錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『笛吹童子』(その1)

2006-09-17 04:39:54 | 笛吹童子

 中村錦之助の名前を一躍日本中に知らしめた映画と言えば、まさにこれである。
 東映映画『笛吹童子』第一部が封切られたのは昭和29年4月27日、ゴールデンウイークに入る直前のことだった。『笛吹童子』は封切られるやいなや爆発的人気を呼んだ。続いて第二部が同年5月3日、第三部が5月10日に封切られた。連続ものの三部作で、一週間に一作ずつ上映されて行った。そして、これが爆発的人気をさらに爆発的にした。
 日本中のどれほどの多くの少年少女がこの映画を観に行ったのだろう。その数は分からないが、数百万人に上ったに違いない。観客は、昭和29年当時の小・中学生が中心だったが、幼児や高校生も含まれていた。年代的に言えば、昭和10年代後半から昭和20年代初めに生まれた子供たち。こんなことを言っては悪いが、戦争中ないしは戦後直後のドサクサまぎれに生まれた子供たちである。現在の年齢なら、70歳から60歳くらいまでの間の人たちで、いわゆる「団塊の世代」(昭和22・23年生まれ、戦後のベビー・ブーム世代)より数歳上の世代である。
 かく言う私は、彼らに比べてずっと若く、サンフランシスコ講和条約が公布され日本がアメリカの占領時代を終えた昭和27年4月生まれなので、もちろんリアルタイムで『笛吹童子』を観ていない。物心つくかつかぬうちに東映映画の洗礼を受け、錦之助の大ファンになったとはいえ、覚えのあるのは『紅孔雀』からである。ただ、七歳年上の私の兄が、『笛吹童子』からずっと東映映画のファンだったので、幼い頃の私は兄の影響をもろに受けて育った。
 赤ん坊時代が終わると私も両親と兄に連れられて、東映の映画館に行き始めたようだ。そのうち兄よりも熱心な東映ファンになってしまい、休日に父と二人だけで観に行くようになった。目黒駅のそばに多分東映の映画館があったのだろう。もしかすると五反田だったかもしれないが、映画館が大変混んでいて座席が取れないと、よく通路に坐って観ていた記憶と、映画を観た後、父と二人で目黒の権之助坂をてくてく歩いて中目黒の自宅へ帰って来た記憶が断片的に残っている。権之助坂の途中におもちゃ屋があって、そこで刀やメンコを買ってもらったこともよく覚えている。
 当時のガキたちは、チャンバラ映画を観ては、庭や空き地で刀を振り回して遊んでいた。アイドルの錦之助はたいてい柄のある派手な着物を着ていた。そこで、私も真似た。それには、押入れにあるお客用の布団を包んでいた大風呂敷が最適だった。濃い緑色の地に白い唐草模様があるヤツである。私はそれを引きはがし、肩からかぶって、チャンバラごっこをしていた。きっと私は『紅孔雀』の「那智の小天狗」に成りすましていたのだろう。この仮の衣装を泥だらけにしたり、破いたりして、母にこっぴどく叱られたこともあったと思う。

 『笛吹童子』の話に戻そう。この映画、封切りではなかったが、大昔にどこかで観たような気がする。映画館で再映された時だったかもしれないし、テレビで放映された時かもしれない。子供の私にとって『笛吹童子』は、先輩たちから語り継がれた伝説の映画で、観たい映画のナンバーワンだったはずである。だから、きっと観たのだと思う。実は、この間、それこそ50年ぶりに『笛吹童子』第一部のビデオを観て、見覚えのあるシーンが二、三あったのには驚いた。萩丸(東千代之介)が悪者にどくろの面をかぶされて、取れなくなってしまうシーンと、最後に霧の小次郎(大友柳太朗)が竜に乗って現れ、処刑寸前の娘(田代百合子)をさらって行くシーンである。小次郎が雲の上でワッハッハと大声で笑う場面がカッコ良く、記憶に鮮やかだった。
 そして、先週の月曜、池袋の新文芸座で『笛吹童子』三部作を一挙上映するというので、観に行った。昼からの二回目だったが、大入りとは行かぬまでも、百数十人の観客がいた。ほとんどは60歳以上のシニアで、男性と女性が半々だった。夜の部はもっと多くの観客が詰め掛けたと思う。多分若い男女も混じっていたことだろう。私は一回だけ観て、映画館で出会った知り合いの男性と飲みに行ってしまったのだが、彼(65歳)は、朝から二回観たとのことだった。近くに座っていた老婦人など、三回観てから帰ると言っていた。スクリーンで『笛吹童子』を観られる機会は死ぬまでないかもしれない---そんな悲壮な思いを抱いてここへ観に来た人たちも数多く居たようだった。(つづく)




