錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~花のカブキ小学校(その3)

2012-08-27 05:19:49 | 【錦之助伝】~誕生から少年期
 錦之助は、暁星小学校では劣等生の汚名に甘んじたが、自らも誇らしげに書いているように、「カブキ小学校では優等生」だった。
 歌舞伎界という一種の封建的社会では、門閥が重んじられる。それは、子役も同様である。
 錦之助は、三代目時蔵の四男坊であり、伯父に初代吉右衛門を持っていた。吉右衛門も時蔵も名門の出というわけではなかったが、吉右衛門は一代でその名を大名跡にした名優であり、その甥っ子といえば、名門の出も同然であった。錦之助自身、自分は名門の子、いわばエリートだと意識していた。吉右衛門には娘はいたが、息子がいなかったので、弟の時蔵のところにいる男の子四人(五男の賀津雄が生まれるのは昭和十三年)に初舞台を踏ませ、中でも四男坊の錦之助に目をかけて子役に育てていった。錦之助が名子役と言われるまでになったのも吉右衛門の力が計り知れぬほど大きい。
 一方、吉右衛門のライバル、六代目菊五郎のところには、自分の血筋を引く子で子役に使える男の子はいなかった。本妻との間に息子が生まれず、丑之助(のちの七代目梅幸)を養子にし、のちに妾の千代(後妻に入る)との間に生まれた右近(のちの九朗右衛門)を引き取って育てたが、昭和十年代には二人とも子役を卒業していた。そこで、自分の舞台で使える子役を探していたところ、四代目市川男女蔵の部屋子として昭和十年十一月、初舞台を踏んだ市川男女丸(おめまる)に目をつけ、以後子役として育てていくことになる。この男女丸がのちの大川橋蔵である。が、吉右衛門が錦之助を使ったほど、菊五郎は男女丸を重用しなかった。菊五郎が吉右衛門と合同公演をする場合には、錦之助を優先的に使うことも多かった。(男女丸は、昭和十九年、菊五郎の妻千代の養子になりその実家の姓「丹羽」を継ぎ、二代目大川橋蔵を襲名する。橋蔵は昭和四年生まれなので、襲名時すでに十五歳で、子役は卒業していた。)

 歌舞伎の役者、とくに戦前の一流役者は、妻との間に男子が生まれないと、妾腹の子でも男子なら引き取って跡継ぎにすえた。それでも出来なければ、誰かの子をもらって来て養子にした。その点、時蔵一家は子福者であり、妻のひなの貢献度は非常に高かったと言えよう。
 錦之助は、子役時代、橋蔵のように肩身の狭い思いをすることは決してなかった。
 歌舞伎の世界は、門閥があり、差別の世界である。役者にも厳然とした序列があり、幹部名題のほかに、いわゆる「三階さん」という階級があった。
 歌舞伎用語で「三階」といえば、舞台から一番遠く離れた三階の座席のこと(歌舞伎座の三階をご存知の方も多いだろう)をいうが、役者の楽屋でも舞台の上にある三階の部屋、いわゆる「大部屋」のことを指していった。役者で「三階さん」というのは、大部屋俳優、端役以下の役者、その他大勢の裏方を言った。馬の脚になったり、舞台の上から雪や花吹雪を撒いたりするのも彼らの役目である。こういう役者は、一般人の子弟がほとんどで、芝居好きが高じて役者の誰かに弟子入りし、この世界に足を踏み入れた人たちである。映画界では、大部屋俳優からスターにのし上がった人もあったが、歌舞伎界ではまずあり得なかった。
 中村勘三郎著「やっぱり役者」の中に、子役時代の話があるが、子役にも御曹司組と三階組があって互いにいがみ合っていたということが書いてある。勘三郎は御曹司組の方なのだが、三階組の連中とも仲が良かったそうだ。
 錦之助はもちろん御曹司組で、その中でも一、二を争う優等生だった。では、昭和十年代の歌舞伎界にどういう名子役がいたのだろうか。ざっと挙げておこう。
 まず、錦之助の兄貴分は同じ吉右衛門一座にいた坂東慶三(一九二五~一九八〇)である。彼は、三代目坂東秀調の次男で、昭和二年初舞台を踏んでいる。一座では錦之助が歌舞伎界に入るずっと前から子役で活躍していた。慶三は戦後、立役となってからも錦之助の良き兄貴分として歩みを共にしていった同志であった。(昭和二十九年十代目市川高麗蔵襲名)
 次に慶三の弟の坂東光伸(一九二九~九九)は三代目秀調の三男である。昭和七年初舞台。昭和十年、父秀調の死後、六代目菊五郎の部屋子となり、子役として活躍した。彼は菊五郎一座にいたので、錦之助とはそれほど共演していないが、昭和十六年、歌舞伎座における羽左衛門の「寺子屋」では菅秀才を光伸がやり、小太郎を錦之助がやっている。(昭和三十年四代目坂東八十助、昭和三十七年七代目坂東簑助、昭和六十二年九代目坂東三津五郎を襲名。現・三津五郎の父である)
 慶三と光伸の兄、つまり三代目秀調の長男は坂東又太郎(七代目)といい、昭和二年に初舞台を踏み、彼も名子役であったが、昭和十年代は子役を卒業していた。彼はのちに役者を廃業している。  父の三代目坂東秀調(一八八〇~一九三五)は、九代目團十郎の門下で、新派や自由劇場でも女形として活躍した人で、昭和十年九月、子役になった三人の男の子を残して五十五歳で死去している。


