ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 山田侑平監修 「ポツダム宣言を読んだことがありますか」  (共同通信社出版センター 2015年8月8日)

2016年09月16日 | 書評
戦後70年の平和国家日本を規定した原点ともいう終戦関係文書を今だからこそ読もう 第1回



私はこの本のことを新聞広告で知りました。ポツダム宣言とは短い文だったという記憶があり、これだけで新書ほどの値段で一冊の本が書けるのかな、太平洋戦争の写真集かなと思い、とにかく本屋に注文して取り寄せました。8月9日にゲットして読みましたら、共同通信社出版センターの編集になるポツダム宣言とその関連資料集でした。文書テキストとしては、ポツダム宣言(1945年7月26日)、カイロ宣言≪1943年11月27日)、終戦の詔書(1945年8月15日正午玉音放送)、降伏文書(1945年9月2日 東京湾ミズリー艦上)が英文、外務省翻訳日本文、現代語訳が対照出来るようになっていました。終戦の状況を素描しますと、1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して連合軍に降伏した。翌日から停戦に向けての処理が始まり、8月28日占領軍の本土進駐が開始され、30日にマッカーサー連合軍最高司令官が厚木飛行場に来日した。そして9月2日、東京湾の停泊中のミズリー号の艦上で降伏文章の調印が行われ、日本は連合国の管理下に置かれることになった。日本の戦後はまさにポツダム宣言を受け入れることから始まったといえます。軍国主義の除去、民主主義の確立、平和産業の維持、戦争責任の追及、公正な賠償などが述べられたポツダム宣言は、連合軍が戦後の日本管理のための指針となり、連合国による対日管理機関である極東委員会による「降伏後の対日基本政策」(1947年6月19日)のベースになった。1945年10月11日当時の幣原首相がマッカーサー元帥を訪問した際、ポツダム宣言にのっとって、人権確保のための五大改革を行う様に要求された。五大改革とは、婦人の解放、労働組合の助長、学校教育の自由主義化、民衆生活を恐怖に陥れた数々の人権制限制度の廃止、日本経済の民主主義化というものだった。こうしてポツダム宣言は戦後日本の基本的方向を決定することになった。ではポツダム宣言とはどういうものだったのか簡単に振り返ってみよう。1945年7月26日に、連合軍のアメリカ、イギリス、中国(中華民国)が日本の対して行った降伏勧告である。5月9日にドイツが降伏した後、連合軍にとって世界での戦線は対日戦争だけとなり、全戦力を日本に集中できることになった。7月17日から8月1日にかけてドイツのポツダムにおいて、アメリカ、イギリス、ソ連の2国主尿が集まり「ポツダム会談」が行われた。会談の主題はドイツの戦後処理についてですが、その会談中に「ポツダム宣言」が公表されました。ポツダム会談に参加していたソ連は日本と日ソ中立条約を結んでいたので、宣言には名を連ねていませんが、後日8月8日に条約を破棄して対日宣戦布告をしました。中国は日中戦争では日本の戦争相手国です。ポツダム宣言の領土規定問題は「カイロ宣言」を履行することですので、アメリカのトルーマン大統領からの連絡で宣言の文面を確認し、宣言に同意した。このカイロ宣言とは1943年11月22日から26日にかけて、エジプトのカイロで、アメリカのトルーマン大統領、中華民国総統蒋介石、イギリス首相チャーチルが参加し、対日宣戦について話し合うカイロ会談が行われた。カイロ宣言は、日本領土について連合国が初めて具体的な方針を示した。主な内容は第1次世界大戦いらいに日本が得た太平洋諸島を手放すこと、満州、台湾、膨湖島などの領土を返還すること、朝鮮を独立させることでした。ポツダム宣言の内容は、連合軍が日本に対する最終攻撃に準備ができたことを宣言し、日本に戦争を終結させるチャンスを与えることでした。条件を飲まないなら日本に壊滅的な攻撃を加えると書いています。これは日本側からすると無条件降伏ですが、連合国側からすると次のような条件を突きつけたことになります。
①日本軍隊の無条件降伏、
②武装解除と復員、
③連合国による日本領土の占領、
④領土の縮小、
⑤軍国主義の除去、
⑥民主主義の確立、
⑦平和産業の確保、
⑧戦争犯罪人の処罰です。
日本政府はその前からソ連を仲介とした終戦工作を打診してきたが、「ポツダム宣言」が発表されると、宣言の内容を公表したが、条件についてコメントを出さない方針とした。鈴木首相は「ただ黙殺するのみである。我々は断固戦争完遂に邁進するのみ」と発言しましたが、この黙殺という言葉が「拒否、無視」と翻訳され、「日本は拒否した」という報道が世界を流れた。連合国は宣言の予告通り日本への総攻撃を開始し、8月6日には広島に原爆を投下、8月9日には長崎に原爆を投下した。また8月8日ソ連は日ソ中立条約を破棄し、日本の宣戦を布告をした。こうしてポツダム宣言はソ連を入れた四か国の対日共同宣言となった。このソ連の参戦により日本政府の和平工作はほぼ絶望的になった。日本政府内では「ポツダム宣言受諾の他に道はない」という意見が優勢となり、受諾の方針が決まった。8月10日午前、スイス、スウェーデン駐在の公使に緊急打電し、宣言受諾方針を両政府を通じて連合国四ヶ国に伝達すように要請しました。8月11日連合国から回答(バーンズ米国国務長官)があり、8月14日天皇がポツダム宣言の諸条項を受け入れるという詔書を発布し、受諾を連合国に通達した。ここで、11日の回答のなかにあった「天皇および日本国政府の国家統治の権限は・・・・連合国軍司令官に従属する」はそのまま降伏文書に取り入れられた。また「日本の最終的統治形態は、ポツダム宣言に従って日本国民の自由に表明する意志によって決定される」と書かれており、国民主権を示唆し降伏後の日本国憲法に受け継がれた。

(つづく)