ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 丸山眞夫著 松本礼二編 「政治の世界」 (岩波文庫2014年)

2016年09月25日 | 書評
科学としての政治学の創造を試みた戦後初期の評論集 第5回

2) 「人間と政治」

政治学は人間あるいは人間性の問題を政治的な考察の前提においた。政治の本質的な契機は、人間による人間の統制を組織化することにあるからだ。いずれにしろ人間を現実的に動かすことであり、人間の外部的行為を媒介として政治が成り立つ。他人を現実的に動かす目的のために政治は人間性の全面に関わってくる。学問分野であれば理性に働きかけ、説得ならば人間の情緒に訴え、経済的行為なら物質的欲望に訴える。要するに相手を従わせること自体が目的であれば、自己を政治的な働きかけにまで変貌させている。政治家の言動は「効果」によって規定されるので、ウエーバーは「政治をする者は悪魔と手を結ばなければならない」という。昔から人間を性善説で説くか、性悪説で説くかで議論があった。ホッブスの自然状態は「人間は人間に対して狼である」と言った戦闘状態を指す。銃社会は性悪説の自衛論で成り立っている。人間が性善か性悪かは別にしても問題的存在であることは確かである。政治の前提とする人間はこのような謎的な人間である。そして政治が人間の組織化行為である以上、政治の対象とするのは個人ではなくほとんどが人間集団である。政治家の指導力が強いと、大衆は逃げ自身は遊離するが、指導力が弱いと大衆の意識下の混沌に同調することになる。従って政治権力の強さは、対象となる集団の自発的能動的服従の度合いに反比例して働かなければならない。極端な無政府状態は、必然的な自己否定によって強力な専制を招き、逆に暴力のみがむき出しになる専制政治が極点に達すると、大衆は権力から離れ積極的服従もない無政府状態に陥る。革命は専制の反面である。反抗する方法も気力もない大衆は(戦前の日本国民)奴隷化する極めて政治効率の悪い社会となる。戦争に駆り出されてお国のために死ぬだけが目的化する。政治(権力)は物理的強制力(暴力)を最後的な保証としているが、切り札を出してしまったら政治は終わりである。外交と軍事の関係に似ている。それは人間の自発性と能動性に自己を根拠づけることを断念した政治の安楽死の姿である。権力は強制的性格を露骨に出すことを避け、政治的支配に対して様々な粉飾を施すものである。アメリカの政治学者メリアムは被治者に治者への崇拝を生み出す装置を「マイランダ」と呼んだ。古来より様々な時代特有のマイランダがあった。個人的肉体性、権威、血縁関係、英雄化などである。近代国家では法の執行者としての実質的価値とが一応無関係に、法の形式的妥当性の基礎の上に政治的支配が行われることを基本とする。そこでは権力は法的権力の体裁を取る。それと引き換えに思想、学問、宗教の自由と言った「私的自治の原理」が承認される。それが近代国家の建前なのである。この建前は19世紀中頃までの立憲国家に当てはまるが、伝達手段や交通手段と言った技術の進歩によって、大衆民主主義が登場した。外的なものと内的なものとの区別が、高度な近代的技術によってはっきりしなくなった。権力側から情報が大量に流し込まれ、新聞は毎日論義を展開する。今や個人の外部的物質的な生活だけでなく、内面的精神的領域まで政治が入り込んできた。かくして自由は次第に狭められた。個人を抑圧するものとして、最高度に組織された全体主義や宗教こそが人類の直面する最大の問題である。デモクラシー国家においても大衆は巨大な宣伝及び報道機関の氾濫によって無意識のうちに作られた世論の枠に閉じ込められ、自分の頭で政治・政策を考えることを辞めてしまった。報道しないで黙殺することも大衆への影響を最小限にしたい権力の術策である。こうしてわれわれの世論が毎日の報道で養われてゆく。アンケート調査とは、作為された世論がどの程度浸透したかを、権力側が測定する手段である。

(つづく)