ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 柳田国男著 「山の人生」 (角川ソフィア文庫2013年版)

2018年03月05日 | 書評
柳田国男が模索する、日本先住民の末裔の生活 第12回 最終回

31) 山人考: この論文は大正6年日本歴史地理学会大会での講演原稿である。現在の日本国民があまたの種族の混成であることは科学的に実証されたわけではないが、柳田氏は自身の論説の出発点とすると宣言します。神話時代、天つ神が日本列島に入った時、国内にはすでに幾多の先住民がいた。古代の史書はこれを国つ神と呼ぶ。日本書紀神代紀出雲の条に脚摩乳、大物主命、珍彦とあるのは国つ神である。古事記では猿田彦神も国つ神であった。神祇令には天神地祇に分かち、国つ神を区別した。延喜式では天神地祇ン区別さえなくなっていた。しかし延喜式の刑法には天津罪、国津罪と別け所有権問題は天津罪、人倫に関する問題は国津罪と呼んだ。日本紀には蝦夷には親子の区別さえないという。国津神の帰順しない部分を荒振神と呼んだ。ようやく完結となった東征西伐事業(国内統一事業)は要するに国津神同化のことであった。西国に比べ、東国は頑強に抵抗した。九州の先住民は土蜘蛛と呼ばれ、規模も小さく組織だった抵抗も少なかったようで容易に征服された。大和にも国樔(くず)という先住民がいた。彼ら先住民は帰順したのであって、皆殺しにあったわけではない。従来通りその地にとどまって異俗を保持していた。武力がないから反抗できないだけの事である。国の地方組織や国郡の境が決められたのは允恭天皇の時と言われる。山地と平野との境、すなわち国つ神の領土と天つ神の領土の先を決めた。天武天皇の吉野行幸の案内をしたのは、地元の国樔であった。また平野神社んの祭りに出仕したのも山人である。平安時代天皇家の葬儀を担当したのは八瀬の山人であった。朝廷の重要行事に山人が出仕するのは山から神霊を御降させるため欠くべからざる神事であったからだろう。上古の国つ神(山人)はさらに二つに別れ、大半は里に下りて常民(農耕民)となり、残りは山深く入り山人と呼ばれた。後世仙人をヤマビトと読ませた。山男・山女、山童・山姫、山丈・山姥を総括して山人と呼ぼう。まず中世の鬼に注目すると、オニに鬼の漢字をあてたので「今昔物語」の鬼は人の形をしていなかったり、妖怪変化の感があるが、別に山中の鬼は討伐の対象であった。酒呑童子や鈴鹿山の鬼や悪路王大竹丸赤頭、吉備津の塵輪も三穂太郎も凶暴な種族で、修験者の祈祷では釈服しなかったので討伐対象になった。九州日田の大蔵氏、山城八瀬の「ゲラ」などは山鬼の末だという説があります。安芸宮島の山鬼は護法天狗のジャンルであった。大和吉野大峰山の五鬼は山登りの先達を世襲する五家であった。すなわち五人の山伏、役行者の家であろう。相州箱根三州鳳来寺、近江伊吹山、上州榛名山、出羽羽黒、紀州の熊野、加賀の白山の開山の祖は山人ではなかったろうか。彼らは奈良仏教(大乗仏教)とは系統が異なり、南方仏教(小乗仏教)ではないかという説があります。山伏道も古くは教義も内容も不明で、役行者に至っては仏教であったかどうかも疑わしい。土佐では高知城市に異人が出現したのを、「山みこ」と呼んで山神扱いをして山へ返したという。山の神の信仰も維新以来神祇官系統の考えに基づいて大きな変化を受けた。村人が山神を祀るのは、採樵と開墾の障碍鳴き祈るためである。道に馬頭観音や庚申塚をたてるのと同じである。山人にどのような害があったかといえば、遭遇してびっくりして気絶したぐらいの事である。天狗を山人と称するのは、天狗の容貌服装のみならずその習性感情から行動まで、仏法の一派と認めている修験山伏と酷似するからである。近世以降山の神の信仰はすっかり変貌し、今や民間の迷信の断片から想像する以外に手はないのです。山人すなわち日本尾原住民はもはや絶滅したようである。本文の序に書いたように、先住民を絶滅に導いた6つの過程とは、①帰順・朝貢に伴う同化、②土蜘蛛殺害による根絶やし、③飢餓・過疎から自然的な子孫断絶、④信仰の流れのなかで農耕社会に組み込まれた、⑤長い歳月の間に土着・混淆した、⑥なお山の中を漂泊する生活を続け、交渉はあったがある時代から絶滅した。という論考である。第6番目の旧状維持者(今なお山中を漂泊するもの)がある時代までは存在したということです。その痕跡を民話・伝承・口承・文献に求めることが柳田氏の学究態度となっている。食塩は、服装は、交通は、買い物は、配偶者は、言語などまだわからない事ばかりである。

(完)


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