ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 丸山眞夫著 松本礼二編 「政治の世界」 (岩波文庫2014年)

2016年09月25日 | 書評
科学としての政治学の創造を試みた戦後初期の評論集 第5回

2) 「人間と政治」

政治学は人間あるいは人間性の問題を政治的な考察の前提においた。政治の本質的な契機は、人間による人間の統制を組織化することにあるからだ。いずれにしろ人間を現実的に動かすことであり、人間の外部的行為を媒介として政治が成り立つ。他人を現実的に動かす目的のために政治は人間性の全面に関わってくる。学問分野であれば理性に働きかけ、説得ならば人間の情緒に訴え、経済的行為なら物質的欲望に訴える。要するに相手を従わせること自体が目的であれば、自己を政治的な働きかけにまで変貌させている。政治家の言動は「効果」によって規定されるので、ウエーバーは「政治をする者は悪魔と手を結ばなければならない」という。昔から人間を性善説で説くか、性悪説で説くかで議論があった。ホッブスの自然状態は「人間は人間に対して狼である」と言った戦闘状態を指す。銃社会は性悪説の自衛論で成り立っている。人間が性善か性悪かは別にしても問題的存在であることは確かである。政治の前提とする人間はこのような謎的な人間である。そして政治が人間の組織化行為である以上、政治の対象とするのは個人ではなくほとんどが人間集団である。政治家の指導力が強いと、大衆は逃げ自身は遊離するが、指導力が弱いと大衆の意識下の混沌に同調することになる。従って政治権力の強さは、対象となる集団の自発的能動的服従の度合いに反比例して働かなければならない。極端な無政府状態は、必然的な自己否定によって強力な専制を招き、逆に暴力のみがむき出しになる専制政治が極点に達すると、大衆は権力から離れ積極的服従もない無政府状態に陥る。革命は専制の反面である。反抗する方法も気力もない大衆は(戦前の日本国民)奴隷化する極めて政治効率の悪い社会となる。戦争に駆り出されてお国のために死ぬだけが目的化する。政治(権力)は物理的強制力(暴力)を最後的な保証としているが、切り札を出してしまったら政治は終わりである。外交と軍事の関係に似ている。それは人間の自発性と能動性に自己を根拠づけることを断念した政治の安楽死の姿である。権力は強制的性格を露骨に出すことを避け、政治的支配に対して様々な粉飾を施すものである。アメリカの政治学者メリアムは被治者に治者への崇拝を生み出す装置を「マイランダ」と呼んだ。古来より様々な時代特有のマイランダがあった。個人的肉体性、権威、血縁関係、英雄化などである。近代国家では法の執行者としての実質的価値とが一応無関係に、法の形式的妥当性の基礎の上に政治的支配が行われることを基本とする。そこでは権力は法的権力の体裁を取る。それと引き換えに思想、学問、宗教の自由と言った「私的自治の原理」が承認される。それが近代国家の建前なのである。この建前は19世紀中頃までの立憲国家に当てはまるが、伝達手段や交通手段と言った技術の進歩によって、大衆民主主義が登場した。外的なものと内的なものとの区別が、高度な近代的技術によってはっきりしなくなった。権力側から情報が大量に流し込まれ、新聞は毎日論義を展開する。今や個人の外部的物質的な生活だけでなく、内面的精神的領域まで政治が入り込んできた。かくして自由は次第に狭められた。個人を抑圧するものとして、最高度に組織された全体主義や宗教こそが人類の直面する最大の問題である。デモクラシー国家においても大衆は巨大な宣伝及び報道機関の氾濫によって無意識のうちに作られた世論の枠に閉じ込められ、自分の頭で政治・政策を考えることを辞めてしまった。報道しないで黙殺することも大衆への影響を最小限にしたい権力の術策である。こうしてわれわれの世論が毎日の報道で養われてゆく。アンケート調査とは、作為された世論がどの程度浸透したかを、権力側が測定する手段である。

(つづく)

読書ノート 丸山眞夫著 松本礼二編 「政治の世界」 (岩波文庫2014年)