「お夏狂乱」(昭和10年11月)の童たち
左から慶三、尾上栄三郎、児太郎、光伸、坂東亀之助、男女丸、又太郎

 中村児太郎(四代目)(一九二八~二〇一一)は、早世した五代目福助の子である。父の死後、祖父五代目歌右衛門の預かり子となり、昭和八年初舞台。祖父の死後は、六代目菊五郎のもとへ移り、昭和十六年、叔父の六代目福助が六代目芝翫(のちの歌右衛門)を襲名した時に、七代目福助を襲名した。菊五郎一座では光伸、男女丸とともに子役としても活躍した。(昭和四十二年七代目中村芝翫襲名)
 児太郎の父の五代目中村福助(一九〇〇~三三)は初代吉右衛門の相方を務めた名女形だった。彼は五代目歌右衛門の長男というサラブレットだったが、昭和八年、三十三歳で早世した。彼の十七歳年下の弟がのちの六代目歌右衛門(六代目福助、六代目芝翫)で、一説には五代目福助の実子だったという説もあるが、それはともかく、兒太郎が初舞台を踏んだ時、すでに父はいなかった。
 市川たか志(一九二八~九〇)は、二代目市川松蔦(しょうちょう)の養子で、昭和九年初舞台。十五代目羽左衛門に可愛がられ、羽左衛門一座の名子役をずっと続けた。昭和十五年、歌舞伎座における羽左衛門の「盛綱陣屋」では小四郎をやり、小三郎が錦之助だった。戦後間もない昭和二十一年、三代目市川松蔦を襲名したが、羽左衛門亡き後、猿之助一座に加わった。戦後は、同じ女形同士として錦之助とも度々同じ舞台に立っている。(昭和三十八年七代目市川門之助襲名)
 たか志の養父二代目市川松蔦(一八九六~一九四〇)も昭和十五年、五十三歳で死去している。松蔦は二代目左團次の義弟(妹の夫)で、左團次一座の名女形だった。大正時代には本郷座を拠点に活躍し、人気も絶大で、東大の学生が良い女のことを「松蔦のような女」とたとえるほどの美しさだったという。
 市川男女丸(のちの大川橋蔵 一九二九~八四)は、御曹司ではなく、父親知らずで、二代目市川瀧之丞という役者の養子から四代目市川男女蔵(のちの三代目左團次)の部屋子となり、昭和十年十一月初舞台の後、六代目菊五郎に素質を認められて、妻千代の養子になったという暗い子供時代を過ごした人である。男女丸も菊五郎一座で子役として活躍した一人であった。

 ざっとこの五人が東京の歌舞伎界では名子役だった。みな、錦之助よりみな年上で、錦之助は彼らの後を追って、昭和十二年以降、名子役の一人になったことになる。
 慶三、光伸、児太郎、たか志という四人の名子役は御曹司ではあっても、父なし子だったし、男女丸は父親知らずということで、錦之助が一番恵まれていたことは間違いない。
 錦之助と同年齢だが、五年ほど遅れて子役になったのは、澤村由次郎と澤村源平である。
 澤村由次郎(四代目)(一九三二~)の父は五代目澤村田之助で、由次郎は昭和十六年、歌舞伎座「伽羅先代萩」の亀千代役で初舞台。この時、錦之助も小姓役で出演している。(昭和三十九年六代目澤村田之助襲名)


たか志と源平

 澤村源平(一九三三~二〇〇一)は、四代目澤村訥升(のちの八代目澤村宗十郎)の長男で、昭和十六年初舞台。彼は錦之助より一歳年下で、子役で活躍したのち、戦後若女形として梅枝、錦之助と並んで注目されていく。(昭和二十八年五代目澤村訥升を襲名、昭和三十五年東映に入社。三年ほど東映時代劇に出演したのち、歌舞伎界に復帰。昭和五十一年九代目澤村宗十郎を襲名)
 錦之助は、歌舞伎座へ行くと、こうした御曹司組の子役たちと舞台裏や楽屋で遊んでいた。そして、子役から若手役者へと同じ道を歩んでいく。



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