ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 東野治之著 「鑑真」 岩波新書

2010年07月22日 | 書評
鑑真が日本にもたらしたもの、日本で根付かなかったもの 第10回

4)唐招提寺 (2)

 では唐招提寺で学ぶ戒律について考えてゆこう。戒律とは仏陀の教えではなく、独立した僧団を運営して行くためのものであった。実践してまなび集団生活の中で身につける訓練である。「四分律」は受戒後5年間の研修を義務づけている。ところが当時の日本では正式な具足戒さえなく、このような研修が行われているはずもなかった。唐招提寺が始めてその研修の場となった。しかし詔勅では「戒律を学ばんと欲するものは、皆属して学ばしめよ」となっており、希望者だけでいいことになる。まことに見事な日本的骨抜きである。唐招提寺の本尊は盧舎那仏であることから、東大寺の配置を習って建立したものと考えられる。東大寺にあって唐招提寺にないものは、西塔、南中門だけであり、唐招提寺は省略し小さくした東大寺といってもよい。唐招提寺にとって、戒壇で行う授戒は眼目というものではなく、僧の集団生活の場が絶対的必要なのであって、規律を守れなかった僧に対する合議制裁判の場としての戒壇が必要であったというべきであろう。授戒は東大寺の専有事項で、引退した鑑真には僧の教育だけが任されたというべきだろう。鑑真は763年5月6日76歳で生涯を閉じる。鑑真は思託に遺言をして、生前に像を作り、御影堂を設けて像を安置せよといったというが、どうもうそ臭い後日の作り話であろう。この肖像が、国宝「鑑真和上像」である。乾漆作りの写実的な表現である。肖像彫刻の傑作であろうことは論を待たない。
(続く)


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