中村錦之助の名前を一躍日本中に知らしめた映画と言えば、まさにこれである。
東映映画『笛吹童子』第一部が封切られたのは昭和29年4月27日、ゴールデンウイークに入る直前のことだった。『笛吹童子』は封切られるやいなや爆発的人気を呼んだ。続いて第二部が同年5月3日、第三部が5月10日に封切られた。連続ものの三部作で、一週間に一作ずつ上映されて行った。そして、これが爆発的人気をさらに爆発的にした。
日本中のどれほどの多くの少年少女がこの映画を観に行ったのだろう。その数は分からないが、数百万人に上ったに違いない。観客は、昭和29年当時の小・中学生が中心だったが、幼児や高校生も含まれていた。年代的に言えば、昭和10年代後半から昭和20年代初めに生まれた子供たち。こんなことを言っては悪いが、戦争中ないしは戦後直後のドサクサまぎれに生まれた子供たちである。現在の年齢なら、70歳から60歳くらいまでの間の人たちで、いわゆる「団塊の世代」(昭和22・23年生まれ、戦後のベビー・ブーム世代)より数歳上の世代である。
かく言う私は、彼らに比べてずっと若く、サンフランシスコ講和条約が公布され日本がアメリカの占領時代を終えた昭和27年4月生まれなので、もちろんリアルタイムで『笛吹童子』を観ていない。物心つくかつかぬうちに東映映画の洗礼を受け、錦之助の大ファンになったとはいえ、覚えのあるのは『紅孔雀』からである。ただ、七歳年上の私の兄が、『笛吹童子』からずっと東映映画のファンだったので、幼い頃の私は兄の影響をもろに受けて育った。
赤ん坊時代が終わると私も両親と兄に連れられて、東映の映画館に行き始めたようだ。そのうち兄よりも熱心な東映ファンになってしまい、休日に父と二人だけで観に行くようになった。目黒駅のそばに多分東映の映画館があったのだろう。もしかすると五反田だったかもしれないが、映画館が大変混んでいて座席が取れないと、よく通路に坐って観ていた記憶と、映画を観た後、父と二人で目黒の権之助坂をてくてく歩いて中目黒の自宅へ帰って来た記憶が断片的に残っている。権之助坂の途中におもちゃ屋があって、そこで刀やメンコを買ってもらったこともよく覚えている。
当時のガキたちは、チャンバラ映画を観ては、庭や空き地で刀を振り回して遊んでいた。アイドルの錦之助はたいてい柄のある派手な着物を着ていた。そこで、私も真似た。それには、押入れにあるお客用の布団を包んでいた大風呂敷が最適だった。濃い緑色の地に白い唐草模様があるヤツである。私はそれを引きはがし、肩からかぶって、チャンバラごっこをしていた。きっと私は『紅孔雀』の「那智の小天狗」に成りすましていたのだろう。この仮の衣装を泥だらけにしたり、破いたりして、母にこっぴどく叱られたこともあったと思う。
『笛吹童子』の話に戻そう。この映画、封切りではなかったが、大昔にどこかで観たような気がする。映画館で再映された時だったかもしれないし、テレビで放映された時かもしれない。子供の私にとって『笛吹童子』は、先輩たちから語り継がれた伝説の映画で、観たい映画のナンバーワンだったはずである。だから、きっと観たのだと思う。実は、この間、それこそ50年ぶりに『笛吹童子』第一部のビデオを観て、見覚えのあるシーンが二、三あったのには驚いた。萩丸(東千代之介)が悪者にどくろの面をかぶされて、取れなくなってしまうシーンと、最後に霧の小次郎(大友柳太朗)が竜に乗って現れ、処刑寸前の娘(田代百合子)をさらって行くシーンである。小次郎が雲の上でワッハッハと大声で笑う場面がカッコ良く、記憶に鮮やかだった。
