癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

講演会「元道新記者が見た青函連絡船」

2018年10月28日 | 登山・旅行

 1988年3月の青函トンネル開業に伴い、その役割を終えた青函連絡船をテーマにした、道新ぶんぶんクラブと函館支社共催の講座。


 講師は、函館出身で元道新記者の原田伸一さん(2006年~09年函館支社長)

 このたび、自ら撮影した連絡船の写真と人々のドラマに焦点を当てた新著「海峡の鉄路 青函連絡船 110年の軌跡と記憶」(北海道新聞社)を出版されている。

 講演会は、道新ぶんぶんクラブの相原秀起事務局長(前函館支社報道部長)との対談形式で、54年(昭和29年)に多数の犠牲者を出した洞爺丸事故を取材した記者たちの姿をはじめ、88年3月の連絡船の終航まで、道新の記者たちが目撃、記録した連絡船にまつわる秘話を写真を映し出しながら語った。

 終航から30年経ち、昭和時代の思い出としての印象が強い青函連絡船だが、参加者は、自分の思い出と重ねながら感慨深く聞いていたようである。

<印象的な話をメモしたものが下記である>

・父親が国鉄職員で、港町の国鉄官舎で育ったために、子供のころから汽車や連絡船に興味を持っていて、そのころに撮った写真も残っているそうだ。

・祖父はカメラが趣味で、1920年代の1本煙突の連絡船の写真も残っている。

・昭和39年(高校生の頃)の函館ドックで初めて造られた連絡船・松前丸の進水式を見に行って、その様子をカメラに収めている。そのときの北海道新聞の写真に、たまたま自分が写っていた。

・青函連絡船の大きな転機となった洞爺丸事故は、幼少時で記憶はないが、親から聞いて知っているし、記者になってからも当時の新聞記事を全部チェックし、切り抜いて保管している。また、今回の著書の取材で、函館や青森のOBや遺族や関係者からも具体的に聞いたり、関係した新聞記事を入手した。

・昭和35年の日本初のディーゼル特急はつかり(青森~上野)と、北海道のディーゼル特急おおぞら(函館~釧路)が連絡船を繋いだ。昭和36年に、はつかりの遅れを取り戻すために、八甲田丸が3時間26分で運航したという記録が残っている。当時は4時間20分が定時の運行時間であった。

・昭和40年には、揺れない連絡船を目指し、英国のスタビライザーの技術を取り入れた。揺れないために、北海道周遊にも使われた。

・国鉄線路が土砂崩れで不通になり、函館~室蘭の臨時運行をしたこともあった。

・洋上結婚式や男子誕生などもあった。船長が名付け親になったという記事も残されている。

・修学旅行での利用が多く、初めて連絡船に乗ったのが修学旅行という人が多い。

・ドラのあとに流れる「ほたるの光」は、昭和16年にたまたま事務担当の船員が流したところ、別れの雰囲気を盛り上げるということで非常に評判が良く、それが定着したとのこと。ただ、戦時中は情緒的過ぎると禁止されたが、戦後、復活した。

・終航は、青森発が八甲田丸で、函館発が羊蹄丸だった。終航後は、お互いに基地港である青森と函館へ、それぞれ客を乗せないで戻っている。