アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

日曜日記218・アントニオ猪木と力道山と在日差別

2022年10月09日 | 日記・エッセイ・コラム
   アントニオ猪木(1日死去)は朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)を33回訪問し(1994年9月~2018年9月)、「スポーツ交流による日朝関係改善を訴え続けた」(1日付朝日新聞デジタル)。
「日朝交流に努めることが、故郷へ帰りたくても帰れなかった師匠への恩返しになる」と考えたのだという(同)。

 師匠とは力道山(1924~63)だ。中学生の時にブラジルに移住した猪木は、17歳の時に遠征で訪れた力道山にスカウトされ、日本プロレスに入団した。

 猪木は、「力道山はとても怖い人だったが、私の父親といっていい存在でした。弟子として力道山イズムを引き継いだのは私だけ」と語っていた(同)。

 キャッチフレーズの「燃える闘魂」についてもこう話している。
「闘魂とは何か。俺は自分自身に打ち勝つことだと解釈している。晩年のおやじ(力道山)が好んで使った言葉で、ずっと大切にしてきた」(2日付琉球新報)

 力道山は猪木をどうみていたか。力道山夫人の田中敬子さんはこう述懐する。
「付き人だった猪木さんには厳しく接していました。今思うと、それは期待の大きさの裏返しだったと思います」「猪木さんが朝鮮側と特別な関係を築けたのは、猪木さんが力道山の直弟子だという理由も大きいと思います」(月刊「イオ」8月号)

 猪木は頻繁に朝鮮を訪れただけではない。ある時、安倍晋三元首相と会食し、朝鮮との交渉についてこう進言した。

「制裁というカギをかけたのは(第1次)安倍内閣。カギを解く合鍵や暗証番号を持っているのは安倍さんしかいませんよ」「拉致問題の解決はもちろん大事だが、いきなりその話だけをするのではなく、日朝関係の将来の話もしながら、拉致問題にもきちんと触れる。そんな話し合いが大切ですよ」(同朝日新聞デジタル)

 力道山(本名・金信洛)ははじめ相撲界にいた。関脇まで進んだが、親方から「朝鮮人は横綱にはなれない」と言われ、プロレスに転進した。以後、朝鮮出身であることを公表することはなかった。在日朝鮮人差別が身に染みていた。しかし、力道山の方は日本人・日本に親愛の情を持ち続けていたという。田中敬子さんはこう明かす。

「力道山の必殺技・空手チョップは3回連続で繰り返すんです。「勇気」「元気」「日本復興」という3つの思いを込めていたそうです」(同「イオ」)

 猪木が力道山の遺志を継いで朝鮮との交流を図ったのは、「恩返し」もあっただろうが、移民としてブラジルに渡り、マイノリティとして味わった苦労が力道山への敬慕につながったのではないだろうか。

 幼いころ祖父母に預けられていた私は、おじいちゃん子で、よく一緒にテレビを見た。祖父は大のプロレスファンだった。とりわけ力道山に心酔していた。「リキさん、リキさん」と呼んでいた。60年以上前の話だ。

 兵卒の軍服姿の祖父の写真を見たことがある。戦地に赴いていたのだろう。アメリカのレスラーを倒す力道山に熱い拍手を送ったのは、戦争体験と関係があったのかもしれない、と今にして思う。

 祖父は力道山が在日であることは知らなかったはずだ。もし知っていたら、それでも「リキさん」と親しみを込めて呼んだだろうか。呼んだだろうと信じたい。

 国籍や人種、民族に関係なく、人が人として尊重し合える、尊敬し合える社会にしたい。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「北朝鮮抗議決議」衆参全会... | トップ | 「クリミア橋爆発」は“軍事侵... »