2016年09月24日 | 書評
科学としての政治学の創造を試みた戦後初期の評論集 第4回

1) 「科学としての政治学」

戦前非合理な天皇制によってせき止められていた社会科学は、戦後の民主革命的な変革のうねりに後押しされるように変わった。ところが政治学だけは科学というにはあまりにお粗末で、系統的な方法論もなく未開の儘に取り残された。戦後社会の変革はGHQの主導による、日本の旧支配層に有無を言わせないやり方で政治的変革を成し遂げました。それを推し進める主体が何よりも「政治的」な力であった。現実生活における政治の圧倒的な支配力(戦前も同じ天皇制権力の圧倒的支配力)の前に、それを対象とする学問の畏るべき発育不全ばかりが目立ちました。政治学の非力性は別に今に始まったことではなく、現状から問題をくみ取ることをせず、欧州の学問を移殖してきた我国の学界一般の習性にあった。一般に市民的自由の地盤を欠いたところに真の社会科学の成長する道理はない。市民的自由のひ弱で、官僚機構西は力を背景としたプロシア王国(ドイツ帝国)の「国法学」を後生大事に輸入した日本の国家制度の宿命であった。政治権力にとって自己の醜い姿を客観的に明らかにされるほど嫌なことはないだろう。だから市民的自由がないところには学問的自由もない。戦前の天皇制政体に政治学という学問が育つわけはなかった。政治権力の究極的源泉を問うことはタブー中のタブーであった。国家権力の正統性の根拠は天皇の神性以外にはなかった。立法も司法も行政も軍隊統帥権もすべては唯一絶対の「大権」に発するとされていた。徳川幕府の絶対王政の方が欧州の君主制に近く、明治維新において一挙に古代神聖政府に逆戻りしたからである。従って議会には政治的統合の役割を果すほどの地位は与えられず、政争とは利権の分け前をめぐる私的な醜悪な争いに過ぎなかった。かくして天皇とそれを「補佐」する実質的な政治権力が一切の?額的分析の彼岸に置かれ、議会における政争が戯画化しているとするならば、いったい何を学問の対象とすることができるのだろうか。立憲制のような擬制でさえ、すべての権力が天皇から発するのでは、作用しえなかった。現実の政治を理解するには、政治制度を論じることではなく、政治的支配層の内部の人的関係に通じることが一番大事だとされた。戦後の政治制度は、占領軍と旧支配層の暗黒の中で行われた国家意思の形成過程は、国会が「国権の最高機関」とされ、「議院内閣制」が採用されることで著しく透明性を増した。天皇が「象徴」となって、国家権力の中性的形式的性格が初めて公然と表明された。従って「科学としての政治学」が可能となったが、方法の問題と対象の問題が不可分に絡んでいるのが政治的思惟の特徴である。政治学派によりも現実科学であることを要求される。ビスマルクはかって「政治とは可能性なものについての術」といった。国法学の「である論理」から、政治を可塑的な未来性に注目する「する論理」への認識作用を通じて、客観的現実を一定の方向付けを与えることである。政治学は自己の学問を、このような認識と対象の相互作用の存在を承認することが大切である。こうして政治学者も民衆も傍観者であってはならない、実践を通じて政治的現実に主体的に参加する。政治学者は自身の学問を特定の政治勢力の手段とする「イデオロギー」に堕すか、書斎の学問たる傍観者になるかは避けなければならない。

(つづく)

読書ノート 丸山眞夫著 松本礼二編 「政治の世界」 (岩波文庫2014年)

2016年09月23日 | 書評
科学としての政治学の創造を試みた戦後初期の評論集 第3回

序(その3)

