あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

中橋部隊

2019年05月20日 18時43分32秒 | 中橋部隊

勝つ方策はあったが、
あえてこれをなさざりしは、
國體信念にもとづくもので、
身を殺しても鞏要し奉ることは欲せざりしなり
 ・・・
勝つ方法はあったが、あえてこれをなさざりし 

宮城占拠計画は、
中橋が一部の門をできれば確保するというにすぎないもので
全面占拠計画などはなかった。
2月22日、青年将校は謀議し、
中橋の任務は
「 為し得れば宮城坂下門に於て奸臣と目する重臣の参内を阻止すること 」 とし、
24日に 「 前記坂下門に於ける重臣阻止の任務を決定 」
そして、その通り実際に警備にあたったが怪しまれて脱出した ・・・筒井清忠


清原 
私の任務はともかくも 屋上に駆け上り、機関銃座をつくり、
そして間近に見える宮城の森の中で、
小さい光による信号が現れるのを待つ事でした。
それが今お話のあった宮城占拠計画なのですね。

その信号があったら、鈴木侍従長を襲撃してからすぐ駆けつけてくるだろう安藤大尉に報告する手筈。
それで大尉達は宮城へ堂々と入って行って占拠する。
維新の成功は、その時決まるわけでしたが・・・・。

常盤  警視庁襲撃に四百名以上が割当られた意味もそこにあるわけなんですね。
磯部、栗原といった急進派が何故、強引に宮城内に入ってこれを占拠し、昭和維新を迫らなかったのかが、大変に疑問に思えるわけです。
清原  天皇に直諫を迫らなかったのか、という意味ですか。
だとすれば、そんなことは考えてもみなかった。と お答するしかありませんね。
というのは、さっきも話に出ました本庄侍従武官長の存在が大事なのです。
本庄さんが天皇に上奏して、その御内意をうけたら、それを侍従武官府を通して中橋中尉に連絡する、
中橋中尉が私に連絡して、我が歩三の大部隊が堂々と宮城に入り、昭和維新を完成する、
これが予め組んだプログラムだったんですよ。
つまり中橋さんは連絡係。
万が一の場合は守衛隊司令官を斃すことは覚悟していたでしょうが。
しかし、基本は統帥命令で動くということです。
天皇から侍従武官長へ、武官長から中橋中尉へと。
「 だから、お前、大丈夫だよ 」 と 言うのが、蹶起直前の安藤大尉の話でした。
池田  だから、吾々は川島陸相に決起趣意書を読上げ、昭和維新をやって下さいとお願いしたんです。
それをうけて陸相が陛下に奏上し、輔弼の責任を果たす、それが正道だと・・・・。
常盤  私は、そう思っとったです。
清原  安藤さんはは少なくともそう判断しておりました。
宮城占拠計画も、つまりそれをやり易くするため、雑音を入れないためのものです。
本庄さんが天皇に奏上し、許しを得て川島陸相や真崎さんをさっさと参内させる。
そうして磯部さんから何まで全部ゾロゾロと宮城内に入る予定です。
ところが、陛下に叱られて本庄さんが動けなくなった。
陸相や真崎さんは、待てど暮らせど 本庄さんから連絡がないから、自分の方からは動かない。
今の大臣の連中と同じです。総理から電話がなければ、自分からは動かない。
本当は積極的に動くべきだった。
・・・
生き残りし者 2 宮城占拠計画 「 陛下に叱られて本庄さんが動けなくなった 」 

