ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 室田 武著 「原発の経済学」 朝日文庫

2011年08月12日 | 書評
高コスト、石油を多消費し、核兵器並みの危険性を持つ原発 第14回

3)原発は石油を節約するのか (3)

 仮定①,②,③,④をまとめて考察しよう。筆者が行なった試算の結果を示す。アメリカDOE(1976)の試算では30年間、稼働率61%の運転で発電量は1600億kWh(137.5兆kcal)となっているが、これは耐用年数20年稼働率45%に修正し、かつ定格運転ロス、自家消費と送電ロスを考慮して608億kWhに補正する。投入エネルギー量はDOEの試算では揚水発電建設・維持と廃炉処分エネルギーを無視しているが、これを考慮しかつ原発維持管理修理のエネルギー、輸送エネルギー、使用済み核燃料の長期保管を考慮すると、DOEの36兆kcalは補正されて81兆kcal(半減期のみ)、513兆kcal(10倍半減期)となる。もし608億kWhの電力を火力発電によって得るために投入されるべきエネルギーは160兆kcal(熱効率35%として)である。DOEの試算では生産電力エネルギー137兆kcalに対して投入エネルギーは36兆kcalと原発のエネルギー収支はプラスと主張されているが、筆者の計算では生産電力を補正すると608億kWh(52兆kcal)となり、投入エネルギーに使用済み核燃料処分を加味すると81兆kcalとなって、エネルギー収支はマイナスである。DOEの試算では投入エネルギーには頭の核燃料製造エネルギー30兆kcalに注目していただけのことで、お尻の最終処分エネルギーをほぼ無視していたことが特徴である。最後に「高速増殖炉」という言葉の意味がまぎらわしいので、高速増殖炉とは何かを考えてゆこう。敦賀原発「もんじゅ」においてただ1基が建設されたが、1995年のナトリウム爆発により運転は停止され、2010年運転が再開されたがすぐに事故を起こして再び停止中である。ほとんど運転経験がないまま老朽化が心配されている。文殊の知恵を借りてもなお人類はまだナトリウムという熱媒体を利用できないでいる。今天然ウラン1トンあると、核分裂を起こしうるウラン235は7Kgあり(993kgはプルトニウム238)、このウラン235が1Kgが核分裂をすると、プルトニウム238が1.1から1.4Kgのプルトニウム239という核分裂物質に変わる。このプルトニウムを核燃料とみると増殖率は1.1-1.4だといえる。しかしウラン238原子1個から生まれるウラン239原子は1個であり、天然ウランの潜在能力を高めるものではない。ようするに軽水炉の使用済み核燃料を再利用してプルトニウム239を回収することにある。核物質を産出しない日本で核物質が回収出来るということである。したがって政策的には青森県六ケ所村の再処理工場は、敦賀の「もんじゅ」と連動するということをいう。逆にいうと敦賀がこければ六ヶ所村の工場は不要となる。いまでも開店休業状態であるのはそのためである。
(つづく)

読書ノート 橘木俊詔著 「日本の教育格差」 岩波新書

2011年08月12日 | 書評
教育格差を経済的視点からみると 第8回

3)学校教育の進展と新たな格差(1) 

 学校教育の目的には、ひとつに人が生きてゆく上で何らかの労働に従事して所得を得なければならないので、教育を受けることにより知識と技能を高めることである。もうひとつは人として生きる上で社会や他の人との接し方かたを教育から学び、よりよい価値観、社会観、道徳観を持てるようにする事である。西欧の教育方法とは基本的に上流社会ほど個人授業であった。日本でも江戸時代から個別授業であったが、近代国家形成のため明治時代に学校教育が始まった。1886年に「小学校令」、「師範学校令」、「帝国大学令」などが施行された。教育学的に言えば、文字による教育の普及と国民国家形成が急務であったからだ。経済学的な視点からいうと産業発展のための人材需要が大きかったからである。学校教育とは多くの生徒・学生を対象に授業・実験などの指導を行なう「一斉教授法」になった。教育学のことは本書の得意とするところではないので、教育方法に関する変遷は省こう。経済学的な視点から論じると、アダムスミスの「道徳感情論」において、人間が生産活動を行なううえで秩序ある効率的な生産組織を運営するためには道徳が必要であるという。マーシャルの「経済学原理」では、非熟練労働者の教育訓練は生産性向上に必要であり、かつその人の生活の向上にもなくてはならないという。第2次世界他戦後には人が学校教育と企業での職業訓練を受けると生産性が向上するという「人的資本理論」と、組織内での人の選抜評価で候補者の学歴がひとつの有力な判断基準であると云う「スクリーニング理論」が提出されたが、教育学の観点はこの理論をよしとしない。実用的な教育目的は不純だというのだろう。建前はあくまで人間性向上のために教育はあると云うのだが、実際はそうは動いていない。教育学と経済学の教育の目的は異なるが、経済効率と公平性の双方を満たす教育のあり方こそが求められているのではないだろうか。
(つづく)

