あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

本庄日記

2017年02月28日 17時13分09秒 | 本庄日記


本庄繁
侍從武官長


本庄日記
帝都大不祥事件

昭和11年2月26日 号外

目次
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第一

騒亂の四日間 

第一日 ( 二月二十六日 )
午前八時前後ヨリ正午ニ亘リ、
伏見宮殿下ヲ始トシ、各軍事參議官、各大臣、各樞密顧問官等逐次參内アリ。
午前九時頃川島陸相參内、
何等意見ヲ加フルコトナク、單ニ情況

( 靑年將校 蹶起趣意書 ヲ附ケ加ヘ朗讀申上ゲタリ ) ヲ申述ベ、
斯ル事件ヲ出來シ、誠ニ恐懼ニ堪ヘザル旨ヲ奏上ス。
之ニ對シ、陛下ハ
速ニ事件ヲ鎭定スベク 御沙汰アラセラル

第二日 ( 二月二十七日 )
此日拝謁ノ折リ、
彼等行動部隊ノ將校ノ行爲ハ、
陛下ノ軍隊ヲ、勝手ニ動カセシモノニシテ、

統帥權ヲ犯スノ甚ダシキモノニシて、固ヨリ、許スベカラザルモノナルモ、
其精神ニ至リテハ、君國ヲ思フニ出デタルモノニシテ、
必ズシモ咎ムベキニアラズ
ト 
申述ブル所アリシニ
後チ御召アリ、
朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、
此ノ如キ兇暴ノ將校等、其精神ニ於テモ何ノ恕
ゆるスベキモノアリヤ
ト仰セラレ、
又或時ハ、
朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ、
眞綿ニテ、朕ガ首ヲ絞ムルニ等シキ行爲ナリ、
ト漏ラサル。
之ニ對シ
老臣殺傷ハ、固ヨリ最惡ノ事ニシテ、
事仮令誤解ノ動機ニ出ヅルトスルモ、
彼等將校トシテハ、
斯クスルコトガ、國家ノ爲メナリトノ考ニ發スル次第ナリ
ト 重ネテ申上ゲシニ、
夫ハ只ダ私利私欲ノ爲ニセントスルモノニアラズト云ヒ得ルノミ
ト 仰セラレタリ。
尚又、此日
陛下ニハ、
陸軍當路ノ行動部隊ニ對スル鎭壓ノ手段實施ノ進捗セザルニ焦慮アラセラレ、
武官長ニ對シ、
朕自ラ近衛師団ヲ率ヒ、此ガ鎭定ニ當ラン
ト仰セラレ、
眞ニ恐懼ニ耐エザルモノアリ。
決シテ左様ノ御軫念ごしんねんニ及バザルモノナルコトヲ、呉々モ申上ゲタリ。
けだシ、
戒嚴司令官等ガ愼重ニ過ギ、殊更ニ躊躇セルモノナルヤ
ノ如クニ、 御考ヘ遊バサレタルモノト拝サレタリ。
此日、杉山參謀次長、香椎戒嚴司令官等ハ、両三度參内拝謁上奏スル所アリシガ、
陛下ニハ、
尚ホ、二十六日ノ如ク、數十分毎ニ武官長ヲ召サレ
行動部隊鎭定ニ附 御督促アラセラル

第三日 ( 二月二十八日 )
此日午後一時、
川島陸相及山下奉文少將、武官府ニ來リ、
行動將校一同ハ 大臣官邸ニアリテ自刃  罪ヲ謝シ、
下士官以下ハ原隊ニ復歸セシム、就テハ、勅使ヲ賜ハリ死出ノ光榮ヲ与ヘラレタシ、
此以外解決ノ手段ナシ、
又 第一師團長モ部下ノ兵ヲ以テ、部下ノ兵ヲ討ツニ耐エズト爲セル旨語ル。
繫ハ、斯ルコトハ恐ラク不可能ナルベシトシテ、躊躇セシモ折角ノ申出ニ附、
一應傳奏スベシトテ、
御政務室ニテ右、
陛下ニ傳奏セシ処、
陛下ニハ、
非情ナル御不満ニテ、
自殺スルナラバ 勝手ニ爲スベク、此ノ如キモノニ勅使抔、以テノ外ナリ
ト 仰セラレ、又、
師團長ガ積極的ニ出ヅル能ハズトスルハ、自ラノ責任ヲ解セザルモノナリ
、未ダ嘗テ拝セザル御気色ニテ、嚴責アラセラレ、
直チニ鎭定スベク嚴達セヨト  嚴命ヲ蒙ル