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10 コメント

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ボクも笛吹世代じゃない (青山彰吾)
2006-09-17 10:02:27
 こんにちは。

 ボクも笛吹世代じゃなく、「笛吹童子」シリーズや「紅孔雀」シリーズを観たのは、今から30年前、東映がニュープリントを用意したホール上映でした。

 あのころ、日本映画界では旧作上映がちょっとブームになっていて、東映でいえば、ほかに「大菩薩峠」3部作や「飢餓海峡」「新吾十番勝負」シリーズ(これはリアルタイムでも観ています)などが上映されましたね。まだ今のようにビデオソフトが一般化されていないころです。

 ボクの記憶にある一番古い東映時代劇は伏見扇太郎主演の「孫悟空」で、あれを東映時代劇というかどうかは別にして、調べると1956年の作品でした。

 中村錦之助でいえば、翌57年の「ゆうれい船」2部作ですね。これ以前にも観ているのかもしれませんが、これが最も古い、ボクの記憶に残っている錦之助映画です。

 オヤジやアニキに連れられてって、似たような体験をしていますよね^^ もっとも、4年生くらいになると、近くの映画館へボクは一人でも映画を観に行くようになっていました。
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月光仮面世代ですかね? (背寒)
2006-09-17 12:50:26
こんにちは。私は東映時代劇は小学2・3年で卒業しまして、それからはたまにしか観ませんでした。

テレビが中心になって、「月光仮面」「隠密剣士」と追いかけ、大瀬ファンになってしまいました。

小6位から一人で映画に行くことが徐々に解禁になったので、007あたりから洋画中心に観始めた感じです。

伏見扇太郎の「孫悟空」はまったく記憶にありません。そんな映画、あったんですか?錦之助の「ゆうれい船」は観たような気もしますが、あまり印象に残っていません。

青山さんは、任侠やくざ映画をたくさん観ているようですが、私も結構観ましたよ。でも、筋がほとんど同じなんで、今では全部混ざってしまって、区別がつきません。高校時代は、亡くなった今村昌平の映画が好きで、よく観ていました。「神々の深き欲望」から今村映画にハマって、それ以前の作品も観るように努めていました。銀座にあった並木座がホーム・グラウンドで、毎週通っていました。邦画の名画はほとんど並木座で観ましたね。