中橋部隊
クリック して頁を読む

・ 中橋中尉 『 帷幄上奏隊 』 1 
中橋中尉 『 帷幄上奏隊 』 2
・ 中橋中尉 『 帷幄上奏隊 』 3 
中橋中尉 『 帷幄上奏隊 』 4 
・ 中橋中尉 『 ワレ皇居を占拠セリ 』 1 
中橋中尉 『 ワレ皇居を占拠セリ 』 2 
・ 今泉少尉 (1) 「 よし決心だ! 余は行動を倶にせんとす 」 
今泉少尉 (2) 「 近歩三第七中隊、赴援隊として到着、開門!」 
・ 
中橋中尉 「 警視庁の蹶起部隊から連絡がある、受信したら報告せよ 」 
・ 「 中橋中尉を捕まえてこい 」 
・ 
田中勝中尉の宮城参拝と中橋基明中尉の宮城赴援隊 

昭和十一年二月二十六日
中橋基明中尉の行動

高橋邸は現在の南青山一丁目、高橋記念公園である。
当時の青山通りには市電が走り、対面は大宮御所だった。
大宮御所には皇宮警察と近衛の守備隊が警護にあたっていた。
中橋はそれを承知で通り 軽機を二梃据えている。
びっくりしたのは先方である。
 
「 午前五時十分頃、細田警手は青山東御殿通用門に勤務中、
高橋蔵相私邸東脇道路より、将校一名・下士官二名が現れ、将校が同立番所に来て、
『 御所に向っては何もしませんから、なにとぞ騒がないで下さい 』 と 挨拶した。
細田警手は言葉の意味が解らず、行動に注意していたところ、
同将校は引き返し、道路脇で手招きして着剣武装した兵約一個小隊くらいを蔵相私邸に呼び寄せ、
内 十二、三名を能楽堂前電車通りに東面して横隊に並べ、道路を遮断し、軽機二梃を据え、
表町市電停留所にも西面して同様に兵を配置し、他は蔵相邸小扉立番中の巡査を五、六名で取り囲み、
十数名が瞬間にして邸内に突入した 」
・・皇宮警察史
その後、邸内より騒音が聞こえ、銃声が七、八発したと同書にある。
まず鮮やかな手際ではあるが、
わざわざ軽機を目立たせた意図は明白である。
異変の出来を皇宮警察を通じ、守衛隊に知らしめる為に他ならない。
もし 隠密裡にことを達するつもりなら、銃を使用せずとも討ち取れる相手であろう。
高橋蔵相は齢八十二の老人であった。実際、襲撃は完璧に近いものであった。
護衛警官 玉木秀男に軽傷を与え軟禁し、所要時間わずか二十分たらずであった。

「 午前五時十分頃大蔵大臣を斃して門前に集合、爾後突入部隊は中島少尉指揮し首相官邸に向ひ前進す。
自分は途中に停止しありし控兵を引率し宮城に至る途中、伝令を以て日直指令 近歩三の南武正大尉に、
帝都に突発事件発生したる為 非常と認め直に宮城に至る、と 通報しました 」 ・・・中橋基明供述


「 赤坂見附を過ぎ半蔵門に参りました。
其処で中橋中尉は私に 「 門を開けて貰って来い 」 と 命じましたので、
私は皇宮警手に 「 正門の控兵だから開けて呉れ 」 と 申しますと、間もなく門は開きました。
中橋中尉は蔵相邸襲撃とは全然関係ない私の小隊のみを指揮して歩調をとり 堂々とはいり、正門衛兵所に参りました。
中橋中尉は私に対し 「 お前の小隊はこれへ入れ 」 と言ひますので、
其のとおり衛兵控所に兵を入れました 」 ・・・今泉調書

「 『 明治神宮に参拝の途中、突発事件に遭遇したから緊急事態と考え、派遣隊として来た 』
と、中橋中尉が一隊を率いて到着したので、宮城内へ入れた。
司令官に報告して許可を受けるのが本当だろうが、突発事件ということで、緊急を要すると判断、
第七中隊が控兵であるのも知っていたから、何の疑いも持たずに入れた 」 ・・・半蔵門分遣隊長 小谷信太郎特務曹長
桜田豪と午砲台
宮城内に入ると中橋中尉は私に、
「 長野は手旗を持ってすぐ連絡に当れ、警視庁の屋上から蹶起部隊が連絡してくるので、受信したらすぐ報告せよ 」
と 言って別の方面に立去った。
私はすぐ警視庁のよく見える桜田門の附近に立って連絡を待った。
他の隊員は、今泉少尉と共に控所付近において待機に入った模様である。
私は一人 寒い雪の上でジッと連絡を待った。
警視庁の屋上は静かで人影は見えない。占領はどうなっているのか。
しかし いずれ兵隊が現れて手旗信号を振りはじめるものと ジッと見つめていた。
・・・「 警視庁の蹶起部隊から連絡がある、受信したら報告せよ 」


