ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 菅谷明子著 「メディア・リテラシー」 岩波新書

2008年02月08日 | 書評
英国、カナダ、アメリカの教育現場でメディア・リテラシーがどう教えられているのか 第一回

著者菅谷明子氏はかって米国「ニューズウィーク」雑誌の日本語版スタッフ。メディアの仕事を続ける中でコロンビア大学において「国際関係論とメディアジャーナリズム」を学んで修士号を得た。現在は日本に帰ってジャーナリストになり、滞米中の5年間にメディア・リテラシー(メディア教育)を取材し諸外国における先進的な取り組みを紹介してきた。本書はその成果の一里塚である。なお本書を著した後、著者は2001年から2006年の5年間東京大学大学院情報学環MELL(Media Expression, Learning and Literacy Project)に移り、そこでチーフ・ディレクターを務めた。MELL活動の総括文には「この5年の間、80余名のメンバーは、700名前後のサポーターに支えられつつ、約20のサブプロジェクト、約10の関連プロジェクトを展開し、42回の公開研究会、6回のシンポジウムをこなし、6冊の本をまとめることができました。メルプロジェクトとしての活動は、あと一冊の本の出版をのぞき、これで終わりです。しかしこの企てで花開いたメディア表現やリテラシーのアイディアやプロジェクトの数々は、綿毛のついた種子となってあちこちに飛散し、さまざまな地域やメディアのなかに根をおろし、ぱっちりと芽吹きつつあります。メルの拠点となった東京大学情報学環からは、あらたな球根もほこほこと生み出されつつあります。」とある。

菅谷明子氏はこの本のきっかけをこういう。「ニューズウィークの日本版編集部にいたころ、ニュースは現実そのものを伝えているものではないと、考えるようになった」メディア媒体が持つ特性、イデオロギー、地域性、読者層、企業的判断、スポンサー、記者の興味、国情によってニュースは形作られる。ニュースが中立公平であるということは神話に近い。決して一つの「真実」が存在するわけではない。視点を変えればいくつもの「真実」が存在するのである。メディアが伝える情報は取捨選択の連続によって現実を再構成した恣意的(一面的)なものであり、特別な意図がなくても、製作者のしわくや価値判断が入りこまざるを得ない。「真実とは何か」という疑問はメディアリテラシーの原点である。メディア・リテラシーとは一言で言えばメディアが形作る「現実」を批判的に読み取るとともに、メディアを使って表現する能力のことである。メディア・リテラシーは主に北米で使われている言葉で、イギリスではメディア教育と呼ばれている。何かメデイア教育というと分りやすいし、主として若い人向けの教育という意味合いが強く、本書の内容からもぴったりの言葉である。メディア・リテラシーといえば批判的(否定的)にメディアを捉え「騙されないぞ」という側面が強い言葉である。

私はメディアの政治性についてはノーム・チョムスキー著 「メディアコントロールー正義なき民主主義と国際社会ー」を紹介した。また米国の財閥によるメディア複合体支配については広瀬隆著 「アメリカの経済支配者」で紹介した。それいらい私はメディアとは一定の距離をおいてむしろ「騙されないぞ」という姿勢を維持した。批判的に捉えることはメディア・リテラシーの一側面であって、ウエブにおいて自分が情報を発信する際に重要な意味も持つ。本書において菅谷明子氏はメデイァ教育のユニークな取り組みをしている現場を取材し、メデイア教育という未知の領域の理論を構成しようという意気込みである。本書はイギリス、カナダ、アメリカの教育現場とデジタル時代のメディアリテラシーの4つの章で構成される。


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