あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

天皇と靑年將校のあいだ 5 天皇制の二重構造を見破った北一輝

2017年02月05日 19時27分03秒 | 天皇と青年将校のあいだ


天皇と靑年將校のあいだ (5)

「 天皇は二重の性格をもっていた 」
として、竹山道雄氏は次のように整理している。
第一は、
正統・財閥・官僚・軍閥の頂点にあって機関説によって運営される、
謂わば イギリスの王のようなものであった。
第二は、
御親政によって民と直結し、平等な民族共同体の首長であるべきであり、
国難を克服する、国家の一元的意志の体現者で、一部軍人はこの性格の天皇を奉じた。
竹山氏は
前者を 「 機関説的天皇制 」 と名づけ、
後者を 「統帥権的天皇制 」と呼んでいるが、
この呼称をあてはめれば、
二・二六事件は、
統帥的天皇制が機関説的天皇制に向って叛乱した事件ということになる。
こういう天皇の性格は、昭和の裕仁天皇が作りだしたものではない。
亦 青年将校が捏造したものでもない。
基本的には、明治憲法に基づく立憲君主制そのものに内在する性格であった。

この二重性の構造を独特の史眼で見破っていたのが、北一輝であった。
嘗て 明治憲法の草案を作成し、
日本最初の首相を務めた伊藤博文は、
この二重性恪を巧みに操作することにより 明治国家を運営することができた。
その際、天皇は、
国民全体に向かってこそ絶対的権威、絶対的主体として現れているが、
天皇の側近や周囲の輔弼機関からみれば、
天皇の権威はむしろ名目的なものに過ぎず、
天皇の実質的権力は
各機関の担当者がほとんど全面的に分割し代行するシステムであった。
そしてこの二様の解釈の微妙な運営的調和の上に、
伊藤の造った明治国家が成立っていたのである。
こういう二重の構造を、
久野収氏は 「 顕教 」 「 密教 」 という用語でこう説明している
顕教とは、
天皇を無限の権威と権力をもつ絶対君主とみる解釈システム、
密教とは、
天皇の権威と権力を憲法その他によって限界づけられた制限君主とみる解釈システム
である。
はっきり謂えば、
国民全体には、天皇を絶対君主として信望させ、
この国民のエネルギーを国政に動員した上で、
国政を運営する秘訣としては、立憲君主説、
即ち 天皇国家最高機関説を採用する
という仕方である。 ( 『 現代日本の思想 』 )

