ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 中野晃一著 「右傾化する日本政治」 (岩波新書2015年7月)

2016年09月01日 | 書評
安倍政権の復古主義を、新自由主義の帰結として政治の右傾化と寡頭支配の中で捉える 第5回

2) 冷戦の終わりー新右派転換へ(その1)

本書は前章を55体制の旧右派連合の短いまとめとすれば、第2章及び第3章が新右派連合に関する本論となる。第4章は短い終章で先の民主党政権の反省と選択肢を考察したものである。冷戦構造の中で西側諸国において、中道右派と中道左派の政治勢力が一定のコンセンサスに基づいた政治を展開することで、階級対立の緩和を通じて国民統合を優先する政治は、社会に安定をもたらし、貧富の差の拡大を食い止める傾向があった。しかしどちらの政党が政権を取っても政策選択の幅が狭く変わり映えがしないという批判や、公共セクターの拡大によって民業が圧迫されるという批判が強かった。私的利益や物欲(消費行動拡大)是認の新自由主義の風潮を歓迎する勢力があった。こうした自由化の流れはソ連においても1985年ゴルバチョフのペレストロイカやグラスノチの進展となった。また中国においても1978年より鄧小平の改革開放路線で市場経済への移行が始まった。経済的自由への希求が全世界的な流れを作った頃、日本の旧右派連合は貿易摩擦を通じて米国から規制緩和要求や財政赤字対策への対応を迫られた。1979年大平首相は自由主義的な国際協調(対米協調)への同意を明確に打ち出した。大平首相は安全保障分野を基盤とした対米協調と、非軍事分野での国際協調を区別した。国内的には「政治不信の解消」を重要課題として捉え、赤字国債解消には「小さな政府」路線への転換を明示した最初の政権であった。大平の新自由主義の理念は次の鈴木・中曽根首相に受け継がれた。新右派転換を日本に導入したのは中曽根康弘であった。大平は「人間的連帯の回復」という文化の重視を主張したが、中曽根個人の国家主義は多分に復古調の反動的なモノが入っていた。しかし個人としての復古調はかなり抑制された。臨教審も常識的なモノで教育基本法には踏み込まない了解であった。日本が国際社会で大きな役割を果たすには過去の反省に基づき、近隣諸国への配慮をしなければならないという国際協調の大前提が中曽根を包み込んだ。第一次中曽根内閣の実働部隊は田中派で占められ、ブレーンは大平派で固められていたので、保守本流からはみ出ることは到底できなかった。政治手法という点で中曽根は大平のブレーン政治ではなく「大統領型」の直接政治を目指した。臨調は国鉄民営化において、族議員や派閥の領袖の先手を打ち、マスコミを操作して世論を味方にし、既得権益を支配する旧右派連合を切り崩すという構図を演出する新右翼転換の魁を作った。その手法は21世紀になって小泉がそっくりマネをした。しかももっと派手に劇場型で行ったのである。中曽根は「内閣機能の強化」に乗り出した。国鉄分割・民営化は激しい労働組合の抵抗を招いた。国労は、自治労、日教組と並んで総評の主要な労組であって、官公労は社会党左派に結び付いていた。国鉄民営化で国労の組合院数は激減、力を落とした総評は1989年に同盟を母体に連合に合流する事態となった。こうしていわゆる労使協調が貫徹し、総評が消失し社会党の支持基盤は大きく揺らいだ。労働市場は使用者側の優位が決定づけられた。1986年社会党の綱領は棚上げとなり、「日本社会党の新宣言」では自衛隊を「違憲合法論」で処理し、階級政党から国民政党へ、西欧型の社会民主主義への遅ればせの変身が図られた。1986年衆参ダブル選挙で中曽根自民党は「日本型多元主義政党」として完勝した。こうして日本の新右派連合の第1段階は中曽根によって引き起こされたが、次の竹下登首相は、旧右派連合を結集した「総主流派体制」で野党を巻き込んだ国対政治をおこない、消費税導入を成し遂げた。竹下首相は最大派閥を率いて旧右派連合の政治を復活させた。旧右派連合を率いる竹下政権をリクルート事件が急襲した。自民党の主要政治家ほとんどが未公開株を譲渡されているlことが分かり、政治とカネの問題が暴かれた。こうして中曽根が種をまいた新右派転換は、政治改革、地方分権改革、行政改革、規制改革、6大改革、構造改革、郵政民営化改革と「永久改革の時代」を開いた。1889年の参議院選挙では宇野首相のスキャンダルも重なって自民党は歴史的な敗北を喫した。それは旧右派連合による一党優位制の終わりを告げるものであった。おりしも1889年という年は、昭和の終わりであり、北京で天安門事件が起き、ベルリンの壁が崩壊するという、自由化な流れが世界を席捲する歴史的な冷戦の終焉を迎えた。実にこの時以来今日に至る25年間自民党は単独j過半数を確保できないままとなった。宇野の後、海部俊樹の首相はバトンタッチされたが、辣腕をふるったのは竹下派の番頭小沢一郎幹事長であった。旧右派連合に亀裂が走り、新右派転換とともに浮動票化する無党派層(都市住民)がその時その時の政局を動かすことが今日まで続いている。1990年湾岸危機が勃発し、冷戦の軍拡競争で疲弊したアメリカからは、金だけでなく人も出せと迫られ、総額130億ドル(1兆3000億円相当)もの資金を出したにもかかわらず、軍事的な参加はできなかったため、自由主義陣営の意志決定や戦後の利益配分から外され、日本政府は「湾岸戦争のトラウマ」となったようである。1992年宮沢内閣で「PKO協力法」が成立したが、首相官邸に権力を集中させる新自由主義的統治システムの実現が政府の強い願望となった。

(つづく)