錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『笛吹童子』(その2)

2006-09-17 10:44:56 | 笛吹童子

 『笛吹童子』がなぜこれほどの人気を呼んだかに関してはいくつかの理由があると思う。が、一番大きな理由は、『笛吹童子』が映画化される前に、ラジオドラマとしてすでに絶大な人気を得ていたことである。まずこれが大きかった。黙っていても観客が呼べる条件が整っていたからだ。そして、中村錦之助と東千代之介という二人のフレッシュで魅力溢れる美男俳優が出演していたことが爆発的な人気を確定した。もちろん、この映画が若い観客の期待に応え、ハラハラドキドキの連続で、非常に面白かったことも大きい。

 ご存知の方も多いと思うが、『笛吹童子』は、『新諸国物語』というシリーズの中の一作である。原作者は北村寿夫(1895~1982)で、劇作家の小山内薫に見出されて以来、映画やラジオドラマの脚本を戦前から手がけていた作家だった。彼は児童文学も書いていた。森鴎外の翻訳集に『諸国物語』という作品があるが、これは西洋諸国の冒険話で、北村の『新諸国物語』は昔の日本各地の冒険話である。これには、『笛吹童子』のほかに、『白鳥の騎士』『紅孔雀』『オテナの塔』『七つの誓い』『天の鶯(うぐいす)『黄金孔雀城』が含まれている。すべてラジオドラマ化され、映画化されたが、『新諸国物語』シリーズの第一作『白鳥の騎士』が初めてラジオで放送されたのは昭和27年(1952年)のことだった。NHKの連続ラジオドラマで、夕方15分間、月曜から金曜まで毎日放送された。『白鳥の騎士』はそこそこの人気だったようだが、翌昭和28年1月から『笛吹童子』が放送され始めると、一大センセーションを巻き起こした。
 主題歌が良かったこともある。「ヒャラーリ ヒャラリコ、ヒャリーコ ヒャラレロ、誰が吹くのか、ふしぎな笛だ」で始まるあの有名な曲である。原作者の北村寿夫が作詞したが、何と言っても尺八の名手福田蘭童(1905~1976)が作曲した哀愁に満ちたメロディーが胸に沁みた。
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/00_songs.html
<「笛吹童子」のメロディが検索できます>
 子供たちは皆心躍らせ、ラジオの前に坐り込み、耳をそばだててドラマを聴き入った。(もちろん、これは母や兄や先輩諸氏から聞いた話で、私はラジオドラマで育った世代ではない。『赤銅鈴之助』を聴いていた覚えはあるが、東映の子供映画と漫画の月刊誌で育ち、テレビが家庭に備わってからは『月光仮面』『七色仮面』などが憧れのヒーローだった。NHKテレビの『ちろりん村とくるみの木』などはバカにして見ていなかった。)
 福田蘭童のことに少し触れておこう。彼は、明治の天才洋画家青木繁の遺児で、幼少の頃に母子を捨てた父とは死別し、母とも生き別れて、不幸な少年時代を過ごしたようである。そんな孤独感もあってか、彼は尺八奏者となり、作曲家としても一躍名を上げた。そして、昭和8年、当時人気絶頂だった映画女優川崎弘子と恋愛結婚する。二人の間に生まれたのが石橋エータロー(クレージーキャッツの一員で、ピアニスト)だった。
 ラジオドラマ『笛吹童子』は、昭和28年の大晦日まで続き、大好評のうちに終了する。その後昭和29年正月から始まったのが『紅孔雀』である。

