ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 荒畑寒村著 「谷中村滅亡史」  岩波文庫

2008年02月08日 | 書評
足尾銅山鉱毒事件と谷中村貯水池化をめぐる、明治政府、古河財閥、栃木県に対する田中正造翁と谷中村民の闘争史 第7回 最終回

第21 谷中村の合併
人口2700人を擁した谷中村は、買収や移住のため明治40年には僅か400人に減少していた。明治37年村会は村債をめぐって紛糾し議会は総辞職した。新たの選ばれた村長は村債に反対だったので知事は村長を追い払い、村長代理の猿山、村井の命じて村債に偽った。明治39年鈴木村長代理は知事の命を受けて、38倍の課税として払えない者は財産差し押さえにすると云う処置に出た。他郷へ出るものは課税を免除するということなので、村民は流離した。そして白仁知事は、4月谷中村を藤岡町に合併すると云う命を出した。この話は現在の北海道の夕張市の財政破綻処理に酷似していると思いませんか。市民は減り、市職員は逃げ、税金が上がりまさに夕張市は滅亡の運命を待つのみです。

第22 政府 堤防を破壊す
明治39年4月17日県庁は赤麻沼急水予防工事破棄の命令書を出した。「27日までに堤防を官自ら破棄せよ、かつその費用は村民より徴収すべし」と云う苛酷な命令であった。30日に堤防破壊は終了した。

第23 貯水池無効の実例
堤防内の住家は17戸であった。小学校2校を廃した。6月には田中正造翁に「予戒令」を出して行動の自由を奪った。谷中村を貯水池にすると、利益より害の方が大きい。逆流は一端緩和されるも付近地の浸水の引きが悪くなりかえって農作物に被害が出る。谷中村に接近する町村は県庁に谷中村貯水池化反対と廃止の請願を出した。

第24 貯水池設計の無謀
明治40年4月、代議士河井重蔵氏は政府の谷中村貯水池設計なるものが誤謬に満ちている事を指摘した。ようするに降雨量の見積もりが一桁小さいため、貯水ちの耐える時間を政府は8時間としているが、1時間程度しかもたないと云うものである。他の河川に較べてもその見積もりが少なすぎ杜撰だ。この話は現在の国土交通省の官僚の出す河川工事・ダム工事で降水量の見積もりや用水計画が、工事する方向へ都合のいいように歪められている事と同じ構図である。また空港や高速道路工事において利用客の見積もりが一桁少ないと云うことはよくある話である。ようするに工事をすることが前提で、そのための数値は後つけで任意に裁量されているのである。その結果は赤字経営となる。しかし土建業者は儲けている。赤字は県が負担、税金で補助と云うのが現在の構図である。

第25 土地収用法出ず
明治40年2月、政府は県庁に対して土地収用法の適用を認可した。内務大臣原敬が西園寺公望首相の決裁を得た。内務大臣原敬は古河工業所の顧問であった。

第25 土地収用法出ず
明治40年2月、政府は県庁に対して土地収用法の適用を認可した。内務大臣原敬が西園寺公望首相の決裁を得た。内務大臣原敬は古河工業所の顧問であった。

第26 谷中村の滅亡
明治40年6月29日より7月5日の一週間で堤内に残留していた16戸の村民116人を強制排除し、家財を持ち出し、家屋を破壊した。田中正造氏、木下尚江氏らは堤防上で見守り、抵抗する農民をただなだめるしか手はなかった。県庁土木部の破壊隊200余名が入って破壊作業を行った。佐山梅吉宅、柴田四郎宅、小川長三郎宅、川島伊勢三郎宅、茂呂松右衛門宅、渡辺長輔宅、島田熊吉宅、島田政五郎宅、水野彦市宅、染宮与三郎宅、水野常三郎宅、間明田久米次郎宅、間明田仙弥宅、竹沢勇吉宅、竹沢釣蔵宅、竹沢蔵方宅、宮内勇次宅が取り壊された。

結論
陸奥宗光、古河市兵衛、陸奥の息子である古河順吉(東京十条にある古河邸はこの婿殿のために建てた屋敷である)、内務大臣原敬ら支配者階級(紳士閨閥階級)の手によって、谷中村は水没せしめられた。これは足尾銅山鉱毒問題を隠蔽するための行為であった。議会、法律、県庁官吏、警察、暴徒をすべて動員して資本家のためにおこなった犯罪である。




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