近衛歩兵第三聯隊第七中隊
今泉義道少尉
宮城赴援隊小隊長
「 よし決心だ!余は行動を倶にせんとす」
抽出しから通信紙を取出し、色鉛筆の靑を使って大きく 「 遺書 」 を書く。
『 時期尚早なりと雖も、事既に茲に至る。
已むなし、私は部下のために死地に赴きます。
不孝の罪をお許し下さい。
ご両親様 』
書き終えて静かに机上に置いた。
それから私はすぐ御守衛の軍装を整えた。
今日は特に軍刀と拳銃を携帯して中隊の舎前に出た。
暗闇の中には既に兵隊達が整列していた。
中橋中隊長代理は薄暗い中隊入口の門燈を背に、軍刀を抜き厳然として命令をくだした。
「 中隊は只今より、明治神宮方向に前進する。
第一小隊、小隊長斎藤特務曹長、第二小隊、小隊長今泉少尉、
第二小隊はシャム公使館前にて停止し、暫らく待機せよ 」
こうして中隊は〇四・三〇出発、
私の率いる第二小隊はシャム公使館前まで行き
折敷の姿勢で待機に入った。
間もなく高橋邸の方向から鈍い拳銃音が数回きこえた。
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やがて中橋中尉と斎藤特務曹長が駈足で戻ってきた。
夜の帳は次第に明けてあかるくなってきたが、鉛色の空からは非常の粉雪がチラチラと降り出した。
中橋中尉は私たちに命令した。
「 帝都に非常事態が発生した。
当小隊は宮城守衛隊赴援隊として、只今より宮城に向い、守衛隊司令官の指揮下に入る 」
第二小隊はすぐ出発した。
赤坂見附より麹町通りに出て半蔵門にさしかかると中隊長は私をふりむいて開扉させるよう指示した。
私は走っていって門の手前で大声で叫んだ。
「 近歩三、第七中隊、赴援隊として到着、開門!」
大きな扉が ギーッと軋んで左右にさっと開いた。
歩調をとり 堂々と半蔵門から宮城に入る。
中橋中尉は駈足で守衛隊司令部に先行。
小隊が正門衛兵所につくと、門間 (少佐) 司令官、大高 (少尉) 副司令などの顔が見えた。
中橋中尉は別命あるまで屋外で待機するように指示し、司令部に入ってしまった。
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暫らくすると赴援隊は、宮城警備配備に基づき、坂下門の警備に就くこととなり、
私は小隊を率い坂下門に急行した。
下士官の連中がイキバキと兵隊を区署し歩哨線を張り、門の両側の土手上に二梃の機関銃を配置した。
わたしも以前、宮城の非情警備配備について演習したことがあったが、
下士官の的確な処置には感心した。
雪は粉々として舞い下り、その頃になると既に二十糎以上積っていた。
風はない。
腕時計を見ると早十時を指していた。
聯隊から第六中隊長田中軍吉大尉がサイドカーに乗って到着。
守備部隊の直属上官ではないが、同じ大隊の隣の中隊長である。
「 警戒中異状ありません。
宮内省職員の入門は許可しております。
先刻、杉浦奎吾参内につき、通過させました 」
「 御苦労さん、ついにやったなあ、
詳しい事情はあとで聴くとして、
赴援隊は近衛二の部隊が到着次第交替して聯隊に帰還しろ、門間司令官からの命令だ、
今泉少尉は近衛師団司令部に出頭し、参謀長に今暁の状況を報告の上帰隊し、
園山聯隊長に状況を説明するように。
すぐ出発する、サイドカーの後部座席に乗れ 」
私はあとの指揮を斎藤特務曹長に委せて田中大尉のサイドカーに跨った。
雪が深くスリップしてなかなか疾走できない。
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午前十一時、近衛師団司令部参謀室に入る。
数名の参謀を従えた参謀長の前に立つ。
「 近歩三、今泉少尉、報告 !
今暁 四時二十分、第七中隊長代理中橋基明中尉は非常呼集をもって兵営を出発、
半数をもって高橋蔵相を襲撃、襲撃後赴援隊を率い、正門衛兵所に至り、
守衛司令官の命により坂下門の非常警戒に当っております 」
「 中橋中尉は今、何処にいるか ? 」
「 存じません 」
「 貴公は高橋蔵相を殺ったのか 」
「 やりません 」
「 赴援隊は今、何処にいるか 」
「 坂下門の警備を交替して、目下帰隊中と思います 」
卓上電話のけたたましい響き、参謀長の上ずった声、
騒然として人影の右往左往する司令部。
正午、既に三十糎も積ったであろう雪の中を、
田中大尉と私は師団司令部の自動車で聯隊に帰還した。
聯隊長室に入ると軍旗の傍らに憮然として園山聯隊長が立っていた。
「 聯隊長殿 ! 第七中隊は・・・・」
私は慈父に縋るような思いで報告した。
その時聯隊副官があわただしく入ってきて聯隊長に報告した。
「 第七中隊宮城赴援隊、斎藤特務曹長以下七十五名、只今帰営致しました 」
私はそれを聞いた途端張りつめた気持が急に緩んで思わず声をあげて泣いた。
申告をすませた私はそのまま聯隊長室に監禁された。
この部屋には軍旗があり歩哨が立っているのでその監視下に置かれた。
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聯隊は二十八日深夜鎮圧軍として出勤し番町小学校付近に展開、
かくして事件は緊迫のうち二十九日を迎え、
奉勅命令によって蹶起部隊は逐次原隊復帰をはじめたので鎮圧軍も囲みを解き
四日間にわたる事件は終了した。
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翌三月一日 憲兵大尉がきて私は出勤下の行動をきかれた。
二日には深川憲兵隊につれてゆかれ、
三日には陸軍刑務所に収監された。
身分は将校のままであった。
入所すると型どおりの予審がはじまり、やがて七月五日判決が下り
私は禁錮四年の実刑がいい渡された。
この特別軍法会議は一審制で控訴なしとゆう方式なので、
不服であっても判決に服する意外になかった、
そして私は同日付をもって免官となったのである。
身柄は直ちに豊多摩刑務所に移され刑に服したが、
十三年十一月二十三日仮出所の恩典に浴した。
この時 歩三の柳下良二氏も一緒である。
仮出所にあたり所長は明後日陸軍省に出向せよと云った。
そこで当日出頭すると係員は 「 蒙彊に行け 」 といった。
私は即座に断った。
今更軍のお世話などなりたくない。
軍法会議にかけて処刑し、免官しておきながら再び陸軍の恩を着せようとは人を食った仕草である。
私は今回の事件で陸軍に愛想をつかしているのである。
就職など自分で探してみせる。
今更陸軍などにお願いするものか、入所以来陸軍に不審を抱き、
憎しみを持つに至った私は これから少しでも軍から離れた立場に移りたかったのである。
こうして二カ月後上海に渡り船会社に就職した。
・
思えば 二・二六事件は日本にとって悲しむべき大事件であった。
当時 二・二六事件のおこる以前にも諸々の事件が続発し 日本の危機が高まっていて、
何とかしなければ・・・・という機運もかなり沸騰していた。
だから考え方によっては二・二六事件は起るべくして起ったともいえるかもしれぬ。
主謀者となって指揮した青年将校たちは常に国情に激憤し
政治への堕落を怒り 遂には事件を引おこすに至ったが、
憂国の至情だけではどうにもならなかったことを思い知らされたのである。
いうならば 機関説天皇と統帥権天皇との対立であって、
いずれを是とし、
いずれを非とするかは
時の指導者がとりしきるものであったからである。
二・二六事件と郷土兵 から