第四日 ( 二月二十九日 )
又此日、午前九時ノ戒嚴司令部發表ニ拠レバ、
「 永田町附近ニ占據セル、矯激ナル一部靑年將校ハ、奉勅命令ノ下リシニモ拘ラズ、
夫レニ服從セズ、遂ニ叛徒トナリ終ツタ 」
ト アリ。
即チ、叛徒ナル名ハ、右戒嚴司令部發表ヲ正シキモノトスレバ、此奉勅命令降下後ニ於テ、
始メテ附セラルベキモノト想ハル。
陸軍當局ハ、此等發表ハ、鎭定ノ爲メノ、一ノ謀略ナリト解シアルガ如シ。

第二
三月一日以後事件前後に関する諸件
其一 御宸襟を悩ませし諸相の一端 
其二 軍法會議の構成 
其三 新内閣の成立と其經緯 

其五 上層首脳部の責任と之に對する人事処理 
其六 新教育總監の教育方針に就て
其七 事件關係將兵を出せし聯隊の存廢問題

其八 陸相への御言葉 


至秘鈔
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1
満洲事變發生の頃 「 陛下と秩父宮、天皇親政の是非を論す 」 
或日、
秩父宮殿下參内 陛下に御對談遊ばされ、
切りに 陛下の御親政の必要を説かれ、
要すれば憲法の停止も亦止むを得ずと激せられ、
陛下との間に相當の激論あらせられし趣なるが、 後にて 陛下は、 侍從長に、
祖宗の威徳を傷つくるが如きことは自分の到底同意し得ざる処、
親政と云ふも自分は憲法の命ずる処に拠り、現に大綱を把持して大政を總攬せり
之れ以上何を爲すべき
又 憲法の停止の如きは明治大帝の創成せられたる処のものを破壊するものにして、
斷じて不可なりと信ずる
と 漏らされたりと

2  
昭和九年二月八日 「 農民亦自ら樂天地あり 」 
農民の窮状に同情するは固より、必要事なるも、
而も 農民亦自ら樂天地あり、
貴族の地位にあるもの必ずしも常に幸福なりと云ふを得ず、
自分の如き欧州を巡りて、自由の氣分に移りたるならんも心境の愉快は、
又 其自由の氣分に成り得る間にあり
先帝の事を申すは如何かなれども、其皇太子時代は、極めて快活に元氣にあらせられ、
伯母様の処へも極めて身輕るに行啓あらせられしに、
天皇即位後は、萬事御窮屈にあらせられ、元來御弱き御体質なりし爲め、
遂に御病気と爲らせられたる、誠に、畏れ多きことなり
左様な次第故、農民も其の自然を樂しむ方面をも考へ、
不快な方面のみを云々すべきにあらず、
要するに農民指導には、法理一片に拠らす、道義的に努むべきなり
と 仰せられたり

3  昭和十年三月二十九日 「 自分の如きも北朝の血を引けるもの 」 
4  昭和十年四月九日 「 眞崎教育總監の機關説訓示は朕の同意を得たとの意味なりや 」 
5  昭和十年四月十九日 「 朕が聽糺さんとせしことを陸軍は妨げんとす 」 
6  昭和十年七月十六日 「 眞崎大將が總監の位置に在りては統制が困難なる 」 
7  昭和十年七月二十日 「 教育總監更迭・・ 在職中御苦労であった 」 
8  昭和十年八月十二日 「 相澤事件・・陸軍に如此珍事ありしは 誠に遺憾なり」 

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昭和 ・ 私の記憶 『 二・二六事件 』 
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