ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 泉鏡花著 「歌行灯」、「高野聖」、「眉かくしの霊」、「夜叉ケ池」、「天守物語」 岩波文庫

2018年05月26日 | 書評
浪漫詩人泉鏡花の世界に遊ぶ: 傑作小説二篇 と 傑作戯曲二篇 第3回

2) 『高野聖』(1900年、新小説)小説

 『高野聖』は、泉鏡花が作家として成功するきっかけとなった短編になります。語りの軽妙さ、物語の面白さもさることながら、何より評価されているのはその表現の豊かさです。物語には、泉鏡花最大の魅力である多くの形容詞を用いる語彙力の高さが存分に生かされており、読み終えるころには、彼が形作る世界のとりことなっていることでしょう。若狭へ帰省する旅の車中で「私」は一人の中年の旅僧に出会い、越前から永平寺を訪ねる途中に敦賀に一泊するという旅僧と同行することとなった旅僧の馴染みの宿に同宿した「私」は、夜の床で旅僧から不思議な怪奇譚を聞く。それはまだ旅僧(宗朝)が若い頃、行脚のため飛騨の山越えをしたときの体験談だった。若い修行僧の宗朝は、信州・松本へ向う飛騨天生峠で、先を追い越した富山の薬売りの男が危険な旧道へ進んでいったため、これを追った。怖ろしい蛇に出くわし、気味悪い山蛭の降ってくる森をなんとか切り抜けた宗朝は、馬の嘶きのする方角へ向い、妖しい美女の住む孤家へたどり着いた。その家には女の亭主だという白痴の肥った少年もいた。宗朝は傷ついて汚れた体を、親切な女に川で洗い流して癒してもらうが、女もいつの間にか全裸になっていた。猿やこうもりが女にまとわりつきつつ二人が家に戻ると、留守番をしていた馬引きの親仁(おやじ)が、変らずに戻ってきた宗朝を不思議そうに見た。その夜、ぐるりと家の周りで鳥獣の鳴き騒ぐ声を宗朝は寝床で聞き、一心不乱に陀羅尼経を呪した。翌朝、女の家を発ち、宗朝は里へ向いながらも美しい女のことが忘れられず、僧侶の身を捨て女と共に暮らすことを考え、引き返そうとしていた。そこへ馬を売った帰りの親仁と出くわし、女の秘密を聞かされる。親仁が今売ってきた昨日の馬は、女の魔力で馬の姿に変えられた助平な富山の薬売りだった。女には、肉体関係を持った男たちを、息を吹きかけ獣の姿に変える妖力があるという。宗朝はそれを聞くと、魂が身に戻り、踵を返しあわてて里へ駆け下りていった。
「高野聖」は泉鏡花の最高傑作の一つと言われます。ときに鏡花28歳でした。この小説に素材を提供したのは、友人の体験談でした。「麻を刈る」に述べられているように、この体験談をヒントにして鏡花一流の夢幻的空想をほしいままにした。息のかかる人間たちを次々に馬、牛、蟇蛙などに変えてしまう美女は中国の怪奇譚「三娘子」に拠った。富山の薬売りが美女に惑わされて馬にされ、馬市に売られる話もこの「三娘子」からとったものである。もう一つ作者のネタ袋には上田秋成の雨月物語の「青頭巾」がある。雨月物語は鏡花の愛読書の一つであった。「高野聖」の女主人公と同じように妖怪変化ではなく人間であり、他国から12,3歳の少年を連れてきて生活の助けとし、それによって人界を脱する存在となる点、そして旅僧が誦経して難を逃れる点など共通する共通している。文章も似ているといわれる。「高野聖」はもっと派手に妖艶に仕立て上げた。そして上田秋成と泉鏡花の系統は日本文学中の一筋の流れをなしている。そしてそれは川端康成にも及ぶかもしれない。説話体で語られ、事実は語り部の感覚に染められ、主観的、ロマン的作風にふさわしい文体である。しかしこの神秘的・非現実的題材・思想の一面において、主人公の女は妙に現実的で俗っぽい下町風の世話女房を演じるのである。これが鏡花好みの女性であろう。この美女が白痴の夫にかしずくところが鏡花のマゾヒスチック的な性的倒錯世界である。すなわち現実離れした趣味嗜好と俗っぽさが入り乱れ、鏡花文学の妖艶世界を醸し出して世に受けたのであろう。奇怪な性的倒錯、マゾヒズム、豊肥妖艶への肉欲が官能小説に陥る寸前で、美に対する一途な心で救われている。改まって言うと、恋愛賛美、女性崇拝、ブルジョワ的俗悪や家族制度への嫌悪などが、明治中期における道徳や封建的感情に対しての鏡花のアンチテーゼとなっているといえます。


(つづく)



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