そして、先週の月曜、池袋の新文芸座で『笛吹童子』三部作を一挙上映するというので、観に行った。昼からの二回目だったが、大入りとは行かぬまでも、百数十人の観客がいた。ほとんどは60歳以上のシニアで、男性と女性が半々だった。夜の部はもっと多くの観客が詰め掛けたと思う。多分若い男女も混じっていたことだろう。私は一回だけ観て、映画館で出会った知り合いの男性と飲みに行ってしまったのだが、彼(65歳)は、朝から二回観たとのことだった。近くに座っていた老婦人など、三回観てから帰ると言っていた。スクリーンで『笛吹童子』を観られる機会は死ぬまでないかもしれない---そんな悲壮な思いを抱いてここへ観に来た人たちも数多く居たようだった。(つづく)
ボクも笛吹世代じゃなく、「笛吹童子」シリーズや「紅孔雀」シリーズを観たのは、今から30年前、東映がニュープリントを用意したホール上映でした。
あのころ、日本映画界では旧作上映がちょっとブームになっていて、東映でいえば、ほかに「大菩薩峠」3部作や「飢餓海峡」「新吾十番勝負」シリーズ(これはリアルタイムでも観ています)などが上映されましたね。まだ今のようにビデオソフトが一般化されていないころです。
ボクの記憶にある一番古い東映時代劇は伏見扇太郎主演の「孫悟空」で、あれを東映時代劇というかどうかは別にして、調べると1956年の作品でした。
中村錦之助でいえば、翌57年の「ゆうれい船」2部作ですね。これ以前にも観ているのかもしれませんが、これが最も古い、ボクの記憶に残っている錦之助映画です。
オヤジやアニキに連れられてって、似たような体験をしていますよね^^ もっとも、4年生くらいになると、近くの映画館へボクは一人でも映画を観に行くようになっていました。
テレビが中心になって、「月光仮面」「隠密剣士」と追いかけ、大瀬ファンになってしまいました。
小6位から一人で映画に行くことが徐々に解禁になったので、007あたりから洋画中心に観始めた感じです。
伏見扇太郎の「孫悟空」はまったく記憶にありません。そんな映画、あったんですか?錦之助の「ゆうれい船」は観たような気もしますが、あまり印象に残っていません。
青山さんは、任侠やくざ映画をたくさん観ているようですが、私も結構観ましたよ。でも、筋がほとんど同じなんで、今では全部混ざってしまって、区別がつきません。高校時代は、亡くなった今村昌平の映画が好きで、よく観ていました。「神々の深き欲望」から今村映画にハマって、それ以前の作品も観るように努めていました。銀座にあった並木座がホーム・グラウンドで、毎週通っていました。邦画の名画はほとんど並木座で観ましたね。
その後結婚して、仕事も忙しくなり、映画から離れました。
映画をまた観始めたのは、ビデオが出回り始めてからですかね。でも、新作はフランス映画以外ほとんど観ていません。映画館へ行くようになったのは、ごく最近からです。
田舎って、九州のどこですか?北九州ですか?
