7月26日、定正は相模国糟屋館(神奈川県伊勢原
市)で道灌を殺害。その理由は、江戸・川越の諸城を補強し扇谷上杉氏
の基盤である武蔵・相模の安定化を目指した道灌の行動が、共に足利
成氏に対抗していた山内上杉氏顕定に対する謀反にあたっていたから
とされる。
 ところが、道灌が没したことで顕定は勢力回復を図っていた定正と
敵対となり、武蔵・相模の多くの武士達が離反して顕定側につく。
 定正は明応3年(1494)10月5日武蔵国高見原(現在の埼玉県小川
町)で、顕定と対陣中に荒川を渡ろうとした時、落馬して急死となる。
国立公文書館(千代田区北の丸公園3-2)

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