その後結婚して、仕事も忙しくなり、映画から離れました。

映画をまた観始めたのは、ビデオが出回り始めてからですかね。でも、新作はフランス映画以外ほとんど観ていません。映画館へ行くようになったのは、ごく最近からです。
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笛吹童子から・・・ (倭錦)
2006-09-17 16:45:06
 小学校4年の時、雨の土曜日半ドンの学校から帰ると昼めしもそこそこに、家族には友達と一緒に観に行くと嘘をついて家を飛び出し(最初の計画は一緒だったが友達は親の許可が出なかった。)子供の足で小1時間はかかる道のりを街の映画館へ急いだ。田舎の映画館だから封切ではなく1ヶ月遅れ位の5月末か6月に成っていたかも知れない。3部作一挙上映プラス「唄しぐれ おしどり若衆」の併映で、休憩も含めると合計5時間近い上映に成ると思うが夢中で2回り観てしまった!!映画館を出た時は10時近かったと思うが、お腹が空いたとか怖いとか考える事も無く、大人も怖がって余りで出歩かない炭鉱の町の夜の繁華街を今観てきた映画の興奮の余韻で夢見心地で帰ったのが50余年も昔の事なのに昨日の事の様に思い出される。それ程、強烈な「錦ちゃん」初体験の思い出である。正に「背寒さん」の言う「笛吹童子」世代の小生です、「笛吹童子」を語るときりが有りませんが場所をお借りて少しだけ語らせてください。「新諸国物語 7部作」は第1作「白鳥の騎士」は大友柳太朗主演で新東宝(53年)、第4作「オテナの搭」何故か東宝が映画化権を取り中村扇雀(現・坂田藤十郎)・嵐 寛寿郎で東宝(56年)で映画化、東映は「雄呂血の秘宝」として結束信二のオリジナル脚本で映画化、結果は共倒れ、そして第5作「七つの誓い」は東映に戻ってヒット、やはり錦ちゃんは強かった!!第6作「天の鶯」の頃からテレビの普及で子供たちのラジオ離れが始まり(小生も聴取の記憶が無い?)映画化はされず一方でこの頃から錦ちゃんは演技派へ転向?第7作「黄金孔雀城・4部作」(61年)は里見浩太郎・山城新伍にバトンタッチ「新黄金孔雀城・七人の騎士3部作」(61年)へと続いて終了した。この間「笛吹童子」から「霧の小次郎」「三日月童子」を「紅孔雀」から「風小僧」そして「風小僧」から「白馬童子」と作品を転化して稼いだが「笛吹童子」世代も錦ちゃんと共に成長して行き団塊の世代はテレビ「月光仮面」「隠密剣士」「仮面ライダー」・・・と移行し東映のお子様路線は終息を迎える。
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どうそ語ってください! (背寒)
2006-09-18 11:57:42
質問!

田舎って、九州のどこですか?北九州ですか?

『笛吹童子』全編と『唄しぐれ・おしどり若衆』を二周り観たというのはすごいですね!小4で、夜10時まで映画館に居たとは大変な体験だったでしょうね。

倭錦さんは、田代百合子にイチコロになっちゃった方ですか?それとも高千穂ひづる派ですか。正直にお答えください。あと、私は何度観ても『笛吹童子』の錦ちゃんはカッコいいと感じないのですが、倭錦さんはどうですか?この映画は大友柳太朗が主演みたいで、霧の小次郎の方が存在感がありますよね。

先日『里見八犬伝』と『紅孔雀』も全編ビデオで見直しましたが、『紅孔雀』の那智の小天狗の錦ちゃんはいいなと思いました。

もうこうなったら、『里見八犬伝』『紅孔雀』『七つの誓い』『獅子丸一平』を順番に書いて行こうと決心していますが、書けるかどうか…?疲れます。

ところで、山城新吾の『風小僧』と『白馬童子』はテレビでずっと観ていました。でも、『隠密剣士』の方が好きでした。錦之助とは関係ありませんが、私は子供の頃、吉川英治の『神州天馬峡』が大好きで、本も二、三度読みましたが、テレビでもやっていたと思います。あれをまた観たいなーと思っていますが、かなわぬ夢でして…。