丸山真男著  「日本の思想」(岩波新書 1961年)より丸山氏の政治思想史(仏教史でもなく哲学史でもなく)を見ておこう。この本は約50年前に書かれている。ある意味では日本文化・文明論の魁を成すものである。かってはやった日本文化論や日本人論は底の浅い、支離滅裂の日本賛美論に流れやすいのだが、丸山真男氏による「日本の思想」はさすが手堅い日本思想史になっている。ただ本書は短編の論文の寄せ集めなので、主に明治以降の思想しか扱っていない。つまり天皇制の拠って来るところが中心である。そして日本人には思想らしきものは皆無であるというのが結論である。なぜ日本の政治思想が無なのかという理由を丸山氏は日本人の内面からたどられたのが本書の内容である。これに対して哲学者梅原猛氏は日本の仏教史からこの丸山氏の結論に反論して日本思想の根源に迫る著作を多くなされた。丸山真男氏は政冶の観点からの思想史であり、梅原氏は仏教哲学からの思想史であるので、「日本人は思想したか」という設定では梅原氏のほうが深い研究をなされたようだが、政冶思想という観点では西洋啓蒙思想の比較において丸山氏の言うこと(日本人の思想は空虚)のほうが実際的である。 わが国の思想論や精神論は江戸の国学や津田左右吉や和辻哲郎や九鬼周造の著作にも現れたが、日本思想史の包括的な研究は著しく貧弱であったという見解が本書の丸山氏の出発点である。自己を歴史的に位置ずけるような中核的あるいは座標軸にあたる思想的伝統がついに我国には形成されなかった。西洋にはギリシャ哲学とキリスト教の伝統が2千年以上続いて、それを発展させまたそれに対抗する形でさまざまな思想が形成された。西欧では綿々たる思想の伝統と構造が培われた。しかるに昔のことはいざおいても日本の近代化の思想構造の蓄積を妨げる契機があったことは確かである。明治以来日本に輸入された思想の前にあった伝統的思想とは、仏教的、儒教的、神道シャーマニズム的なものであるが、日本の集権的国家形成の前にあまりに無力で使用に耐えなかったので歴史の後ろに断片的に沈殿した。
* 明治以来の日本思想の特徴の一つには思想の無構造性と雑居性が上がられる。思想の葛藤の上に立つ統一や関連付けの構造がなく、便利性から来る西欧思想の圧倒的浸透のまえに伝統的思想は沈黙し忘却された。有用な考えは何でも寛容して雑居した。しかしキリスト教やマルクス主義という原理主義思想には猛烈にイデオロギー的に曝露批判する。無構造性思想の典型は殆ど空に近い神道をイデオロギー拒否の手段として担ぎ出したことである。
* 日本思想の第二の特徴は明治21年に制定された欽定憲法による天皇制と国体にある。国家秩序の中核としての天皇は同時に精神的機軸として機能する国体という名の非宗教的宗教の魔術的力である。そこでは臣民の無限責任によって支えられる国体は反国体に対しては峻烈な権力体として作用するが、実態は誰が政策決定者なのかは容易に姿が見えない。輔弼の臣が天皇の心を推察し政策を具体化するが、誰一人として政策の責任者としての自覚は持たない。
* 日本思想の第三の特徴は明治維新の革命主体が一元化されなかったことによって多元的な思想伝統が生まれ、元老や重臣という超憲法的存在によってしか国会意志が一元化しないという政策決定者の無責任体制にある。明治国家形成に当っても官僚という実施部隊は形成されたが、貴族階級や商人組織という社会的抵抗勢力(中間的階層)が脆弱で、国家権力は燎原の野を行くように無抵抗のまま進むことが出来た。天皇性が対応する社会的存在は唯一村落共同体に過ぎなかった。共同体の核は家族で個人ではなく水平の結合体であった。したがってその共同体の中では人格的主体や責任主体の形成も不十分で天皇制の前には対抗しうる主体はついに形成されなかった。現代日本に個人主義が存在しないのもいまだにその流れを引きずっているからだ。
19世紀前半の西欧の思想はヘーゲルなどに代表される包括的総合的な学問体系をとったが、スペンサーを分水嶺として19世紀末よりは個別科学の専門化が進んだ。明治維新以来日本画が輸入した思想は将にこの個別化・専門化した学問であった。学問相互が連携せず共通の根っこを共有しない所謂蛸壺型で進化発展した。従って日本の組織は共通の基盤のない一つ一つの仲間集団を形成して相互の議論はなかった。これが日本のアカデミックと官僚組織を特徴付けた。国民意識の統一を確保したのが戦前では天皇制であり教育勅語・軍隊で「共有」の日本人が形成された。戦後はマスコミが国民意識の画一化・平均化に寄与してきたが、これには世論操作という役割があった。 憲法に定められたさまざまな権利は与えられたものとして「である論理」は、封建時代の身分制度と同じである。固定的な状態は「である論理」であり、民主主義や自由はであろうと「する論理」によってのみ守られるものだ。近代社会を特徴つける機能集団(会社・政党・組合・団体など)は本来的に「すること」の原理に基づいている。経済組織では経営をすることであり、政治では指導者は政策を実行すること、人民は指導者のサービスや成果を監視するものでなければならない。政治は政治家の領分であると思うのは「である論理」政冶観である。能動的に働きかけることによって健全な社会が出来上がるのだろう。

(つづく)

読書ノート 丸山眞夫著 松本礼二編 「政治の世界」 (岩波文庫2014年)

2016年09月22日 | 書評
科学としての政治学の創造を試みた戦後初期の評論集 第2回

序(その2)

