ブログ 「ごまめの歯軋り」

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東日本大震災と医療問題:南相馬市の妊婦宅の除染作業報告

2011年08月24日 | 時事問題
医療に関する提言・レポートfrom MRIC by 医療ガバナンス学会(2011年8月15日)「南相馬市における妊婦宅の除染作業報告」 鈴木 真 亀田総合病院 総合周産期母子医療センター長 より

 南相馬市は市内が警戒区域(20Km以内)と緊急時避難準備区域(20-30Km以内)にわかれ、一部には妊婦や子供が居住するには危険な区域が存在する。原町中央産婦人科院長高橋亨平医師を中心としたチーム21名(NPO,建設会社、放射線測定機器会社、東京大学医科学研究所、亀田総合病院総合周産期母子センターら)で、放射線分布測定、汚染部位、方針の検討、除染作業、作業の効果判定測定をおこなった。尚その前に15名の妊婦に個人線量計を配布し、被爆量が3.5mSv/y換算以上であった4名の中で同意の得られた1名の住居について今回除染作業を行った。敷地(1-1.5μSv/h)、1階(0.4-0.6μSv/h)、2階(0.5-0.7μSv/h)、雨どい、屋根を測定した。その結果放射性物質は屋根、雨どい、庭の表土に存在することが分り、屋根、雨どいの高圧洗浄、庭の表土剥離を行なう事を決定した。作業は6時間ほどで終了し、その結果1階部分は雨どい洗浄と表土剥離で30% 程低下したが、2階部分はそれほど低下しておらず屋根の洗浄が不十分であった。なおこの除染作業は研究事業で行なっている。

読書ノート 石橋克彦編 「原発を終らせる」 岩波新書

2011年08月24日 | 書評
原発安全神話は崩壊した、原発から脱却することは可能だ 第9回

6) 「原発事故の災害規模」 今中哲二  京都大学原子炉実験所助教授 原子力工学

 ブルックヘブン研究所はアメリカの原子力委員会の委託を受けて、1957年に原発事故の災害規模を推定する研究報告(WASH740)を出した。計算結果から先にいうと、急性死亡者3400人、急性障害者4万3000人、要観察者380万人、永久立ち退き面積2000平方キロ、農業制限面積39万平方キロという。アメリカ政府はこの結果に基づいて、電気事業者のリスクを軽減するため事業者の賠償責任を一定額で打ち切り国家賠償とするプライス・アンダーソン法を制定したのだ。日本でもWASH740を手本に日本原子力産業会議が原発事故の損害を試算した。1960年に「原産報告」が出来たが、試算結果の全体は丸秘扱いで、原子力損害賠償法が制定された。その全容が明らかになったのは1973年のことである。本章はその「原産報告」の概要を紹介する。対象原発は熱出力50万kWhで、設置場所の人口密度は平方キロあたり300人、20km離れて人口10万人の中都市があり、120km離れて人口600万人の大都市があるという想定であった。事故時の放出量は炉心内の0.02%(3700テラベクレル)と2%(37万テラベクレル)が放出されたケースに分けた。放出される放射性物質組成は核燃料全組成分と揮発性成分のみの場合とした。福島第1原発事故では揮発性成分放出のケースに近く、放出量はヨウ素が15万テラベクレル、セシウムが1万2000テラベクレルであった。放出温度は高温(1650度)と低温(常温)の場合に分けた。福島第1原発事故は低温放出に近い。放出粒子径は1μと7μの場合を計算した。福島第1原発事故は1μの場合に近い。そうして大気中のプルーム拡散計算を行なうのである。計算では地形や気象パラメータの重要性も大きいが詳細は省く。被爆量の計算は外部被爆(ガンマー線)と内部被爆(呼吸による肺)にわけて計算し、急性被爆のみを評価した。ガン発生など慢性障害は評価されていない。死亡者に83万円を賠償するとした。37万テラベクレル放出のケース結果を示すと、死亡者720人、人的被害が要観察者3100人、6ヶ月退避移住が360万人、農業制限が3万7500平方キロ、農業損害額は5650億円であった。全損害額は3兆7300億円となった。当時の国家予算は1兆7000億円であったので、国家経済は破綻する事を示している。
(つづく)

読書ノート 山折哲雄著 「教行信証を読む」 岩波新書

2011年08月24日 | 書評
親鸞 悪人救済にいたる思想の葛藤と自覚の道 第7回

苦悩する親鸞(信) (3)

 ここに面白い問題が存在する。それは「教行信証」板東本の「信」巻表紙の裏にある「反故裏書き」である。5行ほどにアジャリ逆害に関するエピソードの一節が書き込まれていた。アジャリの七大臣訪問の一節「悉知義」の回答である。父を殺して王位に就く王は多いが誰も苦悩する者はいないという内容である。親鸞はおそらく阿諛追従の弁を説く七大臣に全身の力をこめて反論したいと思ったのであろう。親鸞には見過ごし出来ない事実があった。1207年南都の僧の告げ口を入れ、法然の念仏宗への迫害の命をだした後鳥羽上皇と土御門天皇の悪行への怒りである。この恨みは「悪人ども地獄へ落ちろ」といいたい気持ちであったに違いないが、なおかつこれら悪人を救済するという阿弥陀仏の慈悲をどう理解したらいいのかと親鸞は煩悶した。1214年親鸞は罪を許され常陸の国にはいった。時に42歳であった。1221年後鳥羽上皇らは承久の乱を企てたが瞬時に鎮圧された。そして二上皇と今上天皇は捕まり流された。常陸の国に移って10年、1224年に「教行信証」は書き上げられた。この「信」巻は「悪人正機説」を証明するための扁であることは明白である。それは国王を初め権力者への容赦ない批判を露にしている。悪人救済説と親鸞の現実はあまりにリアルではないか。なおこの「反故裏書き」を無視(削除)するテキストは多い。これを無視しては親鸞の切実な精神的苦悩と彼が生きていた時代の大きなうねりを理解できないだろう。この親鸞と同じ思いは1247年道元が北条時頼から誘いを受けた鎌倉下向の折の文章「鎌倉名越白衣舎示戒」に示された。権力者に呼ばれた道元も「大涅槃経」の一節を書き写したとされる。親鸞と道元問題認識は「悉有仏性」にあり、道元は正に自分が権力者に「追従」の言葉をいう七大臣の立場に置かれたことである。北条氏は頼朝いらの御家人を粛清し、かつ北条一族との権力闘争を戦い抜いてきた。名越、三浦、千葉氏を滅ぼして時頼は執権に就いた。道元は鎌倉下向以来在家仏教を諦め、永平寺の根本道場に戻った。
(続く)

筑波子 月次絶句集 「秋 雨」

2011年08月24日 | 漢詩・自由詩
秋侯江村一草蘆     秋侯江村 一草蘆

商聲嫋嫋夜窓虚     商聲嫋嫋と 夜窓虚し

暁光漠漠五更雨     暁光漠漠たり 五更の雨

冷至蕭蕭梧葉疎     冷至り蕭蕭と 梧葉疎なり


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(韻:六魚 七言絶句仄起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)