あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

中佐の片影・其二十一 『 不義と見れば権勢を恐れず敢然排除する人であつた 』

2022年02月25日 19時28分26秒 | 相澤中佐の片影


相澤三郎中佐

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
相澤中佐の片影
( 二 )  中佐の片影
其二十一  △△中佐


自分は大正六年六月から臺灣の獨立守備隊に居つて
相澤さんは翌七年の十二月に赴任して來られた。
相澤さんは第七中隊附で、
當時同中隊は劍術も射撃も聯隊の最下位で大隊長中島少佐も常に之を憂ひて居られた。
適々相澤さんの着任幾許もなく大隊内の劍術競技会が行はれた。
將校にも銃劍術の仕合をやらせると言ふので、
自分等は不心得な考ではあつたがお互いい加減にやる事にしやうと申合せた。
まだ來たばかりであつたから相澤さんにはこの申合せを告げなかつた。
所が 仕合になつて見ると相澤さんはあの炯炯けいけいたる眼光で猛烈果敢、
全く眞劍勝負の勢でやつて來るので我々の申合せはすつかり壓倒され打破られて了つた。
各中隊將校皆眞劍で闘はざるを得なくなつて了つた。
結局優勝したのは第六中隊から出た自分であつたが、その眞劍さに於て、その氣力に於て、
その態度に於て 正しく相澤さんが第一等の立派さであつた。
大隊長も大いに嬉しかつたと見えて講評中に
「 我が大隊には立派な將校が來て喜ばしい 」
と感嘆し、
「 第七中隊は凡て相澤中尉を模範として勉励すべきである 」
と述べられた。

相澤さんは非常に部下を可愛がつた人で、當時もよく下士兵卒と一緒にすき焼きなどやつて居られた。

當時同聯隊に熊本幼年學校の六期生で高岸昶雄中尉が居つたが、
その結婚が許された祝と言ふので自分等五六人各々一升瓶を一本づつひつ提げて押掛けたことがある。
相澤さんは高岸中尉の燐家に居つて俺もと云ふてやつて來た。
相澤さんはかねて高岸中尉やこの時押掛けた仲間の宮田と云ふ中尉に推服して居たが、
酒酣なるに及ぶや ほら立上つて、
「 宮田さんは偉い。高岸さんは偉い。偉い人に肖るのだ 」 
と、一々汚い靴下をなめて廻つた。
全く思つた通り、考へた通り、遠慮も外聞もなく、眞直にやつてのける風があつた。

然し又實に思ひ遣りの深い人であつた。
自分の亡くなつた家内は相澤さんの奥さんの妹であるが自分が豊橋教導學校に居た時、
家内が病むや わざわざ秋田から奥さんを看病に寄こされ、
その死んだ時には實に情のこもつた電報を寄せられて自分もホロリとさせられてしまつた。
そして一家を擧げて來弔された。
昨年六月亡妻の三年忌の時もわざわざ福山から來て下さつた。

相澤さんと一緒に輪王寺に福定無外老師を訪ね、一日語り合つたことがあつたが、
師弟の情 正に親子の如しと言ふか、實に麗はしいものであつた。
永田事件の直後新聞に
「 案内もなく料理店の大広間に上り込んで大きくなつていた云々 」
と、宮島の一料亭 「 岩惣 」 に関する記事が載つて居たが、
あれは事情を知らぬ新聞記者が勝手なことを書いたので事實はかうである。
嘗て無外老師が 「 岩惣 」 の乞ひを容れて書いて送られた人筆が額に出來たからとて
「 是非一度宮島へ御出でを願ひ度い 」
と報じて來たのを、老師は
「 自分は行けぬから、代りに行って見てやつて呉れ 」
と福山の相澤さんに書いてやられたからで、昨年秋季演習の後であつたか、
若い將校二三人を連れて見に行かれた時のことである。
「 女中も誰も見えなかつたので黙つて部屋を尋ねて拝見して來ましたが、
 立派に出來て居りました 」
と、言ふ意味の手紙が老師の許に届いて居たのを見せて戴いたことがある。

大井町の日本体育会体操學校の配属將校を命ぜられた時には、
同校教務主任は予備役の歩兵大佐で
相澤さんの前任者が全く手古摺つた程の人であつたが、
相澤さんは誠意よく盡されて
遂に同大佐も当時大尉であつた相澤さんに一目も二目も置くやうになつて了つたそうである。
同校生徒は毎年夏富士裾野に野営演習に行き富士登山をするのであつたが、
相澤さんはいつも生徒の眞先に立つて長靴のまま富士山頂を極められるのが例であつた。
皆その不屈不撓の精神に感嘆して居たさうである。
体操學校配属當時は盲腸炎を患はれたが、一日出勤の前、奥さんに
「 手拭と楊子と歯磨粉を出せ 」 と言はれるので
「 どうなさるのですか 」 と尋ねた所
「 軍医學校に行つて盲腸の手術をやつてもらうのだ。一週間で歸るから來るに及ばぬ 」
と言捨てて出掛けて、果して丁度一週間で帰つて來られたさうである。
奥さんも言附けに背く譯にいかず、たうたう病院に行かずにしまはれたさうだが實に気丈な人であつた。

此の間聞いた話であるが、福山歩兵第四十一聯隊に赴任せられるとすぐ經理委員首座をやられた。
當時の聯隊長は、その卓子、椅子が古びたからとて規定を無視し、
將校集会所の金で立派な卓子椅子を造らせて聯隊長室で使用して居た。
相澤さんはこの事情を知るや、聯隊長の歸つた後商人を呼びその立派な卓子椅子を拂下げて了つて、
旧の規定の陣営具を備へさせて置いた。
翌日聯隊長が出勤して見ると様子が變つているので副官か誰かを呼びつけて、
理由を聞いて眞赤になつて怒つては見たものの、
經理委員首座たる相澤中佐が規定通り敢行したことなので如何ともしがたく、
中佐からも眞正面から難詰されてたうたう泣寝入りになつて了つたさうである。
相澤さんは不義と見れば權勢を恐れず敢然排除する人であつた。

次頁 中佐の片影・其二十二  に 続く
二 ・二六事件秘録 ( 一 )  から