ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 金 文京著 「漢文と東アジア」 岩波新書

2011年08月31日 | 書評
漢文文化圏である東アジア諸国の漢文訓読みの変遷と文化 第5回

1)日本の訓読の歴史(2)

 中国語においても「仮借」というもっぱら音を表す漢字を当て字に用いることは多い。魏志倭人伝・倭人の「卑弥呼」、「邪馬台国」という文字は「ヒミコ」、「ヤマト」の当て字であろう。しかもご丁寧に辺境の野蛮人である事をにおわせる卑語「卑」、「邪」という言葉を採用している。漢字の表音的使用による外国語表記が中国人にとって重大な問題となったのは、仏教伝来の結果であった。仏典はインドの梵字(サンスクリット)で書かれていたので、仏典では梵語から中国語への翻訳が緊急の課題となった。例えば梵語で「うぱさか」を「優婆塞」と書いて「清信男」(在家信者)と訳した如し。中国での仏典の漢訳が盛んに行なわれたのは2世紀から12世紀であるので、仏典の日本での和訳と中国での漢訳がほぼ同一時期に進行する場合もあって、中国へ渡った日本人僧侶たちはこのような梵語から中国語への翻訳の現場に立ち会った可能性がある。梵語→漢語→和語を常に頭においてその手法を見ていたと考えるのはあながちおかしなことではない。しかし日本人僧侶はけっして梵語仏典を直接手にしようとは考えなかった。漢語仏典の完成度が高かったのか、出来上がった漢語仏典からスタートする方が手間が省けたからであろう。10世紀末北宋の都開封にあった訳教院でインド僧を中心に行なわれた「般若心経」の訳教儀式は次のような工程からなっていたそうだ。
①訳主:インド僧が原文を梵語で読み上げる
②証義:梵語の意味内容を討議する
③証文:訳主の読み上げる梵語に間違いがないかどうか点検する
④書字:梵語の僧が訳主の読み上げた梵語の音を漢字で表記する
⑤筆受:漢字で表記された梵語を中国語に訳する
⑥綴文:中国語に翻訳された単語を、中国語の文法に則り順序を入れ替えて文章化する
⑦参訳:梵語と漢文を比較して校正する
⑧刊定:訳された漢文の冗長な部分を削り、簡潔にする
⑨:潤文官:漢文が適切かどうか適当な表現に直す。分りやすいように本来ない文章を入れることもある。

 漢語は単音節で意味をなし、漢字という表意文字を用いる。しかし梵語は複音節語で表音文字を使用するという根本的な文字構造の差がある。梵語の字母はシッダーマートリカー文字のことで、ア、イ、ウ、エ、オに中国語では「悉曇」といって、阿、伊、憂、暝、烏という漢字を当てた。漢字による梵語の音写を容易にする仮借である。この「悉曇」という仮の音当て字は日本に伝わり仮名の発想、仮名の50音図もこうして発生したと考えられている。梵語では語順は自由であるものの、目的語は動詞の前におかれる。つまり中国語とは逆である。中国語の語順にしたがって単語の順序を入れ替えることを当時「廻文」といった。語順において日本語は梵語と似ているので、中国語を間において梵語と日本語は対応している。日本に梵語が伝来されていた可能性は高い。東大寺大仏の開眼供養で導師を務めたインド僧 菩提は梵字百枚をもたらしたといわれている。インドにいった新羅僧から訳教の実態が日本に伝わった可能性もある。こうして中国語の相対化が進行したのである。
(つづく)


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