警視庁を占領した歩三の野中大尉は、清原少尉に命じて、
第三中隊の兵約四十名で軽機関銃二箇分隊、小銃二箇分隊を編成して屋上を占領させたが、
その時清原にもう一つの命令を出した。宮城よりの信号を受けよ、というのである。
清原は横に信号用の手旗を持った少数の通信兵を置いて、正面の宮城を睨んで立った。
ところが、いくら待ってもこの信号が見えない。遂に待ちぼうけだった・・・清原康平少尉

守衛隊控所前に休憩した第七中隊の下士官兵は、折から警視庁を包囲している野中部隊を濠越しに遠望した。
「 正門控所の所で中橋中尉が 『 休憩 』 と 言った。一時間以上そこで休憩した。
裏の土手に上ると警視庁を軍隊がバリケードで囲み、兵隊がウヨウヨして居た。
おかしいなあ、何かあったのだろうか、と 思った。
吾々は銃を控所の前に叉銃しておいたが、控所の中に入っても休んだ 」 ・・・伊藤健治一等兵

「 土手に上って外を見た。警視庁は着剣の兵隊に囲まれ、警官は一人も外に出られないありさまだった。
道路の要所要所には有刺鉄線のバリケードが張られ、
砂袋で陣地を作り、その上に重機関銃が据えられ、兵も据銃していた。
何故このようなことをするのだろう、敵は一体誰で、何処に居るのだろうといった疑問を持った 」 ・・・宮本上等兵
 ・
「 午前六時、守衛隊司令官門間少佐の処に到着、直に坂下門警備を願出て午前七時半頃坂下門を警備しました。
門間少佐は何等疑ふことも無く、只少し早過ぎる位に思はれたと判断しました 」 ・・・中橋調書

二月二十六日  雪

一、午前五時五十分 日直士官 大島大尉、
警備司令部より
「 安藤大尉の指揮する約五百名の部隊 重臣達を襲撃中 」 なるの報に接す、
師団は禁闕守備の完璧を期する為非常御近火服務規定に基き直に非常配備に移る。
・・・「 二月二十六日至二月二十九日、近衛師団行動詳報 」
・・・事件後、近衛師団長橋本虎之助中将名で作成した 経過報告書の第一頁に記載

「 まだ夜の明けない頃だった。
今井中尉と二人で何か話合っているとき、高橋さんの屋敷の方向から突然銃声が聞こえた。
今井中尉は、「 空包にしては硬い感じだな。大野伍長、お前行って様子を見て来い 」 と 私に云った。
兵二人を連れて着剣で駈足で銃声のした方向に行ったが、高橋邸前までは二分間ぐらいだった。
高橋邸の前は発煙筒の刺戟的な臭いだ立ち込め、臭くて近寄れなかった。
門の傍に巡査が一人立っていたが、門の左側の柱に血がついていたように思う。
ただならぬ気配に駈足で引返し、今井中尉に 「 大蔵大臣の家がおかしくあります 」 と 報告した。
すると今度は後ろの方で銃声が鳴った。
今度のも空包とは思えない 硬い銃声だった。たぶん斎藤邸ではなかっただろうか。
その前後だったと思うが、今井中尉が、ああやったなと呟いた
それを聞いて私は咄嗟に今井中尉はこの出来事を前から知っていたな、と 感じたので、
確か 「 中尉殿は、知っておられますか 」 と訊いたように覚えている。
そのとき今井さんが何と答えたかははっきりしないが、とにかく詳しいことは別として何か知っているなという感じだった。
その報告をした後が大変だった。今井中尉の命令で、私はすぐ守衛隊司令部に電話した。
中尉が 「 大野伍長、半蔵門にも掛けておくように 」 と 言ったような気がするから半蔵門にも電話したと思う。
電話の内容は 「 変な事態が起こっているから宮城の門の出入りは注意するように。
宮城に入門させるのは警戒するように 」 と 言ったと覚えている。
今井中尉も、方々に電話していたように思う 」 ・・・大野亀一伍長