丸山眞夫氏の活動の中からこの11編の評論文を選んだ松本礼二氏についてもプロフィールを紹介する。1969年 東京大学法学部卒業、1971年 同大学院法学政治学研究科修士課程修了、1972年 同大学院法学政治学研究科博士課程退学。1972年 東京大学社会科学研究所助手から 立教大学法学部助手、 筑波大学専任講師を経て1982年 早稲田大学専任講師、早稲田大学助教授 そして1988年 早稲田大学教授となった。トクヴィル研究者として有名であり、トクヴィル著 松村礼二訳 「アメリカのデモクラシー」〈岩波文庫 全4冊 2005年)の訳者である。松村氏は丸山眞夫の戦後の著作から政治学関係の代表的論文・エッセイを集めて一書にしたという。専門科学としての政治学の特質(今でも政治学が科学であるかどうか大いに議論のあるところである)、基礎概念を論じ、一般に政治をどう考えるべきかを論じた文章を収録したらしい。この本は4部に分かれているが、特に意味があるわけでもないので、この分け方は無視して11編の論文集として時系列に並べてあるという風に理解しておこう。同じような編集による「現代政治の思想と行動」(未来社 1958年、1957年、増補版1964年)があった。各論文の出典を下に纏める。
1) 「科学としての政治学」(1947年6月): 文部省人文科学委員会発行の季刊雑誌「人文」第1巻第2号に掲載された。丸山が政治学を担当して書いた。戦後政治学の再出発点としての重要な論文である。「現代政治の思想と行動」に収録された。
2) 「人間と政治」(1948年2月): 講演速記に改定を施して、「朝日評論」1948年2月号に掲載された。広い読者層を狙って政治の持つ意味を論じたという。「現代政治の思想と行動」に収録された。
3) 「政治の世界」(1952年3月): 郵政省人事部企画「教養の書」シリーズ第19刷、単行本単著としては初めて刊行された。ラスウエルらのアメリカ政治学の研究から「政治状況の循環モデル」を提示した。丸山政治学研究の重要な一里塚となった。
4) 「権力と道徳」(1950年3月): 「思想」1950年3月号特集「権力の問題」6編の一つである。「現代政治の思想と行動」に収録された。
5) 「支配と服従」(1950年12月): 弘文堂「社会科学講座」第3巻「社会構成の原理」に寄稿したもの。「現代政治の思想と行動」に収録された。
6) 「政治権力の諸問題」(1957年3月): 平凡社「政治学事典」(1954年)の項目「政治権力」を加筆修正して「現代政治の思想と行動」に収録された。
7) 「政治学入門」(1949年10月): みすず書房刊「社会科学入門」の「政治学」の項として書かれた。
8) 「政治学」(1956年6月): みすず書房刊「社会科学入門」への寄稿。六部編成の書で「政治学」は第1部、第1部では丸山以外では辻清明が「行政学」、猪木正道が「政治史」、関嘉彦が「社会思想史」を担当。
9) 「政治的無関心」(1954年2月): 平凡社「政治学事典」の執筆項目、丸山は「政治的無関心」、「イデオロギー」他11項目を担当した。
10) 「政治的判断」(1958年7月): 同年5月に行われた信濃教育会上高井教育会総会における講演速記に基づいて「信濃教育」第860号に掲載された。
11) 「現代における態度決定」(1960年7月): 憲法問題研究会記念講演で「世界」1960年7月号に掲載された。「現代政治の思想と行動」に収録された。丸山は1958年に結成された護憲派の憲法問題研究会でその中心人物の一人であった。

