和十一年という波瀾の年にあの事件は勃発した。
そして撲滅した。
世論はこれを糾弾した。
しかしどうすれば良かったのであろうか。
過去の非を論ずることは容易い。
しかし当時の事実を見極めることは難しい。
何もしないでいることが出来たであろうか。
あの時国を思う青年がどうすれば良かったのか。
誰も本当の解決をしてくれる者はいなかったのだ。
栗原中尉は新しい日本を切り開きたかった。
封建的な残滓を一掃して、
国民全体が、天皇陛下を戴く明るい安らかな生活が出来る、
自由な世の中を夢に画いていたのだ。
何よりも革新への情熱が優先していた。
林八郎もこれに触れて激発した。
私はあの時の情熱を忘れない。
そして 高橋太郎少尉が死の直前に
弟治郎氏への思いをこめて書いた遺書の一節を。
陛下の赤子たれ 真日本人たれ
兄の仇は世の罪悪なり
罪悪と戦え
兄の味方は貧しき人なり
そして あの七月十二日に我々同志の頭を貫いた銃弾の響きは
私の耳に一生焼付いて消えることはない。
もうひとつ書かねばならぬことがある。
この事件はクーデターなのか。
それともそれ以外の何物なのか。
そこが判然としないために、各種の誤解が起こってくるものと思う。
我々の首脳部の人々は、
底辺の国民の声をきくことなく、民生をそのままにして自己の勢力を確立しようとする
反維新勢力を武力を以て排除し、真の国体を顕現しようとした。
そして我々に理解を持つ軍中枢部の人々を動かし、
昭和維新を実現すべき維新内閣を組織する首相を陛下に奏請して、
その御裁下を得て維新実現の一歩を踏み出すことにあったのである。
このような考え方が、全く現状を見誤り、
時機を見誤り、その方法を誤ったことは否定すべからざるところであるが、
事件の目的はここにあったのである。
生きている二・二六
池田俊彦 著より