ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 今井むつみ著 「学びとは何か―探究人になるために」 (岩波新書2016年3月)

2017年06月10日 | 書評
教育学・言語学・脳科学より認知科学の視点から、生きた知識創造を考える 第4回 最終回

3) 生きた知識

 前半の2章で学びの熟達と認知の仕組みの概略を考えた。後半は「生きた知識とは何か」という価値に関する議論である。知識とは驚くほど多様であり、その学び方も多様である。文部省が言う「望まれる人間像」が曖昧模糊であるように、「論理的思考能力」を養うという教育理念も捉えようがない。これは思考力・判断力を束ねている「知識」の意味が人によって様々であるからだ。知識観、つまり知識についての認識のことを「エピステモロジー」と呼ぶ。現在は知識は客観的なものであり、事実であるという「知識についての認識」エピモロジーが共有されている。知識=事実問う考えが広く行き渡り、日本人は「覚えた事実の量」を学力として評価されるという教育を小さい時から受けてきた。ここで知識が切り取ったり貼り付けたりできる「客観的事実」であるという知識モデルを筆者は「ドネルケバブ・モデル」と呼ぶ。しかし「生きた知識」は「ドネルケバブ・モデル」ではない。生きた知識の代表と言える言語は、多くの要素が互いに意味を持って関係づけられて作られたシステムであう。常にダイナミックン変動してシステムである。例えば英単語豆辞典でbreak=破壊といった1対1に対応する訳語では、生きた知識にならない。その訳語を増やしただけでは結局英語は使い物にはならない。子供は音韻の規則、文法の規則、単語の意味など言語という大きなシステムを構成する要素をほとんど自分で見つける。乳児は自分の母国語の単語の音の最小単位である音素を発見する。自然物、絵や写真を見てどう解釈するかは極めて主観的であって、それをもとに習得される知識もまた「客観的事実」ではありえない。「生きた知識」は知識どうしが結合して新たな知識を生むのだ。間違いを起す危険があっても「思い込み」によって施行するのは、未完成であれ知識のシステムの枠組み(スキーマ)をとにかく作るためである。そして後でまた別の知識によってゆっくり修正するという学びの過程の一部となる。思い込みスキーマが間違っていた場合、土台から組直さなければならない。これを認知科学では「概念変化」と呼ぶ。「エピステモロジー」は絶対主義ー相対主義ー評価主義という発展段階をたどる。そしてさら高い水準の発展段階になると、知識は単なる考えとは違う実証的仮説による「科学的知識」となる。自然科学的思考を身に付けるには、理論の検討の仕方、仮説の立て方、仮説の検討のための実験のデザイン、データの解釈、結論の導き方などの論理を組み立てるスキルの訓練が必要なのである。社会科学においても理にかなった意思決定をするためには、論理構成スキルに則った思考が必要である。批判的思考つまり正当性を主張するための証拠(エビデンス)を積み上げて論理を作ることが必要である。もちろん論理構築には「直感」も必要なことは言うまでもない。教育の現場で、各分野の第1線で第一人者になるための一般的方法などあるわけもないのだが、といって個人の天才に帰すだけでは今までの議論が無に帰すわけになる。様々な分野での超一流の達人(熟練者)の実践方法を考察することは大いに意義がある。国際的に活躍できるようになるにはどのような分野でも練習時間は1万時間以上必要で、これを「10年修行の法則」と呼ぶ。さらに練習中の集中度(練習の質)によって達成度は異なる。疲れたまま練習を続けても効果は少ない、ぼんやり休息をとることも必要で要は諦めずに追い続ける耐久力がものをいう。持って生まれた才能=「努力では到達できない能力」というものがあるのかどうか、特に運動選手の分野では「遺伝子」と言われる生まれつきの才能が云々される。自然科学の分野では「思考力」の遺伝子があるのだろうか。芸術や運動分野で目的を追い続ける(継続する)「意志の強さ」といった性格も話題になる。知能指数IQだけは相関はないそうである。運動選手の場合、長年の集中的な訓練の結果身体的な特徴が適応してゆくことがある。熟練の先にある「創造性」のありようは分野によって随分違う。科学者の創造性、音楽家の創造性・・・は同一には論じられないが、他の人には真似できない自分独特のスチルでパフォーマンスをする音ができる人は創造的であるという定義はある。今まで持っていた知識は新しい知識を創るベースになるし、軛にもなる。天才と言われた人は、予期せぬデータに直面したとき自分の仮説に縛られず、最終的にそのデータを説明できる別の理論を考えられる人である。移動説を唱えたケプラーがその人であった。ケプラーはブラーエの膨大なデータを照査し、誤差に目をつぶらず計算を繰り返して、円運動ではなく楕円運動であれば誤差を説明できることを発見した。自分の予想と違う現象を見た時、それを見逃さず、そこに別の可能性を見出すことを「セレンディピティ」と呼ぶ。生きた知識を追い求めることを「探究エピステモロジー」という。子供を教育する人(教師・親)自身も探究し続ける人で有ってほしいと著者はいう。子供は本来自分で知識を発見するようにできているにもかかわらず、探究心を失ってしまうのはなぜだろう。それは知識の断片を大事にする「ドネルケバブ・モデル」に大人が毒されているからである。知識を子供に押し付けるから子供は自ら発見することをしなくなるのである。遊びの中で子供の象徴能力(想像力)を大事にし、自発性を養うのである。良い絵本を繰り返し聞くことも大事である。そのたびに新しい発見がある。子供はホメることが大事であるが、褒美を与えてはいけない。などなど筆者の児童教育学上の知見が披露されている。

(完)


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