ところで、この二重性が衝突することなく回転し得たのは、
伊藤の運営上の手腕であったと同時に、
明治天皇に国民統合の求心力があったからでもある。
だが、この国家運営は、やがて伊藤博文が死に遭い、
明治天皇が崩御するとともに、矛盾と弱点を次第に露呈し始める。
北一輝は已に、
最初の著作 『 国体論及び純正社会主義 』 で、果敢にその欺瞞性をあばいた。
久野氏流に謂うなら、
北一輝は
「 伊藤の造った憲法を読み抜き、読み破ることによって、
伊藤の憲法、即ち 天皇の国民、天皇の日本から、
逆に、国民の天皇、国民の日本という結論を引出し、
この結論を新しい結合の原理にしようとする思想家 」
だったのである。
最初の著作から ほぼ二〇年後に、
北は 『 日本改造方案大綱 』 を書く。  (・・・リンク→ 日本改造法案大綱   )
その緒権は
「 全日本国民ノ大同団結ヲ以テ終ニ天皇大権ノ発動ヲ奏請シ、
天皇ヲ奉ジテ速カニ国家改造ノ根基ヲ完ウセザルベカラズ 」
と 記し、亦
「 天皇ハ全日本国民ト共ニ国家改造ノ根基ヲ定メンガタメニ、
天皇ノ大権発動ニヨリテ三年間ノ間憲法ヲ停止シ両院ヲ解散シ全国ノ戒厳令ヲ布ク 」
と記している。
以下彼は、この国家改造の主体を軍人とする具体的プランを書きすすめ、
対外政策から世界連邦の構想にまで及ぶ。
そこには戦争の神聖説、血の信仰観が唱われ、 「 剣ノ福音 」 が 説かれている。
これらの北の理論の中で、
左右両翼から誤解ないし曲解される中心点は、その天皇観であった。
陸軍部内に撒布された文書の中には、
「 北一輝は明白なる社会民主主義革命の御本尊にして、
最も徹底せる天皇機関説主義者なり。
名にぞ身の程を知らず国体明徴を口にするをや許さんや 」
と いうのがある。
これは北を誹謗するための文章であるが、
この受取り方は、単なる牽強けんきょう付会の言説ではなく、
北自身の理論が含みもっている一面でもある。
一般に北の 『 改造方案 』 は青年将校に兄弟な影響力をふるったとされているが、
昭和七年の五・一五事件関係の士官候補生は、
公判廷で 『 改造方案 』 にふれ、
「 皇室及ビ国体ニ関スル信念ニツイテ感心シナイ点ガアリマシタ 」
と述べている。
ところがまた、
二・二六事件の主謀者・磯部浅一は、
「 『 法案 』 を 一点一画も修正することなく、完全にこれを実現する 」
ことが蹶起の趣旨であったと書いているのである。
天皇を 「 国民の総代表 」 とする北一輝の天皇観自身に、
「 機関説的天皇 」 と 「 統帥権的天皇 」
が共存している。
そして、そのどちらにアクセントをおくかによって、北解釈は大きく変わってくる。
一種の進歩派は、
北の 『 改造方案 』 の中に、
『 国体論 』 以来の社会主義的見地と天皇機関説発想が
そのまま持ち込まれていると見、
だから彼の二・二六事件連坐は、
自分自身の思想を裏切る出来事への殉難ないし殉教であった、と観察する。
こういう観察眼は、
北一輝の中に、
明治憲法的国家に対する反逆的批判家をみることであり、
さらにそういう反逆が、
明治憲法の益々絶対化されていった昭和前期では
いかなる迫害を負わざるを得なかったかの、
典型的な一例であった、と見ることになる。
而もこのような観察方法は、
この反逆的思想家が、叛乱罪によって、銃殺刑に処せられたという事実で、
一層の真実感で飾られることにもなる。
これに対して、むろん北一輝を、
絶対的天皇を中心とする国家改造を企図した 「 憂国の志士 」 とみる観察がある。
この観察方法は、
磯部浅一や村中孝次、あるいは安藤輝三大尉らと思想的基盤を同一のものとする
「 昭和維新 」 の推進者だったと見ることであり、
北は二・二六事件のかけがえのない指導者であり、
『 改造方案 』 こそ青年将校達の経典であり、
二・二六事件の起爆思想だったということになる。
北と青年将校達の距離は、それぞれによって違う。
磯部や村中がよほど近い所にいたのは事実だが、
それを以て青年将校全体を代表させることは無理である。
ある青年将校は、事件の直前に、
「 国民暴動を扇動して戒厳令を奏請するということは、
陛下を騙し奉るやりかたで 大権強要に属する。
むしろ自分がやるだけのことをやって、
陛下の前にひれ伏すという態度でなければならない 」
と 語っているが
( 『 青年将校運動とは何か 』 ) 、これは北の思想への批判であろう。
そしてこういう考えの方が、
青年将校一般の信念や心情に合致するものであった、と思われる。
そう謂えば、北一輝自身も、逮捕された後の 「 調書 」 で、
「 私のこのこと ( 二・二六事件 ) によって、
改造方案の実現が真に可能のものであるというが如き、
安価な楽観を持っていませんことは勿論でした 」
と云っているのである。
こう見て来るなら、
青年将校と北一輝の距離は、意外に遠かったと謂わざるを得ない。
北一輝は青年将校等と共に、
二・二六事件によって銃殺刑に処せられた。
両者に相似た相互交渉があったのは事実であるが、
両者を余りにも同一観点から論じるのは、
北一輝にとっても、
青年将校にとっても、
誤差や偏差の多い観察となってしまおう。