アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
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琉球新報は「黙秘権行使」に対する攻撃を釈明せよ

2017年12月07日 | 沖縄・メディア・文化・思想

     

 「米軍属女性殺人初公判 罪と正面から向き合え」と題した琉球新報の社説(11月17日付)に対し、沖縄弁護士会(照屋兼一会長)が11月22日、「再検討するなど、適切な措置を講じること」を求める「会長談話」を発表しました。

 これに対し新報は同23日の紙面で、「主張に問題ない」とする玉城常邦論説委員長のコメントを発表。さらに12月6日付の「読者と新聞委員会」(主宰・富田詢一社長)の座談会記事で、「論説として問題ない」「極刑と誤認の恐れも」「黙秘権否定してない」「主張に色あってもいい」とする出席者の発言とともに、「認めた罪については当然、話すべきだ」とする玉城論説委員長の発言を再び掲載しました。

 琉球新報は社説に「問題ない」という姿勢を一貫して崩していません。4人の座談会出席の発言によってそれが「証明」されたかのような印象を残したまま、この問題は収束されようとしています。

 しかし、この問題は人権・民主主義にとってけっして看過できません。さらに、沖縄の「歴史」や「基地問題」への取り組みにとっても、このままでは禍根を残すことになりかねません。問題の本質はどこにあるのか、改めて検証します。

 沖縄弁護士会が新報の社説に対して指摘していることは、大別、次の2点です。

① 「被告人が法廷で黙秘権を行使したことについて、『被告の権利とはいえ、黙秘権行使は許し難い』『被告の順法精神と人権意識の欠如の延長線上に、黙秘権の行使があるのではないか』などと厳しく批判した」

② 「裁判所あるいは裁判員に対し、『裁判員は被告の殺意の有無を的確に判断してほしい』『遺族が納得する判決を期待したい』と投げかけるものであった」

 ①②をまとめて「談話」はこう指摘します。
 「上記事件は誠に痛ましい事件であり、被害者関係者のみならず一般市民が厳しい感情を持つことはむしろ当然である。
 しかしながら、新聞社が社の意見として、第1審係争中の段階で、被告人が憲法及び刑事訴訟法上認められた正当な権利である黙秘権を行使したこと自体を上記のように厳しく論難し、そればかりか、証拠関係に基づかずに、裁判所・裁判員に対して一定の方向性をもった判決を期待する旨表明することは、刑事被告人の黙秘権及び公平な裁判を受ける権利を軽視し、また、これから評議・判決に臨む裁判員に対して影響を及ぼすことも懸念されるところである」

 これに対し上記座談会では、「遺族が死刑判決を望んでいると、死刑判決を下してほしいと主張していると受け取られかねない」(照屋寛之沖縄国際大教授)との意見があり、玉城論説委員長も、「死刑を求めているようにも読めるのは反省点だ」と述べています。

 これは弁護士会が指摘する②の問題を、新報としても事実上認めたものといえるでしょう。新報は「誤りだった」とはっきり認めるべきです。

 問題は、①の「黙秘権の行使」です。
 玉城論説委員長は「被告の黙秘権行使は否定しないが」(11月21日付コメント)、「黙秘権の重要性は認識している」(座談会)といずれも前置きしたうえで、「全てを話すべきだとの主張に問題はない」(コメント)、「認めた罪については当然、話すべきだ」と繰り返しています。

 黙秘権は憲法、刑事訴訟法に明記されている権利であり(11月23日のブログ参照http://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/d/20171123)、「否定しない」(できない)のは当然です。問題は、その黙秘権を被告人が行使したことに対し、新報が「全てを話すべきだ」「当然、話すべきだ」と非難していることです。黙秘権の「重要性は認識している」と言いながら、その行使を否定・攻撃するのは、きわめて陰湿・作為的と言わざるをえません。

 さらに新報は、「一新聞社の論説としてやっているのだから…とやかく言う必要はない」(湧川昌秀沖縄県社会福祉協議会会長)などの座談会における「一般市民」の意見を前面に出すことによって、自社の「正当性」を印象付けようとしています。「一新聞社の論説」だから何を言ってもいいというものではない、いいえ、新聞社の論説だからこそ、何を言ってもいいというものではないことは、論証の必要もないほど自明でしょう。

 座談会で照屋寛之氏は、「沖縄の置かれた歴史的背景を考えると『絶対に許せない』ということでここまで書いたと思う。法の世界だけで考えるか歴史を考えるか、平行線になるかもしれない」としながら、「弁護士会が談話を出すということは気になる」と新報に与する意見を述べています。

 しかし、「法の世界」と「歴史」は「平行線」で競合・対立するものでしょうか。
 キーワードは「人権」だと思います。
 「黙秘権」が憲法・刑事訴訟法に明記されるようになったのにも「歴史」があります(11月23日のブログ参照)。それは端的に言えば、国家権力からの人民の権利=人権擁護の歴史でした。
 一方、薩摩による「琉球侵攻」以来の琉球(沖縄)の歴史、そして今日の「構造的差別」による「沖縄の基地問題」も、結局、うちなーんちゅの人権が日本とアメリカによって踏みにじられてきた、そして今も踏みにじられている「歴史」ではないでしょうか。

 「人権」を土台に考えるなら、「法の世界」と「沖縄の歴史」は決して「平行線」ではないのではないでしょうか。

 その視点から考えると、琉球新報が社説で「黙秘権の行使」(「黙秘権」そのものではないとして)を「許し難い」と攻撃したことはけっして容認できるものではありあません。

 琉球新報社は、「座談会」でこの問題にフタをすることなく、社説で「黙秘権の行使」を否定・攻撃したことに対し、明確な釈明を行うべきです。

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