「 皇宮警手の報告で高橋邸前にいるのが近衛の徽章だと知り、中橋の指揮だと推察して、
直ちに宮城守衛隊に電話連絡させ、自分でも後から電話に出て、守衛隊司令部に
『 中橋中尉が何かやったに違いないから用心されるよう 』 通報した 」 ・・・今井中尉の回想 ・・・電話の相手は司令部の特務曹長

通報が終ってから直ぐ門間司令官より電話が掛り
「 近歩三の日直指令に連絡したところ、
『 中橋中尉は 今朝早く明治神宮参拝に行くと云って兵を連れて出ている。高橋邸に関係は無い筈 』
という返事だ 」 と言う。
次いで又連絡があり、
『 中橋中尉は明治神宮参拝の途次、高橋邸に異常を認め、目下、附近を警戒中 』
の通報を受けた 」 と言う。

「 半蔵門には普段は司令が居ないが、中橋中尉が到着した時、
小谷特務曹長が何かの都合で偶々そこに居合せたのだろう。
半蔵門を開くのは門間司令官の許可をとるのが普通だが、
緊急事態だし、中橋の第七中隊が控兵と分っていたので直ぐ門を開けて入れたのだろう。
中橋は赴援隊長として半蔵門からすんなりと正門衛兵所に到着することが出来た。
その時、門間司令官と私は室内に居た。もう起床している時間だった。
中橋が 『 赴援隊到着しました 』 と 司令官に報告すると、
門間司令官は 『 ああ、よく来てくれた。ご苦労さん 』 と その労をねぎらった。
赴援隊が入ってくるなど滅多に無い経験だった。
私達は中橋に感謝の気持を持ったように記憶している 」 ・・・正門儀仗衛兵司令・中溝猛大尉

「 それから守衛隊司令官門間少佐に到着の事を報告しますと、
少佐は 『 お前は中溝大尉と共に坂下門に行け 』
と 言はれましたので馳せ付け、附近の状況を視察しました。
守衛隊司令官門間少佐に初めて出会った時当然今迄の事件を報告すべきでありましたが、
当時私は気を呑まれまして ドキドキし 前後をよく覚へない様な情況でありましたので、
其の重大事件を報告する事を忘れて居りました。
之れ 私の平素の精神修養の足らない所でありました深く申訳がありませんが、
然し別に悪気があって報告しなかったのでは絶対ありません 」 ・・・今泉調書

「 私と斎藤一郎特務曹長以下約七十五名で坂下門の配備に着くことになった。
坂下門の配備は近衛師団の非常配備の中でも極秘中の極秘で、もちろん私にとっても初めて見るものだった。
規準通りに機関銃を備えつけたりするのを眺めて、ははあ、なるほどな、と 思ったものだ。
普段 皇宮警手がいる部署を、軍隊の物々しい非常配備に変えたわけだ。
そういえば 下士官が重臣の顔写真を持って来ていた。
すごいのが部下に入っていたのに知らぬは小隊長ばかりだったわけだ。
自分の外套には三銭切手がどこかに付いていたが、いつの間にそれを付けたのか記憶に無い。
こうして控兵が坂下門の非常配備に着いたというのは、中橋がその第一目標を成功させたということになる。
中橋のその後の態度が曖昧だったのは、坂下門警備成功の安堵感もあったのではないか 」 ・・・今泉少尉