1960年は丸山思想史学にとっても重要な転機を迎え、生涯を通じて研究した福沢諭吉を除いて、徂徠研究の方向は大きく変わり、歴史意識の古層の結実する(1972年)「後期丸山史学」に転化した。その裏返しとして政治学関係の論考がなくなったといわれる。丸山氏の政治学論文と言えば戦後15年間の著作に限られる。「科学としての政治学」は戦後日本の政治学を始動させたという位置づけは揺るがない。この論に対して蝋山正道が「日本における近代政治学の発展」を著して答えた。丸山はこの論文によって、学問としての政治学の有効性を確立することにあった。戦前の政治学を厳しく批判したうえで、学問的自由を得たいま、日本的政治現実にメスを入れるべきだと述べる。いわば政治学の独立を宣言する文となった。丸山は他の社会科学の成果を吸収することに貪欲であった。時代はドイツ系の国法学、国家学から、社会心理学、文化人類学、精神分析など新たな学問方法を取り入れたアメリカ政治学に移行しており、丸山はそれに強い影響を受けたとされる。特にハロルド・ラスウエルの業績に顕著に刺激を受けたようである。「政治学」に登場するBという甥にラスウエル学派の見解を代弁させている。「政治学入門」では、ベントリーに始まる政治過程論とウオーラスを源流とする政治心理学や政治意識論の2大潮流をもって20世紀政治学の方向付けを行ったものである。丸山はアメリカ政治学に対して敬意と留保の両面で臨み、マルクス主義との対話を続けた。スターリン主義を究極において拒否しつつも、経験主義的命題はマルクス主義からも最大限学ぶ姿勢を取った。東大法学部の岡義武、辻清明、京極純一、升味準之助らが「戦後日本の政治過程」という特集をまとめたのは、過去6年間の戦後政治学の「現実科学」たる具体的成果であった。平凡社版「政治学事典」は丸山がイニシャティブを取った共同作業であり、本書の「政治権力の諸問題」、「政治的無関心」にも丸山が切り開いてきた戦後の政治学の到達点を示している。丸山の政治学とはなにかという問いは、「政治学入門」において政治の3つの契機として、権力、倫理、技術を示した。丸山は、政治という人間活動は内容的には規定できず、カール・シュミットの考えのようにいかなる種類の社会関係も政治的関係に転化しうるという見解で一貫している。丸山の政治観の特徴は、
①法律や行政との関係において政治は常に動いているもの可変的流動的なもの「可能性の技術」とみる観点、
②究極的は権力の介在に最終的契機を見出す点である。
「政治の世界」はラスウエルらのアメリカ政治学の研究から「政治状況の循環モデル」を提示して、当時の政治学者に大きな刺激を与えたという。しかしこの学説は1960年代に入って支持者を失い、イーストンらのアメリカ政治学理論が導入された。丸山自身は政治学において純粋理論をモデルを探究することに懐疑的になり、政治学研究を離れ政治思想史研究の領域に帰ることになった。「政治的無関心」においては、現代民主政の最大の問題は大衆の無関心にあると警鐘を鳴らした。いわゆる「トクヴィルの憂鬱」に相当する民主政崩壊への心配である。丸山が政治の指導者に要求するのは、「政治の道徳」としてのリアリズムに徹することである。「可能性の技術」としての政治能力を磨き、限界を意識しながら信念をもって行動する原理である。「現代における態度決定」は1960年の日米安保条約改定への反対運動が高まりにおいて書かれ、「市民のための政治学」が政治の実践に関わることを意識したものである。権力行使に直接かかわらない市民の政治関与の在り方は、日常的に関心を持続する必要を説き、政治への理想的期待を排して、政策の「悪さかげんの選択」として参加することを勧めている。学問知と市民常識との相互補完関係と有機的結合を求める点でも、丸山は福沢の後継者であった。J・Sミルの教養人の資質「すべてにおいて何事かを知り、何事かにおいてすべてを知る」要請は、土台無理な要求であるが、そこに丸山の政治学があり、矜持があった。

(つづく)

読書ノート 丸山眞夫著 松本礼二編 「政治の世界」 (岩波文庫2014年)

2016年09月21日 | 書評
科学としての政治学の創造を試みた戦後初期の評論集 第1回

序(その1)