文藝散歩  山口仲美著 「日本語の古典」 岩波新書

2011年08月12日 | 書評
日本文学の古典30作の言葉と表現の面白さ 第8回

10) 「枕草子」ーエッセイストの条件
「枕草子」は11世紀初めに著わされた日本初めての「随筆」である。作者は中宮定子の侍女清少納言である。清少納言の父は清原元輔、祖父は清原深養父という歌人の一家に生まれた。中宮定子に出仕した頃から、宮廷の力関係は、995年定子の父藤原道隆が亡くなりそして兄伊周が花山法皇事件で流罪となって以来、次第に道長の天下に傾いていった。従って清少納言が出仕して1年ぐらいは得意の絶頂にあったが、2年目以降から定子が病死する7年目までは凋落と失意の境遇にあった。暗く切ない涙の生活をひたかくしにし、あえて得意満面の強がりな派手な筆致でこの枕草子は書かれている。清少納言の事を悪くいう人は、清少納言のこの面を嫌がるようであるが、虚栄の宮廷ではやむをえないキャリアーウーマンの生き方ではなかったろうか。第1段「春は曙、夏は夜、秋は夕暮れ、冬はつとめて」と、最も情緒のある事項を時間という観点で切り取る手法と、こうした風景描写を散文に持ち込んだのは日本文学初めてのことである。清少納言は言葉に対する好奇心と批評精神が旺盛で、言葉使いのマナーにまでけちをつけるのである。とくに訛りの入った言葉遣いには敏感に反応する。こうした鋭い観察眼から生まれる批評精神は近代にも通じる。

11) 「源氏物語」-言葉にしかけられた秘密
枕草子のすぐあと、道長派の後宮から1008年に「源氏物語」という世界に誇れる54帖の長編恋愛小説が生まれた。作者は紫式部で平安かな文学を読みつくし、白氏文集など漢文の教養にも恵まれた才女であった。難解な文章でしられ、背景や人脈系統図・訳文なしには一歩もストーリーが把握できないという代物である。これは主語なしでも誰の発言かが分る身内の会話形式で話が進められているからであろう。そして読者層は後宮の女たちで、特に中宮に立つべき少女の情操教育のために書かれたようで、絵を見ながら読み聞かせていたようだ。目で合図をすれば、誰の事かわかる熟知された狭い世界のお話であるから、1000年も経った現在では一寸読みで理解できないのは当然かもしれない。普通は谷崎潤一郎、与謝野晶子、団地文子、瀬戸内寂聴、田辺聖子らの現代訳を読んでから、源氏物語の原文に入らないと何のことやら理解できない。望むらくは「源氏物語講座」などで、先生方の解説を導き手として原文を読み進めることが理想的である。私は山岸徳平校注岩波文庫版「源氏物語」を読んでいるが、句読点がつき発言の主語が行間に入った本でも、やたら息が長いくねくねとした文章の意味を取るのは容易ではない。紫上を「蒲桜」に喩え、明石上を「花橘」や「藤の花」に喩えて、周到に用意された言葉で登場人物の個性やイメージを描き分ける。また擬態語の利用で、紫上を「あざあざ」、玉鬘を「けざけざ」という風に美しさを形容する。反対に末摘花を「むむ」と笑う擬態語によって人物を描き分けているのは源氏物語独自のものであると云う。「紫式部はまさに言葉を操る天才」であると著者は評している。
(つづく)

筑波子 月次絶句集 「立 秋」

2011年08月12日 | 漢詩・自由詩
牽牛花謝月光斜     牽牛花謝し 月光斜めに

左界横空冷気加     左界空に横わり 冷気加わる

悲笛今宵秋一雁     悲笛今宵 秋一雁
 
衣砧九陌夜千家     衣砧九陌 夜千家


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(韻:六麻 七言絶句平起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)