先に守衛隊司令部には中橋中尉が単独で入り、今泉少尉以下の兵は待機していた。
中橋が一人で行ったのは赴援隊の指揮者として門間司令官に到着を報告に行ったのであって、
今泉は なにぶんの後命があるまで、控所 ( 司令部と同一建物内 ) の儀仗衛兵副司令室に同期の大高少尉を私的に訪ねたようである。
司令部には、司令官室、司令室、副司令室と各個室が奥から手前入口に向って並んでいる。
中橋中尉は司令官室に入って到着の報告をする。今泉少尉は副司令室に入って大高少尉と会う。
「 控所に飛込んで来た今泉は 『 とんでもないことをしてしまった 』 と 言って男泣きに泣いたものだ。
何をしてしまったのか、それだけは分らなかったが、私は 『 やってしまったことは仕方がないではないか 』
と 言って慰めたように憶えている 」 ・・・大高少尉・47期

だから、大高の部屋には彼だけしかいなかった。
それで今泉が同期生の親しさで 「 とんでもないことをしてしまった 」 と大高に半分告白的なことを云って泣いたのであろう。
今泉少尉は、記憶がまるで無いと言う。
一方、司令官室には門間司令官の他に中溝司令も居て中橋の赴援隊到着報告を聞いた。
すぐさま緊急手配にかかることになり、中溝司令はその連絡のため直に司令室から外に出たと思われる。
「 私達はさっそく横の連絡が必要となる。赴援隊が来たからには皇宮警察との配備上の打合せがあり、
緊急配備につかねばならぬ。そのため電話連絡、伝令、巡察による連絡とテンヤワンヤの状況になる。
中橋の到着後、私が何をしていたか記憶にないが、おそらく儀仗衛兵司令として皇宮警察との連絡や緊急配備の指揮をとりに、
衛兵司令部を出たり入ったりしたにちがいない。
巡察もしたかもしれないし、坂下門にも行ったように思う。
何だかひどく忙しかったように思っている 」 ・・・中溝大尉
門間司令官はどうしていたかというと、彼は奥の司令官室に居て、電話で各控所に命令連絡をしたり、
各方面から俄かに掛かって来る電話を受けるなど当面のことに忙殺されていたと思われる。
ところが、中溝大尉と門間少佐は、この時点の行動から、後に一部の誤解を受けることになった。
大高少尉も巡察や連絡に出た。
それは今泉少尉が副司令室を立去った直後で、中溝大尉に命令されたのかもしれない。
「 私は非常手配をする為に司令部を出た。
例えば一人の立哨は二人にしたり、普段の立哨しない場所に衛兵を置いたり処置しなければならなかった。
これでいいかと考えているうちに呉竹寮 ( 照宮居住 ) に配置することを忘れていたと思い出した。
呉竹寮は普段は兵を置いていないが非常事態だから省くわけにはゆかず、
兵が来る迄一時間ほど私がそこに立哨していた。
それから二重橋に兵を配置した。
一箇分隊を宛てることにしたが、二重橋前に出したものか、二重橋裏にしたものか考えたが、二重橋裏に配置した。
こういうことで一時間か一時間半を要した 」 ・・・大高少尉

