私は当時 第三内務班 ( 班長 山崎称三軍曹 ) に所属する二年兵で特技は通信であった。
二月二十六日午前四時頃、非常呼集がかかったので急に軍装を整えて整列した。
すると矢継早やに編成が下達され私は第二小隊となった。
この時の編成は 概ね
第一、第二 及び LG班が第一小隊、第三、第四班が第二小隊に編成されたように記憶している。
この時 中隊長中橋基明中尉は私に対し、
「 長野は通信だから俺と行動を共にせい 」
と 言った。
そのため第二小隊ではあったが指揮班の一員として中尉の側で行動することになった。
やがて三〇分後に出発したが 目的も行き先も云われず 我々は命令のままに動き出したのである。
中橋中尉という人は、着任後、日も浅かったためか兵隊との会話は殆んどなく、
命令、指示以外はあまり口を利かぬ、所謂 軍人タイプの性格だったようだ。
だから親しみが薄く何か冷たい感じがもたれた。
従って今回の非常呼集でも 何の訓示もせず、編成を終った頃合を見て、いきなり、
「 気ヲツケーッ、右向ケー右、前ニー進メッ 」
の 号令をかけたのであろう。
営門を出ると右に折れ 間もなく停止した。
そこはシャム公使館の近くで暗い場所だった。
すると第一小隊だけに実弾が配られ、その場で、 ” 弾込メ ” が 行われた。
次いで、中橋中尉は第二小隊長今泉少尉に命令を下した。
「 第二小隊は別命あるまで現在地で待機すべし 」
こうして 第一小隊は中橋中尉の指揮で前進し、大蔵大臣私邸の正門前に至った。
出動の目的は実は高橋蔵相の襲撃であった。
中尉は早速 軽機分隊を正門の両側に配置し、私もその付近で待機、
中尉は少人数を指揮して邸内に突入した。
すると 五分ぐらいで全員が出てきた。
成功だという。
中尉は小隊を集結させると直ちに第二小隊の待機する場所に戻ってきた。
「 出発 !!」
中橋中尉は第二小隊を引きつれて今度は宮城に向った。
ここで第一小隊は別行動となり、後日の話では首相官邸に行き歩一の栗原中隊と合流したそうである。
宮城に向った第二小隊は今泉少尉以下 約七〇名で、二列縦隊で行進した。
六時頃半蔵門に到着、直ちに宮城に入った。
これは近衛の将校の指揮する部隊であればいつでも通行できるように定められていたからである。
宮城内に入ると中橋中尉は私に、
「 長野は手旗を持ってすぐ連絡に当れ、
警視庁の屋上から蹶起部隊が連絡してくるので、受信したらすぐ報告せよ 」
と 言って別の方面に立去った。
私はすぐ警視庁のよく見える桜田門の附近に立って連絡を待った。
他の隊員は、今泉少尉と共に控所付近において待機に入った模様である。
私は一人 寒い雪の上でジッと連絡を待った。
警視庁の屋上は静かで人影は見えない。
占領はどうなっているのか、
しかし いずれ兵隊が現れて手旗信号を振りはじめるものと ジッと見つめていた。
一時間--二時間そして 三時間たったが遂に兵隊の姿が見えず、連絡はどこからも来なかった。
あまり時間が長引くので、私はその旨を報告しようと控所に戻ったところ、中橋中尉の姿はなかった。
今泉少尉も不在である。
戦友に聞いたが判らないという。
私はいずれ二人は戻ってくるだろうとしばらく待機することにした。
戦友たちの間では何やら真剣な顔で話合いが行われていたので、首を突っ込んでみると、
今都内で大事件が展開中だという情報である。
各所で重臣が襲撃され血祭りにあげられたという由々しき話に唯々驚くばかりであった。
昼頃 任務が終ったといわれ、斎藤特務曹長の指揮で隊列を整えて聯隊に引き上げた。
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兵舎に入ってくつろいでいると、夕方六時頃呼集がかかり、再び軍装して舎前に整列した。
編成が組まれると一人宛六〇発の実弾が配られた。
今度は鎮圧軍として出動することになったのである。
これは聯隊に対し出動命令が下ったためである。
我々が警備に就いた処は 四谷附近で近くに他の部隊もきていた。
夜はホテルのような所に泊り 交代で警備についたが、この間、少しずつ警備地区が変わったように記憶している。
警備中は特別変ったこともなく、二十九日になって状況が平穏になるのを待って昼頃帰隊した。
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事件が終り 一週間くらい経った後、私は憲兵隊に二、三度呼び出されて取調を受けた。
その内容というのが、私が宮城内で担当した連絡任務で時間、位置など克明に聞かれたので
私は正直に連絡のなかったことを説明したところ、ようやく放免された。
思うに警視庁屋上からの連絡は、重大な意味がかかっていたようである。
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以後中隊は平常の日課にもどり、戒厳司令部などの衛兵勤務にも服した後、
六月一日 帰休除隊となり、次いで十一月頃 二週間にわたる秋季演習参加し 晴れて満期除隊となった。
昭和十五年六月応召、
以後中支--仏印を経て開戦と同時にマレー作戦に参加、
シンガポール陥落後は北スマトラに移駐、一時ビルマにも行ったりしてコタラジヤで終戦を迎えた。
当時の所属は宮部隊であり 階級は軍曹であった。
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私は曾ての二・二六事件を想起するたびに、
当時国政をあずかっていた者は 一体何をしていたのかといいたくなる。
極言すれば怠慢の一語に尽きたのだと思う。
又、軍部は軍閥を作って国民の苦しみをよそに大陸進攻を目論んでいた。
このような憂うべき事態から 速かに本来の姿に戻すべく蹶起した青年将校の精神は、
昭和維新以外の何物でもなく立派であったと思う。
二・二六事件と郷土兵
近衛歩兵第三聯隊第七中隊 一等兵・長野峯吉 「 警視庁からの連絡なし 」 から