
第三部は「二刀流開眼」という副題が付いているが、宮本武蔵の二刀流について少し触れておきたい。映画で武蔵の二刀流が初めて登場するのは次の場面である。武蔵が柳生の城の中で四高弟と争っている時、お通さんの笛の音を聴き、油断して攻め込まれる。その瞬間、武蔵は咄嗟に小刀も抜き、二刀流に構える。四高弟の一人(確か庄田喜左衛門)が驚嘆の声を上げる。「あっ、二刀流だ!」
武蔵の「二刀流開眼」というのは、この場面を指すのだろう。しかし、これは内田吐夢の映画だけの話で、吉川英治の原作では、武蔵が柳生の庄を去った後に、鎖鎌の名手・宍戸梅軒の家を訪ねる場面があって、両手を巧みに使う鎖鎌の技術から、武蔵は二刀流のヒントを得たことになっている。映画『宮本武蔵』五部作では、宍戸梅軒と武蔵の対決のシーンを省いたので、武蔵が初めて二刀流を使うところを柳生四高弟との立会いの場面に持ってきたわけである。結局、この五部作で省略した武蔵と梅軒との決闘を、後年内田吐夢は東宝映画『真剣勝負』で描くことになる。宮本武蔵はもちろん錦之助、宍戸梅軒は三国連太郎が演じた。五部作で沢庵和尚に扮した三国が、なんと凶暴な梅軒に扮したのだった。これには私も驚いた。そして、『真剣勝負』は内田吐夢の遺作になった。
話は戻るが、吐夢の五部作で武蔵が二刀流を使うのは、四高弟との闘いの場面のほかは、吉岡一門73名との死闘である一乗寺下がり松の場面だけである。第三部ラストの吉岡清十郎との試合は木刀一本だったし、第四部の三十三間堂での吉岡伝七郎との果し合いでも真剣の大刀のみを使い、第五部の野武士とは馬に乗っていため当然大刀一本で闘い、ラストの巌流島の決闘においても佐々木小次郎を相手に長い櫂を削って作った木刀一本で立ち向かう。つまり、第三部以降は、一乗寺下がり松で吉岡一門の大勢を相手にする時だけ武蔵は二刀流を使い、一対一の対決はすべて一刀流で済ませている。宮本武蔵というと、二刀流のイメージが強いが、錦之助の武蔵は一刀流だと言った方が良いかもしれない。(三船敏郎の武蔵、片岡千恵蔵の武蔵に関しては、今度また調べてみたい。)
武蔵の二刀流について、映画を離れてさらに述べるとするならば、実在した宮本武蔵が開祖になった「二天一流」がいつ、どのようにして編み出されたものなのか、実際にははっきり分かっていない。またそれがどのようなものだったかも、謎に包まれているようだ。だいいち、宮本武蔵という人物そのものが謎の多い人物だったことも周知の事実である。吉川英治の随筆(「文藝春秋」昭和11年2月号に掲載)を読むと、ほんとうの史実だと信用できる武蔵の記録は、要約すると活字一段組で六、七十行ぐらいだそうである。その少ない史料をもとに大部の『宮本武蔵』を書き上げた吉川英治の創作力にはただ驚嘆するばかりである。が、その少ない中にも、宮本武蔵という人物に大きな魅力と神秘性が潜んでいるからこそ、彼の創作意欲をかき立てたとも言えるのだろう。

吉川英治は、内田吐夢と錦之助の映画『宮本武蔵』第一部を観て大変喜び、その続きを楽しみにしていたという。しかし、残念ながら第二部を観ることなく、吉川英治は昭和37年(1962年)9月にあの世へ行ってしまう。『宮本武蔵』第二部が公開されたのは、その年の11月半ばであった。(つづく)
健さんの小次郎は確かにぎこちなくて、浮いていましたね。「小次郎を際立たせる内田演出」だなんてフォローしなくても、別にいいですよ。キザで天才的な美剣士のイメージとは程遠かったと思います。やはり健さんは時代劇には向いていない感じでしたね。というより、慣れていないのに大役を任せられ、力んでしまったような印象を受けます。でも第五部の小次郎はなかなか良かったのでは…。小次郎も最後になってようやくサマになってきた。巌流島の決闘は、名場面だったと思っています。
結構面白いですよ。
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