22日付の地方紙各紙(共同配信)によれば、安倍政権は徳仁天皇即位に伴う「即位礼正殿の儀」(10月22日)に合わせ、「恩赦(政令恩赦)」を行う方針を決めました。天皇の「即位儀式」を理由とする「恩赦」は、二重に憲法の民主的原則に違反するものです。
第1に、「政令恩赦」は、「国家の慶祝時や皇室の慶弔時に政令をもって一律に行うもの」(佐藤幸治京大名誉教授『日本国憲法論』成文堂)です。つまり「即位儀式」を理由に「恩赦」を行うことは、それが「国家の慶祝」だと政府が政令で確定することを意味します。
しかし「即位礼正殿の儀」は、徹頭徹尾、神道(皇室神道)に則った儀式です。それを「国事行為」とし、国家予算を支出することが憲法の政教分離原則に反することは言うまでもありません。
さらに、その儀式に三権の長が臨席し、首相が数段低い所(天皇の高御座に対し)から「祝辞」を述べ、「万歳」を三唱すること(写真右)は、国民主権の明白な違反です(後日詳述します)。
安倍政権がこの「即位儀式」を理由に「恩赦」を行うことは、その違憲性を隠ぺいし、逆に憲法違反の儀式の「慶祝」を国民に強要することにほかなりません。
第2に、そもそも「恩赦」制度自体が、天皇主権の大日本帝国憲法の名残であり、主権在民の現行憲法下において、天皇の権威を高める役割を果たすものだということです。
大日本帝国憲法は第16条で、「天皇ハ大赦特赦減刑及復権ヲ命ス」として「恩赦」を天皇の大権と定めていました。
現憲法はそれを削除し、第73条(内閣の権能)の7番目に「大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を決定すること」をあげ、その権能を内閣に移しました。
ところが憲法は同時に、第7条(天皇の国事行為)の6番目で、「大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること」としました。決定は内閣が行うがそれを認証することを天皇の「国事行為」としたのです。
その結果、あたかも天皇が「恩赦」を与えるかのような形式になり、天皇の権威を高める役割を果たすことになりました。
形式だけではありません。過去9回の「特別恩赦」(「政令恩赦」とは別の「個別恩赦」の1つ)のうち3回は「皇室の慶弔」を理由に行われました(明仁皇太子<当時>の立太子礼=1952年、明仁皇太子の結婚=1959年、天皇裕仁の大喪の礼=1989年)(横田耕一九州大名誉教授『憲法と天皇制』岩波新書より)。
「このように皇室の慶弔を契機に恩赦を行うことは、恩赦が天皇の恩恵であるかのような印象を生み出すことになるだろう」(横田耕一氏、同著)
以上の二重の意味で、「即位儀式」を理由とする「恩赦」は憲法原則に反するものであり、けっして容認することはできません。
ところで、「『恩赦』という語には、『君主の仁慈』といった響きがある。日本国憲法は…『恩赦』という語は使用していないが、明治憲法時代の例にならって法制度上『恩赦』という語が使われてきた」(佐藤幸治氏、前掲書)という経緯があります。安倍政権は「恩赦法」の制定(2014年)によって「恩赦」を法律名にさえしました。ここにも大日本帝国憲法を引き継ぐ発想がうかがえます。
なにげなく使っている言葉の中には天皇(制)を肯定・賛美するものが少なくありません(例えば「玉音」)。「恩赦」もその1つです。表記の際はせめて「」を付けたいものです。