中橋の到着が六時頃として、
それから十分ぐらいして中溝司令の命で大高がこのような処置をして回るのに

一時間を要したとすれば七時過ぎまでかかり、一時間半とすれば八時近くまでかかったことになる。
大高の留守に、門間司令官は、中橋中尉の希望通り待機していた第七中隊の赴援隊を坂下門の警備に命じた。
これは赴援隊が宮城に入ったときの規則であった。
そこに中橋の狙いがあったのである。
こうして第七中隊の兵は配備に就いていて待機場所からは散っていた。
そのころ守衛隊司令部に掛かって来る外からの電話は事態の輪郭と重大性を刻々と伝えた。
午前七時から八時迄の間といえば、よほど襲撃の模様がはっきりとして来る。
だが、情報では高橋邸を襲撃したのが中橋とはまだ明確に分っていなかった。
高橋蔵相邸襲撃隊は中島莞爾少尉に引率されて首相官邸に引き揚げているので、
当局がこれに眼を奪われたということもあろう。
外線電話は門間司令官と副司令片岡栄特務曹長とが受けていたと思われる。
特務曹長の正門副司令は司令部の事務も担当する。
その下には大隊本部から派遣された書記の曹長又は軍曹が居る。
この時になって門間少佐には、おそらく中橋に対する不安が生じたと思う。
即ち 中橋が革新将校と交際している要注意人物であること、彼が予想外に早く兵を連れて宮城に到着したこと、
等である。
いまにして門間には危惧が生じて来た。
目下坂下門附近で、自分の指揮下に入って第七中隊を指揮している中橋に不安を感じた門間は、
片岡特務曹長に云いつけて中橋を呼び戻しにやらせた。
この時は大高少尉も巡察にでて司令部に居らず、中溝大尉も恐らく連絡に出て、居なかったであろう。
片岡特務曹長は、中橋を求めて坂下門の方に行こうとした。
ところが、中橋は午砲台附近の石垣の土手の上に一人で立っていた
その時の中橋は両手に信号手旗を持って直ぐ真向いの警視庁の方に向かい、
何やら信号めいたものを送ろうとしていた。
特務曹長は中橋の後ろから組みついて両手を押さえこんだ。羽交締めの恰好である。
中橋の挙動の意味は分からないが、警視庁を取り巻いている部隊に何か合図をしていると思って、
とにかく危険と考えて押し止めたのであろう。彼は中橋を引き摺るようにして土手から下ろした。
「 当日早朝、宿直副官の大尉から大久保にいる副官の加納栄造少佐を側車で迎えに行く様に云われ、
同少佐を側車に乗せて大久保の自宅から近衛師団司令部に一旦運び、再び側車で守衛隊司令部に運んだ。
夜が明けて間もない頃だったと思う。少佐の任務はよく分からないが守衛隊の視察だったのではなかろうか。
乾門から入って車寄せを過ぎ、鉄橋 ( 二重橋の奥側の橋 ) の手前で、側車が動かなくなり歩いて行ったが、
その時正面の午砲台にある土手の上で揉み合っている二人の影を見た。
そこからは誰だかよく見えなかったが、一人が手旗で何か信号を送ろうとしているのを、
一人が羽交締めにして抱き止めていた。
近づくと手旗で信号を送ろうとしていたのは中橋中尉で、抱き止めているのは自分と同郷の片岡栄特務曹長と分った。
私達がその傍に行く前に、二人とも土手を下りて守衛隊司令部の中に入って行った 」 ・・・近衛師団司令部付・山崎勇軍曹

守衛隊司令部に連れ戻された中橋はどうしたか。
門間司令官はちょうど巡察から帰った大高少尉に命じて中橋を再び外に出さない様に監視を命じたと思われる。
中橋中尉を入れたのは大高少尉の衛兵副司令の部屋であった。
隣の司令室はおそらく中溝大尉が連絡の為外に出ていて居なかったと思われる。
又 その次の司令官室には門間少佐が居たかもしれないが、
電話による連絡に忙しくて大高の部屋を覗きに来る間がなかったのかも知れぬ。
何れにしても、大高少尉はその個室で単独に中橋と向かい合わなければならなかった。

「 中橋中尉が入って来た時は、門間司令官も中溝司令も居なかった。
居れば私は上官の指示に従えばよいから中橋と直に対決することはない。
中橋は眼を血走らせ、ただならぬ様子だった。
私は三日前に、
「 歩一の林八郎少尉から木島に 『 実力では妨害してもいいが、筆ではやってくれるな 』
という 木島少尉 ( 近歩三・同期 ) の妙な電話を思い出し、