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再度、お邪魔します。 (倭錦)
2006-09-18 16:39:13
 背寒様、「笛吹童子」この映画が何故、我々世代にとってバイブルの様な存在なのか?確かに現在観ると子供騙しで荒唐無稽な作品でが、当時夕暮れに成るとラジオに齧り付いて1年間“血沸き肉躍らせて”脳裏に描き続けた大冒険活劇が映像として観る事が出来る!!これはテレビ世代には絶対に味わえない感動でした!!ストーリーはダイジェスト版の如く展開しますが”今を去ること500年・・・・天下は麻の如く乱れ・・・”のナレーションを聞くと1年間脳裏に描きつけた場面が次から次へとオーバーラップし映像が膨らんで感情移入し、自分が菊丸に成ったような錯覚すら憶えるのです。たしかに錦ちゃんの出番は少なかったと思うが出演者一人ひとりに感情移入出来るのです、霧の小次郎・桔梗・胡蝶尼・三日月童子・堤婆・阿呆の呑作・斑鳩隼人・化け物達・そして赤垣玄播にいたるまで私の頭に描いていたものがスクリーンに飛び出して生き生きと動いているのです、そしてその時の感動が50年経った今でも甦るのです、おそらく今回映画館へ来た私と同じ世代の人は同じ思いではないかと思います。背寒さんの質問の田代派?高千穂派?ですが当時はおくて?の小4でしたので余り意識ていません、ただ単純に清純派の桔梗をヒロインとして見ていました。でも胡蝶尼の”出え~て来い!出え~て来い!・・・”と言うセリフや小次郎に抱かれて死ぬ場面に涙した印象は残っています、その意味では高千穂派かな?高千穂ひづると言えば、「紅孔雀」の“久美”は素敵でした!彼女の意思の強そうな眼が好きでした。高千穂ひづると錦ちゃんの共演はその外「お坊主天狗」「満月狸ばやし」「越後獅子祭り・やくざ若衆」「あばれ纏千両肌」「紅顔の若武者・織田信長」「羅生門の妖気」「赤穂浪士」「獅子丸一平・3部~完結篇」「曽我兄弟・富士の夜襲」「任侠清水港」と続くがひづるの松竹移籍で途絶える。田代百合子の儚げな風情は男心を擽るが何故か苦手で有った気がする共演作は「里見八犬傳」「お坊主天狗」「新選組鬼隊長」「青春航路 海の若人」「あばれ振袖」「赤穂浪士」「ヒマラヤの魔王」「青年安兵衛 紅だすき素浪人」「源氏九郎颯爽記 濡れ髪二刀流」が有る彼女も松竹へ去る、二人とも男性中心の東映に不満があったようだ。初代東映城三人娘の残る“千原しのぶ”はちょっと大人系で馴染め無かった、最後まで東映に所属するが錦ちゃんとの共演作は「唄ごよみ いろは若衆」「新選組鬼隊長」「勢ぞろい 喧嘩若衆」「越後獅子祭り やくざ若衆」「獅子丸一平 五部作」「晴姿一番纏」「悲恋おかる勘平」「薄雲太夫より 怪談・千鳥ヶ淵」「新諸国物語 七つの誓い」」「源氏九郎颯爽記 濡れ髪二刀流」「水戸黄門」「任侠東海道」と続くが新三人娘の登場で端役へ回り「若き日の次郎長 東海一の若親分」「赤穂浪士」「千姫と秀頼」へと続く、その外“長谷川裕見子”“中原ひとみ”との共演をへて新三人娘との共演が多くなるがその中では”丘さとみ”との共演が一番多く又、息も有っていたと思う。しかしマンネリを嫌ったのか大作では新人や他社女優との共演が多くなる。高千穂派・田代派からすっかり話が逸れましたが、共演女優の話は別の機会にいづれまた・・・ もうひとつの質問の出身地ですが、福岡県飯塚市という”炭鉱の町”です。“遠賀川の川筋もん”といって非常に気性の荒いことで有名で(小生は違いますよ!!)“花と龍”でもそう言う表現が出てくる筈です。
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イマジネーション (背寒)
2006-09-19 08:59:13
ラジオドラマで「笛吹童子」を聴いていた子供たちは、倭錦さんがおっしゃるように、イマジネーションを刺激され、思い思いに登場人物のイメージを描いていたんでしょうね。映画やテレビが伝えるなまなましさとは違い、ラジオは想像の世界の中を自由に遊ばせてくれる…。とくに「笛吹童子」や「紅孔雀」は、物語の内容がああいう冒険的ものですから、余計にイメージを膨らませることができたのでしょう。それが映画化されたんですから、スゴイことになっちゃった!

子供のときの強烈な体験は、爺さん婆さんになっても、鮮やかに蘇るようです。倭錦さんたちの世代の「笛吹童子」体験はまさにそれなんでしょうね。

今度「紅孔雀」のことを書こうと思っているのですが、高千穂ひづるの「久美」は実に良かった。お恥ずかしい限りですが、私は50歳を越してからまた高千穂ひづるに惚れ直してしまいました。あんなに素敵だったとは思いませんでした。東映の女優では、ガキの頃からずっと、丘チンのファンでして、長谷川裕見子も好きだった。初代三人娘では、千原しのぶの印象が強かった。確かに、高千穂さんも田代さんも東映辞めてしまいましたからね。印象が薄かったのは当然かもしれません。私より数歳年上の男性たちに聞くと、田代派と高千穂派に分かれるみたいです。そこで倭錦さんにも、不躾ながら質問いたしました。あの二人はタイプが違いますから、これで女性の好みが分かるんですよ。二代目三人娘では、丘さとみが好きか、大川恵子が好きかで、二つに分かれます。私の世代はこっちの選択を迫られましたね。大川恵子の人気もいまだに根強いので、驚きます。