1960年に向けた第1次安保闘争の中立左派系知識人でオピニオンリーダーであった丸山眞夫氏は、1960年を境にして仕事のやり方を変えた。戦後から1960年まで政治学の理論創造に意欲を燃やしているかのように見えたが、現代政治分析や政治評論は「夜店」をたたんで、本業の「日本政治思想史」に専念すると宣言した。安保闘争の反動なのか、1960年以降政治思想と区別される政治学の理論や現代政治の分析に関する論説が全く姿を消したことは事実である。だから本書「政治の世界」は終戦直後から1960年までの論説を集めたもので、本人に言わせると「余技」のようなものである。しかし戦後政治学理論の試論は一読の価値がある。岩波文庫が2014年2月に「政治の世界」として11の論文を集めて刊行した。私は丸山眞夫氏関係の著書では下記の本を読んだ。
丸山眞夫著 「日本の思想」(岩波新書 1961年)
丸山眞夫著 「自己内対話」(みすず書房 1998年)
丸山眞夫著 「文明論之概略を読む」(岩波新書 上・中・下 1986年)
丸山眞夫・加藤周一著 「翻訳と日本の近代」(岩波新書 1998年)
長谷川宏著 「丸山眞夫をどう読むか」(講談社現代新書 2001年)
竹内洋著 「丸山眞夫の時代」(中公新書 2005年)
中野雄著 「丸山眞夫 音楽との対話」(文春新書 1999年)
丸山眞夫氏も古くなって知らない人も多くなった。丸山氏のプロフィールを少し長くなるが紹介しておこう。丸山 眞男(新字体で丸山真男とも表記される、1914年- 1996年)は、日本の政治学者、思想史家。東京大学名誉教授、日本学士院会員。専攻は日本政治思想史。丸山の学問は「丸山政治学」「丸山思想史学」と呼ばれ、経済史学者・大塚久雄の「大塚史学」と並び称された。マックス・ヴェーバーの影響を強く受けた学者の一人であり、近代主義者を自称する。東京府立第一中学校(現・都立日比谷高校)を経て、1931年4月、旧制一高に進学。1933年4月、唯物論研究会の講演会に参加、同講演会は警察の命令により、長谷川如是閑が挨拶を始めるや否や解散。聴衆の一人であった丸山は、特高の取り調べを受る。1934年(昭和9年)に一高を卒業後、東京帝国大学法学部入学。「講座派」の思想に影響を受ける、1937年(昭和12年)卒業。東大助手となり、日本政治思想史の研究を開始した。1940年、「近世儒教の発展における徂徠学の特質並びにその国学との関連」を発表。6月、東京帝国大学法学部助教授となる。1944年陸軍二等兵として教育召集を受けた。9月、脚気のため除隊決定。11月、帰還。1945年3月、再び召集される。宇品の陸軍船舶司令部へ二等兵として配属された。4月、参謀部情報班に転属。8月6日、司令部から5キロメートルの地点に原子爆弾が投下され、被爆。9月復員した。この軍隊経験が、戦後「自立した個人」を目指す丸山の思想を生んだという。1946年(昭和21年)2月14日、東京帝国大学憲法研究委員会の委員となる。憲法改正の手続きについてまとめた第一次報告書を執筆。「超国家主義の論理と心理」を『世界』1946年5月号に発表。以後、戦後民主主義思想の展開において、指導的役割を果たす。1950年(昭和25年)6月、東京大学法学部教授に就任。サンフランシスコ平和条約をめぐる論争では「平和問題談話会」の中心人物として、1960年の安保闘争を支持する知識人として、アカデミズムの領域を越えて戦後民主主義のオピニオンリーダーとして発言を行い、大きな影響を与えた。これらの時事論的な論述により、「アカデミズムとジャーナリズムを架橋した」とも評された。1960年代後半になると逆に全共闘の学生などから激しく糾弾された。心労と病気が重なったことで、1971年3月、東大を早期退職した。1974年5月に東京大学名誉教授。1978年11月には日本学士院会員となる。1993年12月、肝臓がんであることを知り、『丸山眞男集』(岩波書店)を刊行中の1996年8月15日(終戦の日)に死去(82歳没)。業績としては、日本の政治思想史として荻生徂徠論、日本近代を代表する思想家として福澤諭吉を高く評価した。日本思想史研究における生涯の大半を福沢の研究に費やした。丸山の『福沢諭吉論』はそれ以降の思想史研究家にとって、現在まで見過ごすことのできない金字塔的な存在となっている。『日本の思想』(岩波新書、1961)の発行部数は2005年5月現在、累計102万部。大学教員達から"学生必読の書"と評される。丸山のゼミナールからは多くの政治学者・政治思想史家を輩出した。彼らは総じて「丸山学派」と言われ、マルクス主義の政治学に対する近代政治学として日本の政治学界において一大勢力をなした。日本政治思想史専攻以外にも、篠原一、福田歓一、坂本義和、京極純一、三谷太一郎といった東大系の政治学者は、多かれ少なかれ影響を受けており、かつそれをさまざまな形で公言している。社会科学者の小室直樹などは丸山眞男から政治学を学び、作家庄司薫、異色官僚の天谷直弘、社会民主連合創設者で、参議院議長となった江田五月、教育学者の堀尾輝久なども丸山ゼミ出身である。丸山氏は戦後日本を象徴する進歩的知識人の一人であった。無論、丸山氏への批判は多かった。いちいち書かないが、丸山は戦後日本に大きな影響を与えた人物ということもあり、様々な立場から批判がなされているが、自らそれに応えて論争になるといったことはほとんどなかった。

(つづく)