 さて、東映がこの『笛吹童子』の映画製作権をいつ取ったのかは不明だが、製作に本格的に乗り出したのは、昭和29年春だった。主人公の萩丸、菊丸を誰にするかしばらく迷っていたらしいが、初めに東千代之介が決まり、次に中村錦之助に白羽の矢が立ったようである。その頃東映には、子供や若い女性を呼べる青年の人気スターがいなかった。千代之介は昭和29年初めに東映に入社し、デビュー作『雪之丞変化』も決まって、撮影に入っていた。錦之助はといえば、昭和28年11月に歌舞伎界から美空ひばりの相手役として新芸プロの福島通人社長にスカウトされ、すでに松竹映画『ひよどり草紙』(昭和29年2月公開)でひばりと共演し、映画デビューを飾っている。錦之助の映画出演第二作が新東宝の『花吹雪御存じ七人男』(昭和29年3月公開)で、その撮影終了後に福島社長が錦之助に出演の依頼をしてきたのが、東映の『笛吹童子』だった。錦之助は二つ返事で、出演を引き受けたと言う。ただ、ラジオドラマの『笛吹童子』のことはまったく知らなかったらしい。萩丸と菊丸のどちらがやりたいかという福島の質問に対し、笛を吹くのは菊丸だと聞き、錦之助は即座に菊丸がやりたいと答えたようだ。「笛吹童子」の菊丸の方が主役だと思ったからだった。
 
 ところで、東映社長大川博の随想集『この一番』を読むと、昭和26年4月東映設立当初からの苦しい経営事情が書かれていて興味深い。大川博の赤字打開策は、次の三つだった。第一に、東映の専属の映画館を全国に増やすこと。第二に、そこでは東映の映画を毎週二本立てで上映すること。第三に、一本は長編の大作にして、もう一本は、子供ないし若年層向きの中篇映画にすることだった。大川博は、第三の計画を達成するために当時東映の辣腕プロデューサーであったマキノ光雄に若手スターの急遽育成を指示する。
 昭和28年頃から第一と第二の計画は軌道に乗り始めた。が、週替わりの二本立てといっても昭和28年度は二本立てのうちの一本はリバイバル上映だった。また若い観客を呼べる若手スターは育っていなかった。新作二本立て体制が整い始めるのは昭和29年からで、それを確実にしたのが5月に『笛吹童子』が大ヒットしたことだった。錦・千代ブームが起こって初めて、東映はプログラム・ピクチャーの量産体制に入ったのである。データを見ると、昭和28年度が57作品だったのに対し、昭和29年度は103作品になり、ほぼ倍増したことになる。当初、子供向けに作られた中編映画は、大人向けの長編映画の添え物に過ぎなかった。しかし、これが観客動員を飛躍的に増やす決め手となった。東映の目算は予想を超えて、当たった。東映はジャリ集めの映画を作って儲けているといった非難を映画界から浴びたが、あっという間に、他の映画会社を追い抜き、三国一の映画王国を築いてしまう。
 
 『笛吹童子』三部作と共に封切られたメインの映画は、『悪魔が来りて笛を吹く』(横溝正史原作、松田定次監督、片岡千恵蔵主演)、『唄しぐれ おしどり若衆』(佐々木康監督、美空ひばり、中村錦之助主演)、『鳴門秘帖』(吉川英治原作、渡辺邦男監督、市川右太衛門主演)だった。注目すべきは、『笛吹童子』第二部と併映されたのが、ひばりと錦之助が共演した映画だったことである。錦之助は『唄しぐれ おしどり若衆』を『笛吹童子』の前に撮影し終えていたようだ。昭和29年のこどもの日は、東映の全国の封切館に錦之助の映画が2本並んだことになる。東映がいかに錦之助を売り出そうと力を入れていたかが分かる。錦之助の名前は、錦(にしき)の鯉のぼりのように五月の空高く舞い上がったわけである。(つづく)




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2 コメント

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「笛吹童子」以外の曲 (竜子)
2006-09-26 21:48:48
教えて頂いたURLで他の曲も見つけて楽しんでます。「まだ見ぬ国に」(紅孔雀の曲)「七つの誓い」「子連れ狼」その他錦之助さんとは関係ありませんが「月光仮面は誰でしょう」とか「少年探偵団」とか昔懐かしい曲を発見して喜んでます。

背寒さま、錦友会の掲示板にも載せて皆様に教えてあげて下さい。他にも錦之助さん関係の曲がありますか?
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ほかに… (背寒)
2006-09-27 18:16:10
「笛吹童子」と「紅孔雀」のほかには、「子連れ狼」の主題歌が有名ですね。錦之助とは関係ありませんが、子供頃の主題歌では、「赤胴鈴之助」と「少年探偵団」の歌が私は好きですね。元気が湧くんで…。

このサイト、結構好評だったんですね。どうしん様も聴いているそうですよ。

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