『笛吹童子』全編と『唄しぐれ・おしどり若衆』を二周り観たというのはすごいですね!小4で、夜10時まで映画館に居たとは大変な体験だったでしょうね。
倭錦さんは、田代百合子にイチコロになっちゃった方ですか?それとも高千穂ひづる派ですか。正直にお答えください。あと、私は何度観ても『笛吹童子』の錦ちゃんはカッコいいと感じないのですが、倭錦さんはどうですか?この映画は大友柳太朗が主演みたいで、霧の小次郎の方が存在感がありますよね。
先日『里見八犬伝』と『紅孔雀』も全編ビデオで見直しましたが、『紅孔雀』の那智の小天狗の錦ちゃんはいいなと思いました。
もうこうなったら、『里見八犬伝』『紅孔雀』『七つの誓い』『獅子丸一平』を順番に書いて行こうと決心していますが、書けるかどうか…?疲れます。
ところで、山城新吾の『風小僧』と『白馬童子』はテレビでずっと観ていました。でも、『隠密剣士』の方が好きでした。錦之助とは関係ありませんが、私は子供の頃、吉川英治の『神州天馬峡』が大好きで、本も二、三度読みましたが、テレビでもやっていたと思います。あれをまた観たいなーと思っていますが、かなわぬ夢でして…。
子供のときの強烈な体験は、爺さん婆さんになっても、鮮やかに蘇るようです。倭錦さんたちの世代の「笛吹童子」体験はまさにそれなんでしょうね。
今度「紅孔雀」のことを書こうと思っているのですが、高千穂ひづるの「久美」は実に良かった。お恥ずかしい限りですが、私は50歳を越してからまた高千穂ひづるに惚れ直してしまいました。あんなに素敵だったとは思いませんでした。東映の女優では、ガキの頃からずっと、丘チンのファンでして、長谷川裕見子も好きだった。初代三人娘では、千原しのぶの印象が強かった。確かに、高千穂さんも田代さんも東映辞めてしまいましたからね。印象が薄かったのは当然かもしれません。私より数歳年上の男性たちに聞くと、田代派と高千穂派に分かれるみたいです。そこで倭錦さんにも、不躾ながら質問いたしました。あの二人はタイプが違いますから、これで女性の好みが分かるんですよ。二代目三人娘では、丘さとみが好きか、大川恵子が好きかで、二つに分かれます。私の世代はこっちの選択を迫られましたね。大川恵子の人気もいまだに根強いので、驚きます。
ご出身、福岡の飯塚市ですか。「川筋もん」という言葉はよく耳にします。どしょっ骨が据わっていて、気が荒い?特別な気性のようですね。私は残念ながら、九州人の性格には無知なので、分かりませんが、北九州も地域によって土地柄だけでなく人の性格もずいぶん違うようですね…。
制作される側の意図は、敗戦から復興した日本が、いつまでも平和を願って、子供たちに平和を伝えるために、企画したのかも知れませんが、私達子供は、ただただ嬉しく楽しかったようでした。でも背寒さまが、教えてくださった、HPのメロディを聞いていると、何故か涙が出てまいります。こんなに哀愁があったのですね。福田蘭童と川崎弘子がご夫婦とは、初めて知りました。またその子供が、あの犬塚弘なのですね。・・・でもあの頃は、まだまだ大人たちは、大変でしたね。
福田蘭童と川崎弘子の恋愛事件の時は、映画界だけでなく日本中が大騒ぎだったようです。蘭童はドンファンとして有名、川崎弘子は松竹の看板女優でしたから…。城戸四郎社長もしぶしぶ承諾し、菊池寛が二人を応援して、一肌脱いだとのことです。結婚してからは蘭童の女遊びも直ったようで、作曲と釣りに励んだそうです。川崎弘子は結婚後引退し、戦後は、夫婦仲睦まじく、渋谷で活魚料理店を営んでいましたね。開高健は、蘭童の釣りの弟子で、開高のエッセイを読むと釣り名人の蘭童のことがよく出て来ます。
昭和51年に川崎弘子が亡くなると、蘭童も後を追うようにして他界しました。
二人の子供は、犬塚弘ではなく、石橋エータローです。お間違いなく!彼は、クレージーキャッツのピアニストとしてだけなく、後年は料理研究家として鳴らしていましたね。今みたいに、テレビで料理番組が多くなるずっと前のことで、金子信雄と並んで、頑張っていました。その彼も10年ほど前にあの世に行きました。
川崎弘子という俳優も、もしかすると違うお顔を想い浮かべているかもしれません。
最初に「わが青春のヒロイン」というページがあって、一人目がなんと夏川静江で、若い頃の美しい彼女の写真が大きく載っています。作家の大岡昇平が賛辞を書いていて、これが面白い。