又先程の今泉少尉の口走ったこと、それにひっきりなしに鳴る十本ほどの電話の音で、
中橋中尉が大変なことをやり出したに違いないと覚った。覚ったというよりも推察した。
つまり、中橋中尉は宮城を占領しようとしているに違いないと思ったのだ。
中橋の日頃からの言動と、眼前の異様な態度から、かく判断した 」  ・・・大高少尉
中橋の宮城占領企図・・・大高はそう直感したのである。
「 中橋中尉は現在も同じ聯隊の上官である上に、嘗ての上官でもあった。
その中橋中尉が控兵中隊を率いて赴援隊として宮城に入ったからには、
私としてはその指揮下に入らなければならない。
だが、中橋の云う通りに従っていたら、それこそ大変なことになる。
そうはさせるものかと私は心を奮い立たせた。
上官の命に背くことになっても已むを得ない。自分の判断で行動するのが一番正しいと思った 」
 「 私は、隣の控所に居た兵五、六名を着剣させて連れて来ると、中橋中尉を囲ませた。
これには中橋中尉は意外だったらしいが、
私を睨み付け、どうしてこんなことをするのだ、と 怒気を含んだ声で私を詰問した。
私は、中橋が私のとった処置にだけ怒っていると分ったので、兵に銃から剣をはずさせて控所に引揚げさせた。
然し、もし、あの時中橋の反応や出方次第では、兵に、突け、と 命令するつもりだった。
兵は中橋を刺殺したかもしれない。 兵が部屋に居なくなった後は、中橋中尉と私だけとなった 」
「 中橋中尉と向かい合って、私はなんとなく拳銃を取出した。
中橋は 『 俺も持っているんだ 』 と 拳銃を出した。
私のは中型のモーゼルで、中橋のは大型のブローニングだった。
そのブローニングからプーンと硝煙の臭いがしてきた。発射して間もないことが分った。
何かをやったことは間違いない。私は愈々中橋に疑惑を深めた。
中橋は拳銃を出しただけで私を狙うようなことはしなかった。
私はなにか起りそうなら中橋を射つ構えだった。
中橋をその場で射殺しようとと考えたが、宮城内という意識から決心がつかなかった。
が、もし 中橋が不穏な挙動に出たら、発射するつもりだった。
然し、中橋の指はその前に私に向って引鉄を引いていたかも知れぬ。
そのような睨み合いの状態が暫く続いた。長い時間に思われた 」 ・・・大高少尉

二十六日午前八時半 中橋中尉の位置

「 その時私は何処に居たか はっきりしないが、
確かに大高少尉から、中橋が見えません、と 報告を受けた。
中橋は、便所に行きたい
、と言って出たらしい。
大高が追かけて 『 困ります 』 と 言うと、
中橋は 『 いや、外で門間少佐に断るから 』
と言い捨てて、スタスタと二重橋の方に歩いて行ったらしい。
大高の報告があったので、すぐ歩哨に問合わせると、今、そこを出て行きました、と言う。
歩哨迄は手を打ってなかった 」 ・・・中溝猛大尉

「 中橋中尉が 二重橋を出て行った時に雪がまた降って来た。
追って行った私は中橋を射つ好機だったと思ったが、遂に射たなかった。
退出する中橋中尉は勤務を放棄したのであるから、
そんな者にかかずらうより宮城警護の任務のが大切だと考えた 」 ・・・大高少尉

中橋中尉が
二重橋を渡って宮城を脱出したのは
午前八時半頃である。

「 午前八時半迄は守衛隊司令部に居りました。
内外の情況が全く不明なるを以て、連絡の目的にて単身宮城を出て陸相官邸に行きました 」 ・・・中橋調書

・ 
中橋中尉 ・ 幸楽での演説 「 明朝決戦 やむなし ! 」