ご出身、福岡の飯塚市ですか。「川筋もん」という言葉はよく耳にします。どしょっ骨が据わっていて、気が荒い?特別な気性のようですね。私は残念ながら、九州人の性格には無知なので、分かりませんが、北九州も地域によって土地柄だけでなく人の性格もずいぶん違うようですね…。
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懐かしさを共有して (どうしん)
2006-09-25 21:59:53
笛吹童子世代の熱い思いを読ませていただきました。ラジオといえば、我が家にあったラジオは、そんなに大きくはなくて、薄い茶色の布が張ってあったような記憶があります。戦争中は中国にも共に行ったラジオです。(小さかったので私の記憶にはありませんが)親から聞かされた思い出のラジオの前で、楽しんで待ちわびて聞いたものです。倭錦さまのおっしゃるように、耳で聞いて空想していたものが、目に見ることの出来る映画になったのですから、どんなに子供は喜んだことでしょう。

制作される側の意図は、敗戦から復興した日本が、いつまでも平和を願って、子供たちに平和を伝えるために、企画したのかも知れませんが、私達子供は、ただただ嬉しく楽しかったようでした。でも背寒さまが、教えてくださった、HPのメロディを聞いていると、何故か涙が出てまいります。こんなに哀愁があったのですね。福田蘭童と川崎弘子がご夫婦とは、初めて知りました。またその子供が、あの犬塚弘なのですね。・・・でもあの頃は、まだまだ大人たちは、大変でしたね。
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あのメロディー… (背寒)
2006-09-26 10:31:35
「笛吹童子」は名曲ですよね。あの物悲しいメロディを聴いていると、胸にじんーと来ます。あのHPは、多くの名曲を歌詞を見ながら聴けるので、私は他の曲も検索して、時々聴いています。メロディに合わせて、歌ったりもしています。

福田蘭童と川崎弘子の恋愛事件の時は、映画界だけでなく日本中が大騒ぎだったようです。蘭童はドンファンとして有名、川崎弘子は松竹の看板女優でしたから…。城戸四郎社長もしぶしぶ承諾し、菊池寛が二人を応援して、一肌脱いだとのことです。結婚してからは蘭童の女遊びも直ったようで、作曲と釣りに励んだそうです。川崎弘子は結婚後引退し、戦後は、夫婦仲睦まじく、渋谷で活魚料理店を営んでいましたね。開高健は、蘭童の釣りの弟子で、開高のエッセイを読むと釣り名人の蘭童のことがよく出て来ます。

昭和51年に川崎弘子が亡くなると、蘭童も後を追うようにして他界しました。

二人の子供は、犬塚弘ではなく、石橋エータローです。お間違いなく!彼は、クレージーキャッツのピアニストとしてだけなく、後年は料理研究家として鳴らしていましたね。今みたいに、テレビで料理番組が多くなるずっと前のことで、金子信雄と並んで、頑張っていました。その彼も10年ほど前にあの世に行きました。
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おっちょこちょいで (どうしん)
2006-09-27 13:43:21
すみません。そそっかしく一人合点の私でした。かすかに思い出しました。お料理で出演されてましたね。

川崎弘子という俳優も、もしかすると違うお顔を想い浮かべているかもしれません。
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ちなみに (背寒)
2006-09-27 19:05:01
別冊太陽の「女優」って本がとても良い写真集で、巻末に川崎弘子の大判ブロマイドがあります。水着姿で、飛び込みの格好をしています。どうしん様に見せてあげたいですがね…。

最初に「わが青春のヒロイン」というページがあって、一人目がなんと夏川静江で、若い頃の美しい彼女の写真が大きく載っています。作家の大岡昇平が賛辞を書いていて、これが面白い。

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